Scene02:調律殺し
エレベーターは、むき出しの岩盤と旧時代の鉄骨が混在する巨大な地下空洞へと降りていく。
「タルタロス」——神話の奈落の名を冠したその場所は、玲の想像を絶する「混沌」の具現だった。
ペントハウスの「静謐」が嘘のように、ここはあらゆる「ノイズ」が許容されていた。
ホログラムの怪物が闊歩し、物理的なサイバーマスクを装着したマフィアたちが、軍用のサイバーインプラントが詰め込まれたジュラルミンケースを競り落としていく。
中央のステージでは、「魂石」の違法サンプル——おそらくは粗悪な模造品だろう——が、使用者の精神を焼き切る瞬間の「残響」データと共に、高値で取引されている。
玲は「調律者」として、この空間に満ちる「痛み」と「渇望」のノイズに眩暈を覚えた。
桜井がハッキングした「アルゴス」の監視ルートマップを頼りに、玲は壁際の暗がりを選んで進む。目指すは、この混沌の中心に位置する「金庫室」。渉の「遺産」が保管されている場所だ。
「(桜井、金庫室までの最短ルートを……)」
『今、アルゴスの監視パターンを迂回するルートを再計算——待って、玲! そっちじゃない!』
桜井の制止は、一瞬遅かった。
玲が次の角を曲がろうとした、その瞬間。
キィン、と鼓膜を突き破るような高周波が鳴った。
それは「音」ではなかった。玲の魂に直接響く、CIROの「規律」の響き。
「(——!?)」
全身の血が凍り付く。
さっきまで感じていた「鉄の味」と「焦げた臭い」が、一瞬にしてかき消える。
代わりに、玲の舌を支配したのは——
強烈な「腐肉の味」と「血錆の臭い」。
「(あ、が……っ!)」
これは、玲がCIROで訓練を受けていた頃、規律違反を犯した者に与えられる「罰」の幻覚だった。
玲の「共感覚」を逆手に取り、脳に直接「失敗」の味を焼き付ける、CIROの「調教」の記憶。
「久しぶりだな、有栖川玲。——いや、コードネーム『霞』」
暗がりから現れた人影。
冷徹な灰色の瞳。玲がCIROで「指導教官」と呼んでいた男。
イェーガー(Jäger)が、そこに立っていた。
彼の手には、音叉のような形状のデバイス——「アンチ・チューナー」が握られている。
玲の「調律」の周波数を、CIROの「規律」の音波で強制的に中和する、特殊な音響兵器。
「(歌え、ない……っ!)」
玲は魂石に力を込めようとするが、イェーガーのデバイスが放つ「秩序」の波動が、玲の「調律」を根元から封じ込めていた。
「組織(CIRO)を裏切った『汚染源』が。この荒廃した世界は、お前のような制御不能な『ノイズ』が放置された結果だ」
イェーガーは、もう片方の手に握った「精神ノイズデバイス」を起動する。
ジジ、と不快な起動音が響くと同時に、玲の脳を焼く「腐肉の味」が数倍に増幅された。
「ここで『処分』する」
「(——ッ!)」
イェーガーが、CIROの対人戦闘術の体勢で、玲に襲いかかる。
能力を封じられ、精神攻撃に意識を奪われた玲は、為す術もなくその一撃を——
ガギン!!
突如、玲とイェーガーの間に、黒い巨漢が割り込んだ。
ありえない。玲の偽装IDでも、イェーガーの正規ID(VIP客)でもない。
「アルゴス」の監視をどうやってすり抜けたのか。
「——邪魔だ」
その男は、イェーガーの音響兵器が放つ「秩序」のノイズも、玲が苦しむ「腐肉」のノイズも、全てを意に介さない、圧倒的な「破壊」のノイズを放っていた。
「黒龍……!」
なぜ彼がここにいるのか。
イェーガーが体勢を立て直し、新たな「脅威」である黒龍にデバイスを向ける。
そして、玲の頭上、タルタロスの天井に設置された無数の「目」——AI「アルゴス」の監視ドローンが、一斉に赤く点灯した。
『——警告。レベル4のノイズ(脅威)を3体検出。これより、排除シークエンスに移行します』




