第二章【再会、夢の続き】
第二章 【再会、夢の続き】
走る、走る、走る。真っ白な息を吐きながら、後ろを振り返りながら、見慣れた家路をひた走る。真っ直ぐ帰らず、いつもは使わない道もグルグル回って。そんな小賢しい手で上手く撒けるか怪しいが、それでも何もしないよりはマシだと思えた。
彼女は気絶していたし、公園から出た時には追ってきている様子も無かった。多分大丈夫だ。そんな根拠の無い自信で僕は家へと逃げ帰る。
(大丈夫だろう……大丈夫に違い、ない)
息も絶え絶えに、ドアノブに手を掛ける。追いかけられて何かをされるのなら、もうとっくにやられているはずだ。無事に部屋まで着いたのだから、逃げ切ったんだ。僕がそう思ってドアを開くと、
「……遅かったじゃないか。悪いがあまり目立てない身分でね。残念だが君にも死んでもらう」
そこには白髪金眼の少女が待ち構えていた。
「うわあああぁぁぁぁぁぁぁ!」
絶叫して、跳ね起きた。
「あ……あれ?」
辺りを見回すと、ここは見慣れた僕の部屋だった。荒い呼吸を何とか落ち着け、もう一度部屋を見渡す。間違いなくここは僕の部屋で、白い髪の少女など存在しない。
ゆっくり自分の体を見下ろすと、昨日出掛けたままの服装だった。アルバイトから真っ直ぐ家に帰って、そのまま寝こけてしまったのかと……そう思いたかった。
(そうだよ……記憶がハッキリしすぎてる。それに)
袖口に僅かに付着したドス黒いシミ。これは、多分あの蜘蛛の化け物の体液じゃないのか。恐ろしくて、僕は上着を脱ぐと床へと放り捨てた。恐怖を思い起こすそれを、身に着けている事が恐ろしい。
「だらしないな君は。洗濯物くらいちゃんとカゴに入れないか」
「え……あ、と。ごめん」
凛とした声で僕を咎める声がした。なるほど確かに、理由が理由とは言え床に服を放り捨てる行為がいいものとは言えない。こんな事で叱られたのも孤児院以来だな、と僕は布団から体を起こし……起こしかけて固まった。
「まあいい、君が自分の部屋で何をしようが私が咎めるべきでは無いのかもしれん。さて、朝食は用意しておいたので食べるといい。献立は鯵の干物と味噌汁だ」
「あ……あ、あ」
「ん? 鯵は嫌いか? 益々いかんな。好き嫌いも良くない」
「アンタなんでここにいるんだああぁぁぁーーーー!」
彼女のとぼけた答えを吹き飛ばすように叫ぶ。叫ぶつもりは無かったのだが、あまりの驚きとぶり返した恐怖に声が大きくなってしまった。
そこには昨晩の……髪色は元通りの黒に戻っているが、間違いなくあの少女が立っていた。
「この距離で部屋の中だ。叫ばずとも聞こえる」
彼女は僕の大声に顔をしかめる。あまりにも平然と、何も無かったのように、何故彼女はここにいるのだろうか。
「な、なんで。どうして僕の部屋が解ったんだ……」
「うん、解ったというか知ったというか。まあ細かい事は省くが、君の部屋は昨晩知った」
何を言っているかはサッパリ解らないが、とにかく昨日の内に知られていたという事か。おかしい。会ってから碌な会話もしてないし、気絶した彼女を放って逃げた後は誰にも会っていない。自分で言うのも何だが、特徴のある外見でもないので人に聞きながら訪ね歩いたって解るとは思えない。
「どうして、僕の部屋にいるんだ……」
あまつさえ朝食まで用意して。だが、僕の警戒を他所に彼女はあっけらかんとしたものだった。
「いや、私は受けた義理は返さないと気が済まないタチでな」
「は?」
義理? そんな物に思い当たるフシは無い。公園で偶然会って、いきなり出て行けと言われたかと思えば化け物との戦いに巻き込まれ、最終的には彼女を置き去りにして逃げただけである。
「私が眼を覚ました時、ベンチに寝かされていた。あれは君だろう?」
「……そういえば、そうだけど」
あれだって気の迷いだ。あの妙な罪悪感さえなければ間違いなく地面に倒れたままの彼女を放って逃げていた。そんなものに感謝されて、ここまで来られた方がもっと心臓に悪い。
「君の気持ちも解る……君から見れば昨晩の生物も私も、等しく化け物だろう。しかし信じてほしい。この行為に他意は無い、君への感謝なんだ」
「…………」
少し、居心地が悪い。見た目は普通の少女に過ぎない彼女に、「自分は化け物だ」と言わせるのは何か気分が悪かった。ぶり返した恐怖がプラスに働く事もあるのか、異常という前提のもと、彼女という存在を認めつつある。
