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第一章【回想、絶望に至る起点】

第一章 【回想、絶望に至る起点】



 夜泣きする赤子にイラついて虐待死。

 都内公園に男性の変死体発見。

 未成年男子複数の暴力による壮年男性死亡。

「……ビックリするくらい腐ってる」

 ネットのニュースサイトを見て溜息が漏れた。最近……と言っても数年は経つが、世の陰惨な事件は枚挙に暇が無い。平和な日本なんて言っても死はあまりにも身近。事故死や病死では無く、確固たる殺意によってもたらされる死がこんなにも多い。

「平和だから……だろうけどな」

 正直、僕はそう思っている。五十数年前から日本はもう戦争をする事は無く、戦争に加担する事も無く、平和を謳う国になった。日本人は持ち前の器用さで文明を大きく発達させ、世界との流通はこの国を潤した。第二次世界大戦直後、団塊世代と呼ばれる者たちの手によってこの国は経済大国へと生まれ変わったのだ。

 だがどうだろう、先人によって雛形が固められたこの国の進化は腐敗の一途を辿った。加害者に甘い刑法、法に守られた未成年。「むしゃくしゃしたので誰でもいいから殺したかった」なんて犯罪が横行する国に成り下がった。

(与えられたが故の腐敗、か)

 今のこの国を作り上げたのは、戦争を越えた大人たち。彼らが作り上げた世界を受け取っただけに過ぎないこの国の若者は……僕たちは、自分たちの世界が腐っていくこと憂う事が出来ないのかもしれない。

 この国を作り上げたという誇りが持てない僕たちは、これが当然だと受け入れて。与えられた世界を、勝手気ままに壊すだけで。モニターから目を逸らすと、時計が目に入る。どうやら思ったよりニュースに見入っていたらしい。……もうバイトの時間だ。

「さて……行くか」

 財布と携帯だけをポケットに押し込んで僕は部屋を出た。「行ってきます」と言う必要も無ければ振り返る必要も無い。後ろ手に閉じたドアの先には誰もいない。

 僕は、一人で暮らしているからだ。


 僕には親がいない。有り体に言えば捨て子というやつだ。生みの親に捨てられたという事実は不幸なのだろうが、幸いにも暖かい春の路地裏に置き去りにされた僕は一命を取り留めた。

凍えるような冬であれば死んでいただろうし、野犬の類が徘徊していなかったのも幸運だったと言える。まさに不幸中の幸いといったところか。

『あなたの家族は私たちよ』

 そう言って微笑んでいた老女……僕が引き取られた孤児院の院長先生の笑顔が、僕の覚えている最初の記憶である。

「……おはようございます」

「はよーッス」

 バイト先で同僚に挨拶すると、気の無い返事が返ってきた。特に友好の念も無ければ嫌悪の念も無い。まさに仕事の上でしか付き合いの無い乾燥した間柄だったが、それでいい。それが僕の望みだからだ。


 自分の周囲に人を置かない。いつからか僕はそれを好むようになった。理由は……結構鮮明に覚えている。

 本当に幼い頃。僕はまだ四つか五つの子供だった。その頃は同じ孤児の仲間同士でよく遊んでいたし、子供向けの特撮番組の真似事をして飛び回っていた事も良く覚えている。あの(・・・)も、僕は友人達とそうやって遊んでいたのだ。

《ギキキキキィィィーーーーー!》

 今も、その甲高いブレーキ音が耳に張り付いている。院長の言いつけを破り、孤児院の敷地外で遊んでいた僕は交通事故に会った。道路へ飛び出した僕に白い乗用車が突っ込んでくる。それはどれほどのショックだったのか、僕は衝突の痛みも感じないままに気を失った。

『お外に出ちゃダメだって言ったでしょう!』

 病院で目を覚ましたとき、院長先生にこっぴどく怒られた事を覚えている。いや、心配して泣きながら病室に飛び込んで来てくれたのだけど、子供なんて怒られた事の方が記憶に残る物で。

 でも、それよりも僕の心に強く残ったのは……友人達が誰一人見舞いに来てくれなかった事だった。

「ねえ、どうして誰も来てくれないの?」

「どうしてかしらねぇ……皆にもお見舞いに来てあげてって言ってるんだけど……」

 僕は幼いながらに皆の情の薄さを恨んだものである。それでも、孤児院が世界の全てだった僕に皆を嫌う事は出来るはずもない。

 僕が事故にあったせいで、怖い思いをさせてしまったんだ。

 きっと、僕が事故にあったから皆は院長先生にすごく怒られたんだ。

 帰ったら謝ろう。ちゃんと謝ったら、またいつも通りの日々が返ってくる。

 そう信じて暗い感情を無理矢理捻じ伏せ、病院での日々を過ごした。でも、やっと退院して帰った孤児院では……誰一人僕の無事を喜ぶ者はいなかった。

「ど……どうしたの?」

「…………」

 僕が話しかけても、誰一人答えてはくれなかった。毛虫か何かを見たときのように、ギャーギャー騒いでくれたほうが多分マシだったろう。子供心にそれは酷く傷付くだろうが、自分が相手にされている実感はあったはずだ。

