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『不実のコード』ソースは嘘をつかない  作者: リコウ
第一章 聖域のデバッグ
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第一話:聖域の崩壊

 六月の湿り気を帯びた朝だった。 東京都品川区、大井町駅近くの築年数が浅いマンションの一室で、

久保田澪は午前六時三十分きっかりに意識を浮上させた。


 耳元で鳴るのは、スマートフォンの無機質なアラームではない。彼女が自前で組んだスクリプトによって、枕元のスマートスピーカーが奏でる柔らかなバッハの旋律だ。


「……ん」


 シーツから細い腕を伸ばし、空中で指を弾く。赤外線センサーが動きを検知し、音楽が止まった。

大きく伸びをして上体を起こすと、乱れたセミロングの髪が肩にこぼれる。知性と意思の強さを感じさせる大きな瞳は、寝起きであっても理系の人間特有の、どこか冷徹な観察眼を失っていない。


 彼女はベッドから這い出すと、キッチンへ向かう前にまず、壁際に鎮座する自作PCの前に立った。 青いLEDが規則的に点滅している。個人で所有するには過剰なほどの演算能力を持つそのマシンは、彼女にとってのペットであり、外界の不条理から切り離された聖域だった。


 手慣れた手つきでキーボードを叩き、昨晩から走らせていた深層学習ディープラーニングの進捗を確認する。


「エラー、なし。よし」


 小さく呟き、ようやく彼女の唇に満足げな笑みが浮かんだ。 久保田澪にとって、世界とは論理ロジックで記述されるべきものだった。不確かな感情や、組織内の曖昧な人間関係よりも、一行のコードが導き出す結果の方が、遥かに信頼に値する。


「感情論でシステムが動くなら、今ごろ私は神様になってるわ」


それが彼女の口癖であり、二十代のすべてをシステム開発に捧げてきた自負でもあった。


 三十分後。 鏡の前に立つ彼女は、先ほどまでの技術者の顔を巧みに隠し、銀行員の仮面を被っていた。紺のジャケット、白いTシャツ、デニム というかなりカジュアルな服装であるが、彼女の業種により許されている。そんなカジュアルな格好でも、知的な佇まいは丸の内のオフィス街でも一際目を引く。そんな彼女がカバンに詰め込んだのは化粧ポーチよりも、最新の技術書と、長年愛用している静電容量無接点方式のコンパクトなキーボードだった。


 玄関を出る際、彼女は壁のカレンダーを指先でなぞった。 金曜日の欄には、赤ペンで控えめに

「週末:温泉」とだけ書かれている。 銀行員に世間並みのお盆休みやゴールデンウィークはない。

その代わり、交代で取得する指定休暇こそが、彼女たちにとっての命綱だ。この金曜日を乗り切れば、温泉で大好きな日本酒を飲む待望の二日間が手に入る。


 午前八時十分。 丸の内にある日本最大級のメガバンク、帝都中央銀行本店。 正面玄関の重厚な石造りの柱を通り抜ける。すでに営業担当の行員たちは八時前には出勤しており、フロアには電話のベルや打ち合わせの熱気が満ち始めていた。


「おはようございます、久保田主任」


 廊下ですれ違う若手行員が、背筋を伸ばして挨拶してくる。澪は小さく頷き、自分のデスクがある

DX推進部へと向かった。 業務を担当する彼女たちの出勤期限は八時三十分。しかし、澪はその十分前には必ず席に着く。 メインモニターの電源を入れ、まずは勘定系システムの健全性をチェックする。銀行という巨大な組織が動く際に出る、デジタルの吐息。それを読み解くのが彼女の朝の儀式だ。


 八時四十分。 フロアにチャイムが鳴り響き、各フロア朝礼が始まった。 整列した行員たちの前で、

IT統括部長の佐藤が声を張り上げる。 「本日もお客様の大切な資産を預かっているという自覚を持ち、正確かつ迅速な業務に努めるように。帝都中央銀行の信用は、我々一人一人の正確な処理にかかっている。特に、昨今のサイバー犯罪の増加を受け、不審なメールや挙動には万全の注意を払え。以上!」


 全員が声を揃えて「はい!」と唱和する姿は、軍隊のような規律を感じさせる。自由なIT業界から

転職してきた当初は、この時代錯誤な儀式に目眩がしたものだが、今ではこの重苦しさこそが、日本経済の土台を支える銀行の矜持なのだと理解している。


朝礼が終わった二階の営業第一部のフロアでは、


「坂口君、ちょっと、こっちに来てくれないかな」


営業部次長の黒田くろだの声は、低く、落ち着いた声で呼ぶ。


「はい」


入行三年目の坂口は、背筋を伸ばして応えた。


かつてのようにフロアに怒号どごうが響くことはない。コンプライアンス重視が叫ばれて久しい今、感情をあらわにすることは管理職として「二流」のあかしとされていた 。


「君の今月の融資実行ゆうしじっこう額、目標の三割で止まっているね。働き方改革の影響で、我々の残業時間は厳格に管理されている。限られた時間の中で、いかに効率よく数字を作るか。結果でないのであればやり方を変えていく。それがプロの銀行員としての矜持きょうじではないのかな」