「いや……すまない。これも所詮は自己満足なんだろう。感謝を捧げることで、当たり前の礼節を掲げる事で……私はまだ人間なのだと思いたいんだな」
僕の沈黙を拒絶の意思だと思ったのか、少女が寂しげに笑う。……僕はお人好しだと思う。害意が無いというならば信じてみてもいいかもしれない。
強いて言うならば……この自分が人に在らざる者に出会ったという高揚感と、妙な優越感のせいかもしれない。
用意された朝食を黙々と平らげる。朝食を食うと言った時の彼女の表情はとても嬉しそうでなおかつ可愛らしく、不覚にも見入ってしまった。落ち着け自分、それでも相手は正体不明の存在で、蜘蛛の化け物を殺せる力を持っているんだと言い聞かせて何とか平静を保った。
「なあ……」
「なんだ?」
そして思い出した。蜘蛛の化け物、その異形の死体。パシンと瞬くように、僕の脳裏に映像が焼き付けられた。
「公園……あのままじゃ拙いんじゃないのか? その、アイツの死体……とか」
死体という部分でつい口ごもる。彼女は彼を殺してしまった事を悔いていたように見える。死体という言葉を出すのは、何故か良くないように思えた。
「……跡形も無く溶解したよ。元々ここの空気は彼にとって猛毒だったんだ……ずっと、辛い思いをしていた」
彼にとってここの空気は肉体を蝕む程の猛毒であり、絶命した彼はその為に溶けて無くなったのだと彼女は言う。しかし、妙だ。生き物が跡形も無く溶けるという事実も妙ではあるが、疑問は……違和感はそこじゃない。
「待ってくれ……なんでそんな『知ってたような』言い方なんだ」
彼女が小さく「しまったな」と呟いた。溶けて無くなったと言えばそれで終わりだったろうに、彼を殺してしまったという後悔からだろう、言わなくてもいい事を彼女は口にしていたのだ。
眉間に指を添え、しばらく俯いていた彼女が意を決したように僕を見た。
「解った、君に話そう。信じられない話だろうが話すだけ話す。……信じたところで君の人生には何の関係も無い話ではあるがな」
何かとんでもなく重たい話が来そうな気がする。さっきまで「意外と美味いな」なんて思っていた鯵の干物は、途端に味がしなくなったように思えた。
◆ ◆ ◆
「まず、名乗りが遅れて済まない。私の名は和。平和の和と書いて和だ。年齢はそうだな……もう四百程になるか」
「……ちょっと待て」
名前はいい。へえ、そんな風に読めるんだくらいで流してもいい。だが四百歳と言われてそうですかと言える訳が無い。目の前の少女、和はどうみても十代。高く見積もっても二十代前半にしか見えない。
「じゃあ何かよ。アンタは何だ、四百年前……えーと、江戸時代くらいから生きてるって言うのか?」
「単純に計算すればそうだな。江戸幕府の終りまで見届けた身だ。慶喜公を見た事もある」
「慶喜公って……」
あまり真面目に勉強した訳じゃないのでうろ覚えだが、彼女の言うところの慶喜公とは徳川慶喜であり、大政奉還だか無血開城だかをやった最後の将軍だったはずだ。
「物凄く胡散臭いんだけど」
「……だから『信じられないだろうが』と前置きしたろう。聞く気が無くなったというなら止めておく」
「いや、続けてくれ」
彼女が何時代の人間だろうが、蜘蛛の化け物を見たのは事実である。多分この話には先があって、聞きたい事はそこにあるに違いない。
「ふむ……何から話したものかな。先ずは私という存在が何故生まれたかという事からか。……君はABC兵器という物を知っているか?」
「……いや、あんまり聞かない」
平和な時代だ、無理もなかろうと彼女は肩を竦めた。
「A(Atomic) B(Biological) C(Chemical) の三種の兵器を示す言葉だ。尤も今はAが原子爆弾に限られないのでN(Nuclear) BC兵器とも言うがね」
更に言えばそこにR(Radiological) を含めてABCR兵器やNBCR兵器とも言われるらしいが、放射能兵器は大別すれば核兵器と同類なのでABCの三種だろう。
「だが今から更に遠い未来……ついにABC兵器に続く四つ目の兵器であるD兵器、次元(Dimension)兵器(Wepon)が開発された」
「待て、待った。なんで四百年前から『今から更に遠い未来』になるんだよ」
「尤もな疑問だ。その解答も含めてもう少し耳を貸してほしい」