 でも、そうじゃない。かつての友人たちは、僕を知らない人間を見るような目で見ていた。先生たちの背に隠れたまま、黙りこくって。

「ね、ねえ!」

 堪らず僕は当時の親友に駆け寄った。彼なら何か答えてくれる。ヒーローごっこだって、他の遊びだって、その子とは何をしても楽しかったし息がピッタリだった。

 親友の手を握り締める。

「……っ!」

「……え?」

 でも、その手は無言で振り払われた。「触るな」と、拒絶する言葉も無しにただ振り払われる。たとえ拒絶の言葉でさえ僕には掛けたくないとばかりに乱暴な手つきで。

 僕は、そこで絶望した。

 きっと僕のせいで何か嫌な思いをさせたのだろう。

 でも、僕だって被害者で怖い思いをしたのに。

 不思議とそこで泣き出すことも出来ず、僕は友人という存在を諦めた。幼く単純な思考は、自分を拒絶する者をあっさり敵として認識したのだ。そしてこの時から、僕には他人へのどうしようもない不信が根付いたのだと思う。

 そこから年月も経ち、行動範囲が孤児院から学校というフィールドに移っても僕は独りだった。尤も、それに関しては作為的なものだったけれど。

 極力目立たず人と接触しない。かといって大人しくしすぎてイジメの標的にもされないように適度に動く。遊びに誘われれば居もしない友人を盾に辞退し、断り切れない時は場を不快にさせない程度に遊ぶ。

「おまえってホント面白味ねーな」

「そ、そうかなぁ……」

 かつて級友にそう言われた時、僕は困った顔をしつつも内心では満足げにほくそ笑んでいた。そうだ、これでいいと。

 誰にも好かれず、誰にも嫌われず。

 誰も恨まず、誰も羨まず。

 決して大きく感情が動かないようにと。

 例え疎まれているのだとしても、面と向かって言われないならどうでもいい。

 正直な話、それが裏切りを恐れる僕の臆病さだと解っていた。心の奥底では、幼い日のように親友と笑いあう日々を望んでいた。それでも僕の心に張り付いた幼い日の傷跡は……どうしようも無いくらいに僕から勇気を奪っていた。

 人間関係に苦痛を感じていた僕は高校にも居辛くなり、学校を中退して働きに出る事になった。院長先生に後見人になってもらい、今はコンビニのアルバイトで生計を立てている。


キシ、と軽い音がした。それが自分の歯軋りの音だと気付く。まるで叩き付けるように甦った負の記憶に、知らず歯を噛み締めていたらしい。

「どったの? ボーっとして」

「あ……いや、何でも無いです」

「ああ、そう」

 僕の簡潔な返答に、同僚はそれきり興味を失ったようだ。仕事に入ったばかりの頃は頻繁に話しかけられたものだが、今では仕事に必要な会話以外は交わさなくなった。

 仕事に戻った同僚から店内に目を向ける。ダメだな、どうにも昔の思い出に耽ってしまっていたらしい。朝方にはサラリーマンやOL、工事現場の作業人が一気に押し寄せてくるのであまり気を抜いていられない。

「混む前に袋補充しとこうぜ」

 そういって同僚はコンビニ袋の補充を始めた。朝のラッシュ中にコンビニ袋が切れたらそれだけで結構なタイムロスになる。僕は同僚に倣って袋の補充を開始した。


 夕方、コンビニのバイトを終えて僕は家路につく。

「……もうちょっとシフト増えないかなあ」

 特に専門学校に通うわけでもなく、家に居る時間以外はバイトをしている僕にとって仕事量が増える事は問題じゃない。

 むしろ趣味らしい趣味の無い僕からすれば、暇な時間を仕事で潰せて給料も貰えるとあっては願ったり叶ったりである。しかし、残念ながらバイトは僕だけではないのでシフト調整の関係でそうもいかない。

「ま、仕方無いか……」

 他のメンツだって金が必要だから働きに来てるのだし、僕だけが文句を言えるはずも無い。それにどっちかと言えば多めに勤務時間を割り当てられているので、この文句はある意味贅沢とも言える。

「まだ時間も早いか……」

 時間は夕方六時。さすがに帰って飯を食って寝るには早過ぎる。帰ったところでこの時間じゃ特に興味も無いテレビを見て過ごすか、ネットでサイトの巡回をするくらいが関の山だろう。

「本屋にでも行こうかな」

 勤め先のコンビニから、駅近くの商店街へ足を向ける。少し歩くが、どうせ暇だし良いだろう。家賃が安いからと駅から遠い所に部屋を借りたのは失敗だったかなと時々思うが、どっちみち生活の殆どは部屋をバイト先の往復なのだ。