黒田の口調は丁寧で、言葉の端々にさえトゲはない。しかし、その無機質な瞳は、坂口に「代わりはいくらでもいる」と告げていた。追い詰められた人間にとって、静かな論理による否定は、叫び声よりも深く心を削り取る。


「……申し訳ありません。現在、精一杯、動いております」


「期待しているよ。我々は預金者の大切な資産をお預かりしている。その責任の重さを、常に忘れないでほしい」


黒田は穏やかに微笑ほほえむが目は笑っていない。


「はい、かしこまりました。失礼致します」


お辞儀をして自身のデスクへ戻っていった。



 九時。 一階の重いシャッターが上がり、店舗がオープンした。 モニター上のグラフが、一斉に跳ね上がった。全国の支店から、秒単位で数万件のトランザクションが流れ込んでくる。入金、出金、振り込み、融資の実行。膨大な数字の羅列が、澪の目の前を通り過ぎていく。


 彼女はこの瞬間が好きだった。 自分の保守しているシステムが、間違いなく人々の生活を支えている。その手応え。 銀行員としてのプライドは、役職や給料にあるのではない。この、目に見えない巨大な歯車を、一秒の狂いもなく回し続けるという技術者としての良心にこそあった。


営業部では顧客へのアプローチが始まっており、フロアの空気は、数字への執念しゅうねんで熱気に溢れていた。


自席に戻った坂口は、焦燥しょうそうに突き動かされていた。


(今日中に、何としても形にしなければ……)


その時、メールソフトの受信トレイに一通の新着メールが飛び込んできた。

件名は『【重要】融資相談のご依頼(株式会社丸菱精密)』。


坂口の目が輝いた。丸菱精密まるびしせいみつは、彼が数ヶ月にわたってアプローチを続けていた優良な町工場だ 。 「きた……!」 彼は迷わずメールを開いた。差出人のアドレスは担当者のものに酷似こくじしている。本文には『以前ご提案いただいた案件につき、詳細資料を添付します』との一文。


坂口は、添付された圧縮ファイルをクリックした 。


その瞬間、画面がわずかに――コンマ数秒ほど――白く反転し、砂時計のマークが回った。

(おや? 少し動作が重いな) 坂口は首を傾げた。だが、すぐに元の画面に戻り、ファイルが解凍された様子もない。 (サーバーの調子が悪いのか。まあ、後でもう一度試そう)


PCの専門知識を持たない彼にとって、それは日常的な動作の不具合に過ぎなかった。


しかし、その「一瞬の空白」の間に、目に見えない悪意が帝都中央銀行の強固な城壁を内側から食い破っていた。


 午前十一時。 最初の違和感は、定例の負荷監視モニターに現れた。 応答速度レイテンシが、通常よりもコンマ二秒ほど遅い。 一般の利用者なら、スマートフォンの画面がほんの一瞬、固まった程度にしか感じないだろう。しかし、システムの深淵にまで精通している澪の直感は、鋭い警報を鳴らした。


「……何、これ」


 彼女の指先が、流れるような速さでコマンドを打ち込む。 トラフィックのログを確認するが、外部からのアクセス数に異常はない。DdoS攻撃の兆候も見られない。 だが、内部のデータベースサーバーのCPU使用率が、不自然な上昇を見せていた。


「ファイルアクセスが異常に多い。インデックスの再構築? いいえ、違う。これは、内部からのアクセス?」


 澪の背筋を、冷たいものが走り抜けた。 これは、システムが自ら重くなっているのではない。

何かが、システムの内部で、膨大なデータを書き換えているのだ。それも、正規の権限を装って。


「久保田主任! 千葉支店から緊急入電です! 窓口の端末がフリーズして、お客様の預金引き出しができないと!」


 フロアの向こう側から、悲鳴に近い声が上がった。 それを合図にしたかのように、周囲の電話が一斉に鳴り響き始める。


「おい、システム部! ATMのネットワークが落ちてるぞ! 全台だ!」 「オンラインが死んでいく! バッチ処理が止まった!」


 静寂だったオフィスは、一瞬にして阿鼻叫喚の戦場へと変貌した。 澪は椅子を蹴るように立ち上がり、メインコンソールに食らいついた。


「嘘……そんなはずない。ファイアウォールは突破されてないはずよ!」


 彼女は必死に管理者権限でのログインを試みた。しかし、画面に返ってきたのは、無慈悲なエラーメッセージだった。


「Authentication Failed: Administrator account disabled」

(認証失敗:管理者アカウントが無効化されています)