「……解った」
どうやら事あるごとに突っ込んでいては話が進まないようだ。ここは余計な事を聞かずにいったん全部聞いたほうが良いだろう。
「次の千年紀を越えても尚、人類から戦争が絶える事は無かった。最早『国』という概念さえ曖昧になり、ただ力ある者同士の争いとなった頃にそれは生まれた。《支配者》を自称する一団が」
随分と偉そうな名だ。力ある者のみが上がれる戦場という舞台。そこで支配者を謳うとあらば、相当な自信が感じられる。
彼女曰く混沌とした世界を統一し、彼等の支配の元で平和を築くなんて謳い文句を掲げたらしい。とんだヒーロー気取りだ。
「突然台頭してきた支配者たちは、その名に恥じぬ力を持っていた。件の次元兵器は勿論、陸上・海上・航空兵器に至るまで他に類を見ない物だった」
そして支配者の振るった猛威は瞬く間に世界を席巻し、彼らは「世界の敵」になったらしい。強力すぎる力は疎まれ、争っていた勢力が協力し合ってでも排さなければならない存在となったのだ。
……恐ろしいのは、その「世界連合」を相手にしても瓦解しなかった《支配者》なる一団である。
「次元兵器は人為的に次元の断層を生み出し、そこに対象物を取り込む事でこの世界から消滅させる。規模は個人から都市、世界まで指定が効く上に汚染の心配も無い……侵略し、支配するには理想的な兵器だったろう」
「……そんなモンがあったなら戦争なんて起きないと思うんだけど」
つい突っ込んでしまったが、おかしな話だ。そんな強力で便利な兵器があれば戦争なんて続ける必要が無い。敵対勢力を丸ごと消せば済む話だ。
「簡単な話だ。次元兵器は強力である反面、使用エネルギーの膨大さから連続使用が出来ない弱点があったんだよ。それも充填に掛かるような時間は一回数ヶ月に及ぶような、致命的なものがね」
更に次元兵器は指定範囲こそ自由だが、指定数は一。一度の使用で一箇所しか攻撃出来ないという制約もあったらしい。
「とは言え強力な兵器である事には変わりない。何せミサイル等と違って発動すれば防げないんだ。そして次元兵器の充填時間を補う兵器の数々もまた強力だったからね」
エネルギーのチャージ時間という弱点は、世界連合にも容易に察する事が出来ただろう。僕の考えた通り、そんな強力な物ならガンガン使ってさっさと世界を制圧すればいいのだ。
そして、世界連合軍はエネルギーチャージ時間の間隙を突いて攻撃を仕掛け続けたのだろう。
「次元兵器以外の物も強力ではあった。しかし世界連合は物量作戦で何とか押し切っていったんだよ。結果、多大な被害を出しながらも支配者の喉下に喰らい付いた……しかし、支配者たちは最後の最後にとんでもない真似をした」
「…………」
僕は息を飲んだ。聞いていれば支配者とやらは既にとんでもない存在だった。そんな奴らがとんでもない真似をしたと聞いて、碌な事をしなかったであろう事は簡単に想像できる。
「彼らは次元兵器を暴走させた。発動は勿論、制御に使うエネルギーすら用いて。……結果、世界連合どころか世界そのものが滅んだ。人類の歴史はそこで終わったと言ってもいいだろう」
「なんだよ、それ……」
負けるくらいなら全てを巻き込んで自爆してやろうだなんて、それはどこまで歪んだ矜持なんだろう。次元兵器という最強のカードをもってしても敗北したという事実は、支配者を自負する彼等には耐え難い事だったのか。
ただ何にせよ、僕がもう生きてもいないであろう未来の事とは言え人類の歴史がそこで終りと言われては心中穏やかではない。
「だがね、問題はその後だったんだ」
「まだあるってのか?」
「そうだ。暴走した次元兵器は無作為に次元断層を生み出し……結果として次元断層はこの世界の様々な時代、そして私たちの知らない別次元へと繋がったんだ」
「じゃあ……あの化け物は」
「お察しの通り、別次元の生物だよ。彼らのような生物はこの世に……この世の様々な時代に流れ着く事になった」
そして、古い時代に流れ着いた者はその奇異な姿を「妖怪」として伝えられる事にもなったという。僕が目撃した彼も、この世界で付けられた「土蜘蛛」という仇名があった。
「私も次元断層に巻き込まれたクチでな。私はごく普通の農民でね……野良仕事をしている最中だったよ、突然空が割れて私はそこに吸い込まれた」
「……それでこの時代に流れ着いた、とか?」