「ついでに晩飯でも食って帰るかな……」

駅前にある飲食店を幾つか思い出し、何を食おうか思案しつつ歩き出す。一人で暮らす事が出来るようになってから、何の目的も無く、ただ生きる為に漫然と生きる。

それがこの僕の、北条崇(ほうじょうたかし)の人生だった。


◆◆ ◆


 わざわざ本屋まで足を伸ばしたのはいいが、特に目当ての本があった訳ではない。定期購読している雑誌は無いし、単行本を買い集めるような漫画や小説も無い。

「……我ながらつまらない奴だな」

 対外的につまらない奴を演じている自覚はあるが、プライベートまでつまらない人生というのは寂しすぎる。他人と関わらない人生なら、一人の時くらいは熱中出来る何かが欲しい。

 ところが、そう思って一人で出来るものを幾度と無く探してはやってみたけど、中々しっくり来ずに長続きしない。携帯ゲーム機の購入も考えた事はあるが、最近のゲームは通信機能を使って多人数で遊ぶ事を想定した物が多く、それを理由に敬遠している。

「仕方無い……飯でも食って帰るか」

何となくで適当な雑誌を買うほど酔狂でも無いし、使わなくていい金は使わない。一人暮らしの身は何かと物入りだし、緊急時には金があった方がいい。たかが雑誌一冊の金ではあるが、こういう物は心構えの問題であって値段云々では無いのだ。

本屋まで来る時間と、何か買おうかと考える時間。暇潰しという目的自体は達成できたのだし、良しとしよう。自動ドアのガラス越しに見える風景は、とっくに夜闇に包まれている。

自動ドアのセンサーに触れて外へ出た瞬間、冷たい風が髪を揺らした。

「寒いな……」

 隙間風が入らないように、マフラーを締め直す。晩飯はどこかの定食屋で温かい物を食おう。僕は色とりどりに輝く飲食店の看板を眺め、ぶらぶらと歩き始めた。


 晩飯には和風の商品をメインで扱うファミリーレストランで鍋焼きうどんを食べた。

ファミリーレストランを出て家へ帰る途中、食後で高まった体温が吐く息を普段より強く白に染める。無駄に息を吐いては息の白さを確かめる行為が妙に面白い。

 後になって冷静になると馬鹿馬鹿しい事この上無いのだけれど、ツボにハマった時というのは何が面白いか解らない。駅前から少し離れて周りに人が居なくなった事もあって、僕は子供のように息を吐き散らして遊んでいた。

「……ん?」

 その時だった。視界の隅にチラリと白い物がよぎった。最初は自分の息かと思ったけれど、よく思い出すとそれが「白い息越しに見えた、より白い物」だったと思う。

「どっちだっけ……」

 白い物が見えたと思う方向を見ると、そこには公園があった。公園の入り口には白い石のプレートに「御岳(おんたけ)公園」と彫り込まれている。確か、駅前に行く時によく見掛ける公園だ。

「……おかしいな」

 そう、見慣れたはずの公園は妙におかしかった。駅からやや離れている事もあって、この公園は大きめの自然公園になっている。その為に木々が多く茂っているのは当然だと思うが、こんなにも闇が深かっただろうか?

「街灯が切れて……ない」

 妙に深い闇は街灯のせいかと思ったが、点々と灯る街灯は皓々と光を放っている。ならば、どうしてこうも闇が深いと感じられるのだろう。

「…………」

 止せばいいのに、止せばよかったのに、僕は公園に足を踏み入れた。シンと静まった公園の空気に、知らず息を飲む。この辺りは車の通りが少ないとは言え、この静けさは異常だ。

 公園内のハイキングコースを一人歩く。不気味な静寂は未だ終わらず、自分の呼吸音がハッキリと聞こえる程だ。

「……やばいな、帰ろう」

 あまりの静寂に、好奇心よりも恐怖心が勝った。しかし、踵を返して歩いてきた道を逆行しようとしたその時。そこに、誰かがいた。

「こんな所に一人で……何やってんだ?」

 そこには、一人の少女が佇んでいた。

 ハイキングコースから少し外れた位置にある広場。中央には噴水があるが、今は夜なので水も止まっている。人目を避けてカップルがイチャつこうというならまだ解るが、そこには彼女一人しかいない。

 彼女の服は真っ白いコート。なるほど、先程自分の息越しに見えた白い物は彼女のコートだったのか。そんな風に一人で納得していた僕に気付いたのか、白いコートの少女がこちらに顔を向けた。

「……どうしてここにいる?」

「へ? ……え?」

 開口一番、彼女は不機嫌そうに眉根を寄せてそう言った。話しかけられた事で彼女を強く認識し、再度その顔を見た。

 振り向いた拍子に流れた髪は、白いコートの上にある事でより映える艶やかな黒。眉根を寄せているせいで少し険のある顔になってしまっているが、端正な顔立ちである事は容易に理解出来た。