「管理者アカウントが無効? 誰が……まさか」


 澪の脳裏に、数年前に業界を震撼させた顧客情報流出事件の記憶がよぎった。外部からのハッキングではない。内部、あるいは内部と同等の権限を持つ者が、鍵を内側から開けたのだ。


 その時だった。 フロアにある数百台のモニターが、一斉に暗転した。 そして、闇の中から浮かび上がったのは、不気味な髑髏のマークと、血のような赤色で書かれた英文だった。


「Your files are encrypted. Pay 2,000,000,000 JPY via Bitcoin to the specified address within 48 hours. Otherwise, all data will be destroyed」 (貴方のファイルは暗号化された。四十八時間以内に指定のアドレスへ二十億円分のビットコインを支払え。さもなくば全てのデータを破壊する)


 ……身代金、二十億円。 それは、帝都中央銀行という巨大な聖域が、正体不明の悪意によって完全に陥落したことを告げる、死刑宣告だった。 なぜ二十億円なのか。澪の脳裏に冷徹な計算が走る。それは、銀行が社会的信用失墜を恐れて「内密に処理できる」ギリギリの、そして最も狡猾な金額設定だった。


 澪は呆然と立ち尽くした。 目の前のモニターからは、待ちわびていた週末の計画が消え、代わりに暗号資産の送金手順が冷酷に表示されている。 彼女が守ろうとした平穏は、今、デジタルの塵となって吹き飛んだ。


「主任! 頭取以下、役員全員が緊急会議室に集まってます! 十五分以内に現状を説明しろと!」


 血相を変えた次長の佐々木が、彼女の肩を強く掴んだ。その手は微かに震えている。 澪は震える指先を隠すように拳を握りしめ、真っ赤に染まった画面を睨みつけた。


「感情論じゃ、動かないわよね……」


 彼女の瞳から、プライベートの柔らかさが消えた。 代わりに宿ったのは、すべてを焼き尽くすような技術者の怒り、そして、この汚染の正体を突き止めようとする執念だった。


「……ふざけないで。私のシステムで、好き勝手させないわ」


 彼女はジャケットを羽織り、戦場へと向かう兵士の足取りで会議室へと歩き出した。 それは、彼女の人生で最も長く、そして最も熾烈な金曜日の、ほんの始まりに過ぎなかった。



同時刻。

東京・墨田区すみだくのひっそりとした住宅街。 栗栖公理くりすきみのりは、近所のコンビニのレジ前で首を傾げていた。


「……すみません、もう一度いいですか?」


店員が申し訳なさそうに、ATMの方を指差した。

「申し訳ありません。現在、帝都中央銀行さんのカードがすべて使えないみたいで……。通信エラーって出ちゃうんですよ」


栗栖は無言で自分のキャッシュカードを見つめた。

ふと見れば、外の通りにある帝都中央銀行の無人出張所には、すでに数人のサラリーマンが困り顔で

立ち往生たちおうじょうしている。

スマートフォンの画面を叩きながら、「アプリが開かない」と苛立いらだちをあらわにする声が聞こえてきた 。


「……システムメンテナンスの予定はなかったはずだけどね」


栗栖は買おうとしていた缶コーヒーを棚に戻し、店を出た。

歩きながらスマートフォンで大手掲示板とSNSの動向を素早くチェックする。

『帝都中央、ATM全滅』 『モバイルバンキング、ログイン不可』 トレンドの最上段には、すでに不穏な単語が並び始めていた。


彼が経営する『サイバー・アルケミスト』の事務所――古びた雑居ビルの三階――に辿り着く頃には、

確信は深まっていた。


重い鉄の扉を開けると、経理兼ボディーガードの霧島香織きりしまかおりが、険しい顔で大型モニターを眺めていた。


「リコウさん、おかえり。帝都中央、完全に『落ちた』みたい」


「ああ、コンビニでカードを弾かれたよ。最悪のモーニングコールだ」


栗栖は自分のデスクに座り、おもむろにキーボードを叩いた。彼が行ったのは銀行への侵入ではない。公開されているサーバーの「応答速度」と、インターネット上に流れる「トラフィック(通信量)」の異常値いじょうちの確認だ。


「……公式ページは応答なし。DNSサーバーも沈黙している。これは単なるアクセス集中じゃない」


栗栖の瞳が、縁のない眼鏡の奥で鋭く光った。


「ソースコードは嘘をつかない。……帝都という巨大な城壁が、内側から焼け落ちている音が聞こえるよ」


東京の空は晴れ渡っていたが、栗栖の視線の先には、目に見えない巨大な嵐が渦巻いていた。

■スクリプトとは

ITやプログラミングの分野でコンピュータに特定の処理を実行させるためのプログラム。特に短い自動化プログラムや手軽に書けるプログラムに対して用いられることが多い。

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