「惜しいところだ。それだけならある意味マシと言える。……私は次元断層の中で、コイツに出会った」
彼女はおもむろに上着のボタンを外していく。慌てる僕を気にした風も無く、片手でグイと胸元を開いた。そこには飾り気の無い白いブラジャーが見えていたが、慌てて目を逸らす前に……そこにあった異形に目を奪われた。
「それ……なんだ?」
彼女の左の乳房よりやや上、白い肌にジワリと広がる薄黒い染み。その中央には、蒼い単眼を爛々と光らせる……蛇のような生き物の頭部が浮かび上がっていた。
「自律戦闘兵器《神威》、その核となる生物だ」
「カム……イ……?」
「そうだ。かつて《支配者》が自分たちを神だと称し、その威を示す為に生んだ兵器だ」
彼女の胸元にある蒼い単眼は、まるで彫刻のように動かない。このままなら特殊メイクか何かと言われれば信じるだろう。
「次元断層の中でね、未来から吹き飛ばされたであろうコイツにぶつかった。そのショックでかな? 私はこの世界に押し戻された……無事にとは行かなかったのだがね」
「……何が、あったんだ?」
「まず私はコイツがぶつかった時に体内に潜り込まれ……神威にされた。そして、次元断層に巻き込まれたせいかは解らないが……私は死ねない体になったんだ」
そんな馬鹿な事があるものかと、話を聞いただけなら笑い飛ばせる。しかし僕は「土蜘蛛」を見ている。そして、その土蜘蛛を殺害せしめた力が「神威」としてのものであるなら。そう考えれば解らなくは無い。
そして体内に巣食った神威には意思と記憶があったのか、彼女はその小さな生物から未来で起きた事実と次元断層に関する知識を吸収したという。
「以来、私は旅をしている。神威の力か、次元断層に巻き込まれた副作用かは知らないが、私は次元断層の発生を感知出来るんだ」
「……次元断層の場所を探してどうするんだ?」
僕の言葉に彼女は笑った。先ほどの寂しげな笑顔とは違う、何かの決意に満ちた凄絶な笑顔を浮かべている。
「次元断層を辿って、未来へと進む。……次元兵器を作り出す直前の未来まで至り、その存在を無かった事にする。そして私は…………人として死にたいんだ」
その答えに、僕は言葉を無くした。
過去から生き続け、未来へと生き続ける。
その目的は死ぬ事だと。
生きる事が素晴らしい事だとか、死んじゃダメだなんて所詮は凡人の観点かもしれない。生きてる理由が見つからないから死にたいとか、そんな事を軽々しく口にするバカな奴らをネットなんかでよく見てきた。
「……そう、か」
でも、彼女は違う。
彼女が本当に人間じゃなくて、何百年も生きてきたというならば。
その長い時を一人で生きてきたならば。
知り合った人間が老いて死んでいくのを見てきたならば。
僕は、彼女が死を望む気持ちを否定したりは出来ない。不謹慎だが、その願いが早く果たされるようにと願ってもおかしくない。
確かに僕も一人で生きている。でもそれに耐えられるのは、いつか僕自身も老いて死ぬというゴールがあると解っているからにすぎない。彼女には……そのゴールが用意されていない。
「その……なんだ、上手く行くといいな」
「……君はこの話を信じるのか?」
僕は皮肉でも何でもなく、本心からそう言った。それを察したのか、彼女は不思議そうに首を傾げた。まさか信じてもらえるとは思って無かったのだろう。
「……話だけ聞いてればね。でも僕は『土蜘蛛』を見たし、アンタの力も見た。だったら、そういう事もあるかもしれない」
「優しいな、君は」
そう言って彼女は再び微笑んだ。寂しげでも無ければ凄絶でも無い、初めて見るごく普通の笑顔。それがあまりに普通すぎて、途端に現実感が強くなる。照れくさくて僕は目を逸らした。
「悪いんだけどさ、前を閉めてくれないか? その……目のやり場に困る」
「うん? ああ、そうだな。見苦しい物を見せたままで済まない」
彼女からすれば胸元にある神威の核を指しての事かもしれないが、単純に胸元が肌蹴たままの女性が目の前に居ては精神衛生上よろしくない。
僅かな衣擦れの音を背に、僕は彼女がボタンを閉めるのを待っていた。
「待たせたな、すまない」
振り返った時には来たとき同様の格好に戻っていた。……聞き入っていたとはいえ、一時なりともあられもない姿のままで話を続けさせていたのだから申し訳ない事だ。
「さて、そして君の最初の疑問……何故彼の事を『知っていた』のかという話だ。私が使った力は見たな?」