「……すぐに公園から出て行くんだ、すぐに」

「え、いや、その」

 あまり女性らしいとは言えない強い口調。訳も解らずにただ「出て行け」と言われて狼狽する僕を、彼女の目が苛立たしげに睨みつける。その目は鳶色というにはやや明るく、亜麻色に近い。僕と彼女の距離はそれなりにある。それでもハッキリと見えたその目に、僕は引き付けられたように目が離せなかった。

「聞こえていないのか? 早くここから出て行けと……」

 彼女は怒ったように声を荒げていたが、その言葉が途切れる。コートの端がはためく程の速さで、彼女は広場の中央に振り返った。

「何も聞くな、何も考えるな、いいから早く出て行け」

「わ……解ったよ」

 いくらなんでも初対面の相手にここまで高圧的な態度を取られては気分が悪い。美少女だと言う事を加味しても関わるのは気が引けた。

 少女の態度に、鼻を鳴らして踵を返す。興味本位で立ち入っただけで気分を害すハメになるとはついてない。そう思って一歩踏み出した瞬間、ガシャっと大きく何かが割れるような音が響いた。

「な……」

「早く逃げろぉぉぉッ!」

 なんだと言おうとした瞬間、少女の怒声が響く。だが僕は振り向いてしまった。言い訳かもしれないが、逃げろと叫ばれて「ハイ逃げます」とすぐさま駆け出せる奴はそういないと思う。

 逃げるというのは、脅威を認識した上でやる事だ。何が脅威なのか、それが脅威なのかそうで無いのか。何かが割れたような音だけで全てを認識出来るはずも無い。

「うわ……うわあああぁぁぁぁ!」

 しかし、結局それは脅威だった。正しくは脅威というよりは恐怖と言うべきだったろう。そして、その恐怖を認識した結果……僕は腰を抜かしてしまった。


 僕の視界の先に、巨大な蜘蛛が浮遊していた。


 その姿を見た瞬間、情けないくらい悲鳴も枯れた。

 逃げろ、逃げろと本能が叫んでいる。それなのに両足は地面に根を下ろしたように動かない。昔、子供たちが小さくなってミクロの世界を冒険する映画で巨大な蟻と遭遇したシーンを見たが、掌にも余るサイズだったものが巨大である事がここまでの恐怖とは。

「何をしている! 早く逃げないか!」

 少女の声が遠い。彼女の叫び声も掠れるほど、僕は恐怖に囚われていた。ああ……蜘蛛が巨大であるだけでも充分な恐怖だというのに、それは蜘蛛ですらない化け物だった。

【ギシャアアアアアァァァァーーーーー!】

 その生物が、甲高い咆哮を上げた。巨大な腹、八本の足、そこを見れば確かに蜘蛛。しかし、頭があるべきその位置に人間の上半身が生えている。尤も首の上に据え付けられた頭は蜘蛛のもので、より化け物である事を際立たせていたが。

【見……ツケ、タ……ゾ……旅人!】

(しゃ……しゃべった……っ!?)

 見るからに化け物じみたソレが、たどたどしくも人語を発した。そいつは僕を意にも介さず少女を八つの目で見据えている。化け物の発した言葉の意味は理解出来ないが、どうやら明確に彼女を目的としているようだった。

【連レテ、イケ……俺ヲ! 連レ、テイケ!】

 化け物は叫ぶ。両手を広げ、牙を打ち鳴らし、威嚇するように。僕にはその姿が何故か……懇願しているようにも見えた。恐る恐る少女のほうを見るが、彼女は先ほどと変わらぬ佇まいで化け物を見上げたままだ。

「悪いが無理だ。……私には君を救う術がない。渡る力はあっても、行き先を決める力は持ち合わせていないんだ」

 しかし彼女は冷然と化け物の要求に拒絶の意思を示した。僕からは彼女の後姿しか見えていない……しかしその背から感じる気配が、彼女の決然とした表情を容易に想像させた。

【グ……ググゥ……ウゥウ……!】

 化け物が唸る。ブルブルと身を震わせ、牙を打ち鳴らす音がどんどん大きくなっていく。直感的にやばいと理解した。まるで爆発する前の爆弾を見るような気持ちと言えばいいのだろうか?本物の爆弾なんて見た事が無いので正しい表現かは解らない。

(やめろよ……刺激するなよ……)

 僕は祈るように彼女を見た。場の流れから言えば、恐らくこれ以上何をしなくてもヤツは爆発する。それでもひょっとしたら、人語を解するのであれば穏便に事を運べるのではないかと淡い期待を抱いていたのだ。

「諦めてくれ」

「…………ッ!」

【…………ッ!】

 僕の祈りは届かず、彼女はにべもなく化け物の要求を斬り捨てた。彼女に思い切り馬鹿と叫びたかったが、恐怖に麻痺した声帯は音を発さず乾いた息を吐き出した。同じく化け物も息を吐き出していたが、恐らくは怒りによるものでは無いだろうか。

【オ…オオァァアアーーーーーーッ!】

 案の定、決壊した。蜘蛛の体から生えた上半身を振り乱し、怒りの咆哮を上げている。一際大きく叫んだ後、蜘蛛はその場で足を屈めて大きく跳躍した。

(な……なんだっ!?)

