「久敏」の49日 一周忌 など 雄二郎手伝ってくれ
「49日」は、あっという間であった。
父のわずかな遺産、「みずほ銀行」「三井住友銀行」、
死後にわかった、「みずほ銀行荻窪支店」銀行口座には、
わずかしか、お金は、残っていなかった。
それでも、わたしの仕事の合間に、仕事で取引があった
「城南信用金庫」に、わずかなお金と、付き合いで、買ったであろう
「債権」を、母と二人で換金したにいった。
他にも、「戸籍謄本」を「本籍地」がある、阿佐ヶ谷区区役所に、
通院のついでに取りにいったり、墓がある「新町田霊園」に、
「FAX」を送ったりして、忙しく、慶弔休暇を、祝日が入る関係で、
手続きができず、有給を3日ほど「追加」したほどであった。
雄二郎は、「死後の手続き」を、全く手伝ってくれなかった。
のみならず、49日前に、「雄二郎の妻の実家の父と母」で、
旅行に行く有様であった。
雄二郎は、向こうの家の「養氏」のようだと、最近、感じる。
わたしは、「49日」当日も、メモリー堂の人が、お墓まで来てくれる
ものだと、思ったが、違った。
結果、「49日」は、お墓での「お坊さんの供養」は、なしにした。
代わりに「新町田霊園の人」が、きて、骨を収める簡素なものになった。
参加者は、雄二郎家族と、わたしの家族、矢川家側の関東に住む、
親戚2人のみで、行い、その後、食事会を「メモリー堂」の最寄駅がある
「小田急多摩線」と「京王相模原線」が通る「永山駅」の駅ビルの内の
お店(今はない)で、行った。
仏壇は、メモリー堂の系列で、甲州街道沿いのところで、購入した。
気乗りしない「雄二郎」を、母親、嘉子が強引に呼び出し、
4人で仏壇をみた。
途中、わたしが、「タバコ休憩」、母親が、トイレとなり、「良子」は、
「雄二郎」と、2人で対面する形になった。
「良子」は、そのときまで、「雄二郎」を、嫌っていた。
「隆」の「出産」時に、「船橋の自宅」に、泊まったことから、始まり、
借金で「首のまわらない」「久敏」の家計のために、「土下座」をして、
良子の両親に「お金を貸して欲しい」ことの「仲介」を頼んだりしたのが、
原因である。
わたしは、雄二郎に対し、嫌いの感情は、なかったが、
良子に引っ張れる格好で、彼とは、「没交渉」であった。
母親は、「兄妹仲良くして欲しい」といったが、
そのとき、元気であった、父親「久敏」は、
「会いたくないなら、会わなくてよい」といっていた。
父親は、子供に優しいが、お金のことには、「無頓着」であった。、
そういうことも、あって、「何か、喋らなければ」と、
あせる「良子」だが、「雄二郎」が、結婚後、長年で、やっと、
「子供に恵まれた」こともあり、子供の話しから、会話が弾んだ。
「結婚すると、人は、変わるのよ」と、「良子」
「将来のことを考え」、簡易型の仏壇を押す「わたし」に対し、
「普通の仏壇」を買いたい、母親。
それまで、無口だった「雄二郎」が、店員に、質問をして、話しが、
進み、あっという間に決まった。やや高級な「普通の仏壇」だった。
「一周忌」のときは、「コロナの脅威」が、あったころであった。
それでも、わたしは、一周忌に向けて、用意をしていたが、
「雄二郎」から、メールがきた。
一周忌に「会食するなどは、自殺行為。もし、行うなら、
「家族を守るため、一家は、欠席します」
これで「面倒ごと」がなくなったと、内心ほっとしながら、母親にいった。
「雄二郎は、やるなと言っているよ。強硬したら、
感情的しこりになるから、今後を考えたら、止めた方がよい」
「雄二郎一家が欠席したら、一周忌が成り立たない」、
母親も「有無」がなかった。
その後、「メモリー堂」から、「三周忌」をしませんか。
と、電話があったが、一切していないし、する気もない。
へたしたら、1年以内にくる、母親の葬儀は、「雄二郎主体」で、
やってもらおう。住所も、施設の方に移す予定だし。
ただ、お墓は、へんぴな「新町田霊園」に、おやじと一緒になるであろう。
わたしが、やるべきことは、稲城の家の家具や、ベッド、多数のフトンや、
仏壇、インテリア的な食器や、絵画などを「ひろき」さんと、打ち合わせして
「雄二郎」にも、当日は、きてもらい。処分することだ。
既に、見積もりのため、「ひろき」さんには、来ていただいた。
「母親」の細かい事務等は、今後は「雄二郎」が、主体になるであろう。