「……ああ」
土蜘蛛の凄惨な死に様を思い出し、少し胃から込上げてくる物があったが何とか我慢する。
「私に備わった力は次元と時空に干渉する能力だ。あの時使ったのは転送能力の一種でね、幾らか制約はあるが物資を任意に転送する事が出来る」
聞けば、土蜘蛛と戦った時はガスボンベの中身……圧縮されたガスを土蜘蛛の体内に送り込んだらしい。つまり土蜘蛛の中でガスが一気に膨張した結果、内側から爆破されたという事か。
「強力な力ではある……しかしペナルティもあってね、この力を使うと周囲の生物が持つ記憶が流れ込んで来るんだ」
「……記憶?」
「ああ、これは中々の地獄だぞ? まったくの他人が経験した記憶を自分の記憶のように見せられるんだ。力を使った量にもよるが、下手をすれば精神崩壊が待っている」
そこで合点がいった。つまり彼女はあの土蜘蛛の記憶を体験する事で、彼の歩んだ人生の一部と共に苦痛すら共有した。
初めて会った時、彼女の発した「……どうして、僕が」は僕の記憶を共有した事で、自分を僕だと錯覚したという事か。
「ご明察だ。あの時の私は自分を君だと錯覚していた……もう一人の自分が目の前にいたように思えたのだろうね」
更に言えば、僕の記憶を吸収したのだから部屋の場所など解って当然という事だ。
「……今までにも、そんな事が?」
「あったよ。しかし人間の脳は他人の記憶を取り込むだけの容量が無い……精神崩壊のリスクはすぐに気付いた。だから可能な限り力は使わないようにしている」
「戦わなければ良いんじゃないのか?」
「……残念ながらそうもいかん。次元断層から戻った事で、私は断層を感知出来る代わりに似たような周波を発しているようだ。そのせいで次元断層絡みで相手から寄ってくるのさ」
彼女自身を次元断層と勘違いするか、または次元を統べる力があると勘違いして関わってくるか……そのどちらであろうとも、彼女に拒否権は無いという事だ。
例の土蜘蛛を見ていれば解る。あれ程に切羽詰っていれば、何とかして欲しいという希望だけが先走り彼女の意思を確かめる余裕なんて無くなるだろう。
「些か余計な事も話してしまったが、話せるものは大体これで全部だ」
「あ、ああ。うん」
正直狐につままれたような気分だが知りたい事は知る事が出来たし、僕の命に危険が無いという事も解った。やっと安心出来た気分だ。
「……さて、恩義も返す事が出来たし君を安心させる事も出来たようだ。私はそろそろお暇させて頂くとしよう」
「え? ああ、行くのか?」
「うん。言ったろう? 私がここにいてはまた厄介事が起きかねない。君の為にも早々に退散するさ」
その言葉に、少し罪悪感を覚えた。現金な話だが、僕にとって安全な相手であると解った事で情が移ったのかもしれない。傲慢な考えかもしれないが、彼女の人生を聞いて同情の念を覚えてしまったのかもしれない。
だって、規模も深さも時間も段違いだけど……彼女も僕も、独りじゃないか。
「近く、この街のどこかで次元断層が発生する。不用意に出歩くなよ」
彼女はコートを羽織り、玄関に向けて歩き出す。僕は、その背中に声を掛けることにした。
「解った。でも、なんだ。僕もバイトとかで出掛ける事もあるし……えーと、まぁ会ったら缶コーヒーくらいは奢るよ」
それくらい良いんじゃないかと僕は思った。彼女は長い時を生きてきて、これからも長い時を生きていく。その中で、ちょっとくらい思い出があったっていい。思い出して、そんな事もあったなんて笑えるような思い出が増えたっていいじゃないか。
僕の申し出が余程意外だったのか、彼女はキョトンとした顔だった。
「ふふ……そうだな、じゃあもしも会えたらご馳走になろう」
でも、僅かな時を置いて彼女は嬉しそうに笑った。じゃあな、とドアを開けた彼女を玄関で見送る。少しの間彼女の背を見送っていたけど、彼女は振り返る事無く街角へと消えていった。
玄関から部屋に戻る途中、コンロに掛けられた鍋に目を留めた。ちゃんと作られた味噌汁なんていつ以来だろう。夕飯はスーパーかコンビニで適当な惣菜を買うにしても、この味噌汁は晩もありがたく頂こう。
僕が彼女の話を聞いたのは、安心したかったのも理由だけれど……遠い昔に忘れた温もりを感じさせてくれた礼かもしれない。
「……サンキュな」
僕は、今はいない彼女に感謝の言葉を呟いた。