 周囲の木々が大きくたわむ。化け物の跳躍で震えたソレが見えた瞬間、宙に浮いていたかに見えた化け物は、公園の木々に張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣に立っていたのだと理解した。

 遠くにあるものは相変わらず見えないが、真上にある木の枝を凝視すれば街灯の光を照り返す細い糸がある。それはあまりにも細く、こんな物が化け物の巨体を支えていたとは信じられない。

「ちィっ」

 少女は舌打ちして真正面へと跳躍する。肩口から地面へと飛び込んだ彼女は器用に地面を転がると、先ほどまで自分が立っていた場所を睨みつけた。その空間に一瞬の間を置いて化け物が降ってくる。

【ギシャアアアアァァ!】

 ドズン、バキバキと地面を抉り、植え込みの枝を圧し折る音が響く。震えながらも何とか立っていた足は、ここに来てついに力を失った。僕は落ちるように地面へ尻餅をつく。

 もうもうと巻き上がる土煙の中で、赤い八つの光が灯った。直感的もクソも無い、それが化け物の目だと理解出来る。

「ひ……ひぃ……っ!」

 尻餅をついたまま、必死に後ずさる。でも僕の両足はアスファルトをガリガリと掻くだけで、その場から僅かにも動いてはいなかった。土煙を割り、蜘蛛の巨体が屹立する。間近で見た異形の姿に、僕の喉が二度目の悲鳴を上げた。

「ああああぁぁぁぁーーーーーーっ!」

 その悲鳴が不愉快だったのか、自分の要求を拒絶された怒りからか。化け物はズシリと地面を揺らして僕の方へと歩を進める。人型の上半身、その左右に生えた腕から巨大な爪が突き出してきた。

 ズシリ、ズシリと化け物が歩く振動が地面から僕に伝わる。化け物と僕の距離が2メートルにも縮まった時、ヤツは巨大な爪を振り上げた。ヤツ自身の体液にぬらぬらと光る爪。

(嫌だ、嫌だ、嫌だ……っ)

 僕の思考をそれだけが埋め尽くした。這ってでも、転がってでも逃げたいはずなのに、嫌だと思うだけで何も出来ない。そんな自分を歯痒いと思う事も出来ない。ただ、死にたくない。

【ギッ…!?】

 巨大な爪が僕の脳天に落ちてくるかと思った瞬間だった。化け物の体がビクリと跳ね上がる。僕は縫いとめられたように見上げていた爪から視線を下げた。何故かは解らないが、視線の先にあるものが僕を窮地から救ってくれると……そう理解していた。

「……彼は無関係だ。巻き込むな同胞よ」

【ギ……グギギィッ!】

 そこには彼女がいた。蜘蛛の体の上に乗り、長い刃物のような物を突き立てている。彼女の言葉を理解したのか、怒りの矛先を彼女に向けただけなのか、化け物は上半身を捻って巨大な爪を少女に叩き付けた。

【ギオオオオォォォォ!】

「……そうだ。君の相手は私だ」

 轟音を伴って打ち込まれた爪を、彼女は後ろに跳躍して躱す。その彼女を追うように、化け物もまた走り出した。

「た……助かった……のか?」

 この場から無事に逃げ出すまで助かったとは言い難いかもしれないが、直面していた窮地からは助かった。逃げ出せる、今なら逃げ出せるというのに、僕の足は相変わらず力が抜けたままだった。

「くそ……くそっ!」

 喝を入れるように、拳を太ももに打ち付ける。骨に響く鈍い痛みが走るが、足は動いてくれない。幸いにも両腕は動くので、うつ伏せて這いずってでも逃げよう……そう思った僕の耳に、ギャリッと硬い物同士が擦れあうような音が響いた。

「な……なんだ?」

 反射的に振り向いて、絶句する。そこには化け物の爪と打ち合う少女の姿があり、彼女が手にしているもの……刃物のように見えたそれは長い木の枝に過ぎなかった。

 化け物が植え込みを荒らしたときに砕け散った木の枝なのだろう。末端の枝ではなく幹に近い太さはある。しかし、その程度の物であの化け物の爪が防げるものだろうか?

()ャァァッ!」

【ギオオオオオッ!】

 少女の放つ裂帛の気合と化け物の咆哮。化け物が持つ人間の上半身と蜘蛛の前肢。そこから繰り出される怒涛の連撃が少女を襲う。触れれば勿論、掠っただけでも危険なはずの攻撃は悉く防がれ、逸らされている。たった一本の木の枝にだ。

「っせい!」

 少女が木の枝を突き出す。折れてささくれ立った枝の切断面は杭のように鋭利だ。化け物が爪を合わせて盾のようにかざす。ガリっと硬い音を立て、木の枝が化け物の爪に傷を残した。

(なんだ……何が起きてるんだ? 何をしてるんだ?)

 彼女がたまたま手にした枝がとんでもなく硬い枝でした……なんて事があるわけない。いくら硬い枝だろうが、少女が片手で振り回せるサイズの枝が化け物の質量に耐えられるはずが無い。

(何なんだよ、アイツは!?)

 だから、自然とそれは彼女が何かをしているのだという解答に至った。異形の化け物に平然と相対する姿を考えれば、それも不思議ではないと僕には思えた。

「く……っ!」

 だが如何に武器が強固であっても運動能力自体は見た目に近いものであったらしい。化け物と打ち合い始めて感覚的には5分程度だろうか……次第に少女の息が上がり始めていた。

 化け物が繰り出す攻撃はほぼ間断無く繰り出されている。こちらの運動能力もまた見た目どおりといった所か、疲れを知らないかのように動きを止める事は無い。そのため少女は一瞬たりとも動きを止める事が許されない。

 ビィッと高い音を立て、少女のコートの端が切り裂かれる。時が経つ毎に精彩を欠いていく少女の動きは、ついに化け物の射程に捉えられてしまった。少女が忌々しげに顔をしかめる。

「あまり使いたくは無いのだがな……」

 少女は呟き、手にした枝を化け物に投げつける。化け物が反射的に振り払ったそれは、いとも簡単に、粉々に砕け散った。

【グ……グ】

 その一瞬で化け物は追撃の機を逃したか、少女は先ほどよりも大きく距離を開けている。化け物が動き出す事を待つはずも無く、少女は一気に走り出した。

「な……え!?」

 少女の目指す場所は小さな飲食店だった。この公園には、フランクフルトや唐揚げなどの軽食を販売している店がある。彼女が何を思ってそこに走ったのかは解らない。

 しかし僕にとって大事なのは、彼女が何を思ってそこを目指しているかでは無い。そこが、僕が座り込んでいる場所からそう離れていないという事だ。

「な……なんでこっちに来るんだよおぉぉぉ!」

 少女がこっちに走ってくるという事は、当然あの化け物もこっちに来るという事ではないか。

【オオオオォォォァァアアァァァ!】

 やはりというか、化け物は彼女を追って来た。その巨体で風を割り、轟々と音を立てながら。少女と化け物では身体的能力が段違いなのだろう、数瞬で彼女に追いついた化け物が巨大な爪を振り下ろす。

 少女は間一髪で爪を避けたが、振り抜かれた爪は飲食店の外壁に置かれたガスボンベの鎖を引き千切る。ガランガランと耳障りな音を立て、ガスボンベがアスファルトに転がった。

「ひいいいぃ!」

転がったガスボンベが足にぶつかり、僕は悲鳴を上げる。反射的に蹴飛ばそうとしたが、もし爆発したらと思い改めた。ガスボンベは僕にぶつかったあと、勢い無くゴロゴロと離れていく。

 少し安心した。しかし、ゴロゴロと転がっていくガスボンベと僕の間に……少女がフワリと降り立つ。安堵も束の間、頬が引き攣るのを感じる。何より、少女がここに来たということは。

【ガアアアァァァァアアアァァ!】

 当然、あの化け物もここに突っ込んでくるという事になる。

「な……何が『巻き込むな』だよッ!」

 地面に伏せて両腕で頭を抱え込む。怪我をするのは仕方ないにしろ、どうか死にませんように。そう祈るくらいしかもう僕には出来ない。

「終わりだ」

「……は?」

 化け物が走る爆音の中でも凛と透る少女の声。その声に振り返った時、僕はまたありえない物を見た。今更「ありえない」という言葉も陳腐な響きだが、それでも《それ》は僕を驚かせるには充分な代物だった。

 少女の髪が白く染まっていく。

 まるで水の中に絵の具を落としたように。

 夜明けの光が闇を駆逐するように。

 頭の天辺から、毛の先まで一気に。

 後ろ姿に見る彼女の髪は、薄汚れてしまったコートの上でなお映える純白へと変貌していた。少女は転がったガスボンベに走り寄って手を当てる。その行為に意味があるのか解らない。既に化け物は距離を詰め、必殺の一撃を振りかぶっていた。

「すまない……許せとは、言わない」

 少女が呟いた瞬間、化け物の動きが止まった。

【ガ……バァッ!】

 その直後。バスっと鈍い音がして化け物の胸が爆ぜた。肋骨を四方に広げ、内臓と体液をばら撒いて。振り上げた腕がダラリと下がる。

【ア……アァ……】

 化け物は、パックリと開いた己の胸を見て頭を振る。まるで信じられないというように。嫌だ、嫌だというように。蜘蛛の足が力なく折れて……それに倣うように、人の形をしていた上半身がダラリと崩れた。


◆ ◆ ◆


 ガタガタと震えていた。僕に背を向けたままの少女、動かない化け物の死体、公園に残された幾つもの傷跡。終わっていない。この光景が消え去るまで何も終わっていないのだと感じて、僕は震えたままだった。

 白髪の少女は、動かなくなった化け物を見据えたまま動こうとはしない。とても声など掛けられる雰囲気ではない……いや、それ以前に得体の知れない少女に声を掛けたいとは思えない。

(に……逃げよう)

 そもそも彼女から「逃げろ」と言われたのだから、逃げて悪い事は無いはずだ。しかし……しかしだ。さっきと今では状況が違うのではないか?

僕は知ってしまったのだ。異形の存在を、異形と戦った存在を、彼女の特異な力を。

(口封じに殺される事だって、あるんじゃないのか……!?)

 その答えに至った瞬間、更なる恐怖が僕を襲う。感じたとおりだ。何も終わってなんかいない。僕が彼女に見逃してもらえるまで、この光景が見えなくなるまで、何も終わってなんかいない。

【ガ……ァ……】

「!?」

 息を飲む事も憚られる静寂を破ったのは、死んだかと思っていた化け物だった。口腔からボトボトと体液を吐き出し、苦悶の声を漏らしながら震える腕を上げる。

【頼ム……頼、ム。帰リタイ、ンダ……】

 少女は何も言わない。化け物は……いや、彼は弱々しく懇願した。既に救う術は無いと言われているにも関わらず、何度も必死に。しかしそれでも何も言わない彼女に、彼はついに言葉を失くした。

【ナラバ……頼ム、コレダケデモ、セメテ……コレダケデモ俺ノ、故郷ニ】

 そういった彼は、無残に開いた己の胸に自分の手を差し入れた。震える手で取り出されたそれは、ゴルフボールほどの大きさをした球状のものだった。

 まるで紅玉のように輝くそれを、少女は黙って受け取る。掌で何度か角度を変え、何かを確認するように球状の物を調べた彼女は、短く彼に答えた。

「……解った、やってみよう」

【オ……オオォ……】

 なおも口腔から体液を溢しつつも、彼はその巨大な手で少女の小さな手を握った。表情は解らない。だが彼が歓喜しているのだと言う事は、気配で察する事が出来た。

「……離すなよ。君の記憶を読み取り、君のいた世界を探知する。何処に送り込むかまでは決められないが……君の故郷には送れる。それでいいか?」

【アア……アリ、ガトウ……】

 少女はゆっくりと目を閉じる。球体を握った手に薄い緑色をした柔らかな光が宿った。時間にしてほんの数秒。緑の燐光が徐々に光を失い……開かれた掌には何も残っていなかった。

「私に出来るのはこれだけだ……すまない。君自身を帰す力は、無いんだ」

 だが、彼は無言で首を振った。掠れる声で、充分だと呟きながら。彼女の手に添えられていた大きな手が、力を失って宙を泳ぐ。球状のあれは彼の大切な何かだったのだろう。それが故郷に帰ったのだと安心し、今度こそ……絶命したのだ。

「……すまない」

 しばらくの間、動かなくなった彼を見上げていた少女は再び謝罪を口にした。緩慢な動きで白いコートのポケットに手を突っ込む。そこから出てきたのは……出て、きたのは。

 彼の故郷に送られた筈の、あの球体だった。

「……本当に、すまない。私には……そんな便利な力は……無い」

 彼女は最後に嘘をついた。救うことの出来ない彼を、最後の最後で……せめて安らかに逝けるように。手にしていた紅い球を、彼の胸にそっと戻す。

「出来るならば、本当に君の世界へと送ってやりたいが……当ての無い旅路だ。嘘をついたことは謝る。だが……あの世まで大事に持っていってくれ」

 風が強く吹き、白い髪を揺らして彼女は空を仰ぎ見る。

 異形の死体を前に、彼の死を悼んで。

 ただ帰りたいと願っていた彼に、死を与えた事を悔やむように。


 ジャリっと砂を踏む音がして、少女が動いた。呆けていた僕には砂利を踏む音すら大きく聞こえる。少女がこちらを向いたことで、事態がこちらに向いた事を理解する。

 先ほどまでは戦いを見ていただけの傍観者だったが、今度は僕が少女と相対する当事者だ。

「ひ、いっ……!」

 恐怖で喉が萎縮し、途切れ途切れな悲鳴が漏れる。弾かれたように、僕は化け物の死体から少女の方に目を向けた。本当は、背を向けて一目散に逃げ出してしまいたかった。それをしなかったのは、それが出来なかったのは、あの異形の死体のせいだろう。

 死にたくない、殺されたくない。背を向けて逃げれば、そのまま殺されるのではないかという恐怖。対峙して考えれば、この状況を脱せるのでは無いかという考え。その二つが僕の思考を満たし、結果として振り返る事を選んだ。

「……あ」

 瞬間、僕は彼女に目を奪われた。たった今まで恐怖に震えていたのに、それを忘れてしまう程に、僕は彼女に見入った。いや、魅入られた。数秒前まで考えていた、命乞いの台詞が抜け落ちてしまうほど。

 少し強く吹いた風に踊る白い髪。

 夜目にも鮮やかに映える金色の眼。

 そして、その金の宝石から流れる一筋の涙。

 蒼い月光に照らされた涙の筋が淡く光っている。彼女の背後には相変わらず凄惨な死体が転がっているというのに、僕は不思議なくらい彼女にだけ見入っていた。何故だか解らない、何が何だか解らない。

 ただ、そんな状況だから僕は思った。雑多な思考が全て吹き飛んでしまったその状況だからこそ、僕は直感でそれを理解出来た。ああ綺麗だと、そう思った。

「…………」

 彼女は、無表情に僕を見ている。いや、見ているというのは少し語弊があるかもしれない。無表情どころか、魂の抜けたような虚ろな顔で僕の方向に向いている……そんな感じだった。

 何とも言えない不気味さが僕を襲う。なまじ彼女が美しいと感じられるだけに、この無機質さが妙な恐怖感を生み出しているように思えた。

「あ……あの」

 話しかけるというのは軽率だったかもしれない。もしかしたら、まるで少女の魂が抜けているような今だからこそ逃げるべきだったのかもしれない。話しかけて数秒、何の反応も無い彼女を見て、僕はまさに今こそ逃げ出す時ではないかと思った。

「……え?」

「え!?」

 まさにその瞬間だった。僕がそっと足を後ろへと引いた瞬間、彼女の目が疑問符と共に大きく見開かれる。

 それは、まるで目の前にあるものが信じられないというように。

 自分の見ているものが理解出来ないというように。

 彼女は、恐らく先程まで僕が浮かべていたであろう未知への恐怖に歪んだ顔を浮かべていた。

 まったく解らない。何故僕はここにいて、凄惨な事件の現場に巻き込まれ、不思議な顔をされなければならないのか。僕が浮かべるべき疑問を、何故彼女が先んじているのか。不意に、少女の唇が緩やかに動く。

「……どうして、僕が」

「?」

 彼女の口から、音が漏れた。彼女が何の意図を以ってその言葉を漏らしたのかは、さっぱり解らない。もっとも、彼女に何の意思があっても僕が理解出来そうには無いのだけれど。だが彼女はその言葉を最後に、電池の切れた玩具のように動きを止める。

「あ……ちょっと!」

 僕が静止する間も無く、彼女は緩やかに倒れ始めた。反射的に手を伸ばしかけたが、彼女が未だ正体不明の存在である事を思い出して体が硬直した。

 ゴツっと硬い音がして、彼女の膝が地面に着く。そのままゆっくり体が僕の方に倒れてきたのを受け止めてしまったのは、硬直してしまったまま避けられなかっただけなのだが……彼女は顔から地面に突っ込む事を免れた。

「なんだよ……何なんだよ……」

 気を失った少女にすら、僕は恐怖で身が竦んで動けない。物言わぬ異形の死体が転がるこの空間に、たった一人で放り出された孤独と恐怖。

 逃げるんだ、逃げるしかない、今なら逃げられるんだ。

 倒れ掛かった彼女をゆっくりと引き剥がし、震える足で一目散に駆け出そうとした。

「……う」

 地面に崩れ落ちた彼女を見て、何故か言いようの無い罪悪感が僕を襲った。そんな感情を感じる謂れは無い……しかし、そんな理屈が通用しないのが感情という奴だった。

「その、ご……ごめんな」

 気絶したままの正体不明の少女。彼女の体を抱き上げると、近場にあったベンチにそっと横たえる。せめて上着でもかけてやろうかと思ったけれど、こんな場所に自分の身元が割れそうな要素は残したくないし、そこまでお人好しにはなれない。

(もう、関わるな)

 僕は自分にそう命じ、今度こそ彼女に背を向けて走り出す。この目で見た物を忘れ去ってしまえるように、あの場所で起きた事を無かった事にするかのように。


 

 ……だけど、終わってなんかいなかった。悪夢の一夜なんて可愛いもので終わってはくれなかった。この事件が、この出会いが。彼女が僕を巻き込んで進む、旅の始まり。

僕の上げた悲鳴は、よーいドンの号砲と……何一つ変わらなかったのだ。


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