表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こころを病んでいる人  作者: セブンイレブン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/183

わたしの小学校からの思い出、通院など

 わたしが、「敏久」の、「戸籍謄本」を取りに、地下鉄、丸の内線の


「南阿佐ヶ谷駅」にある、杉並区役所に行き、


その10分くらい歩いて、JR中央線「阿佐ヶ谷駅」の近くにある、


精神科の「野崎クリニック」にいった。



 わたしは、症状がなかった、新婚時の約2年を除いて、


1月の間に、1回は通院した。



 ほとんどの薬が、最大で、1か月間だからである。



 病名は、当時は、「うつ病」だった。



 人によって、相性は、野崎先生に限らず、合う、合わないは、あるが、


金にならない、「紹介状」も快く、詳しく、書いてくれた。



 先生は、3年ほど、前から何度も、わたしに「入院勧告」をした。



 2年ほど前から、何度も、夜中に、意識不明で、倒れ、


家の外のときは、外で、タバコを吸うため、出たと思う。


(借家は禁煙なので、玄関先で吸う。


1日1箱以上、銘柄は、ウィンストン1mmロング)



 そのため、意識はもどったが、救急車で、「新百合ケ丘総合病院」に、


今年の2月に、運ばれた。



 なお、そのときの病名は、統合失調症ではなく。


「うつ病」、良子とおなじ、約2年前になった「双極性障害」、


一貫してある「睡眠障害」など、いろいろな症状をもって、


一つの病名では、表現できない「非定型精神病」という病名である。



 話は、変わるが、わたしは、早稲田大学理工学部「工業経営学科」


に在籍した。



そこには、東大などに落ちた学生が多かった。



 わたしは、大学5年間、サークル等で遊びすぎた。


(この学科は、他の学科と違い、その気になれば、自由時間は多い)、



 わたしは、昔から要領も悪く、可愛げがないので、


小学生のときは、低く評価された。



 一転して、中学生では、知能指数の割には、


性格も含めて評価され、それで、さらに、「がんばるという、好循環」に


なった。


 睡眠不足で、3年生の一学期の期末試験では、振るわなかったが、


小学校とは、一転して、エコヒイキされた。



 ちなみに、東京の町田市にある、本町田東小学校から、


大学まで、学部は違うが、


元フジテレビのアナウンサーの「信笠井輔」が、一緒であった。



 信輔の母は「八重」といい、子供会の役員で、


小学校のとき、奥多摩にキャンプをした思い出が深い。


信輔には、弟もいた。彼はごく普通の生徒にみえた。



 人の先生に、一番重要な時期なのに、秀忠の担任「柴木」に


代表されるよう、ろくな先生が、小学校にいない!



 質が低すぎる。だから、今は、多少無理しても、私立にいくのだ。



 わたしは、小学校の3年で担任をした、


こわくて、イヤだと、最初は思っていた、


男の体育会系の担任、「鈴木先生」は、


「エコヒイキをする。積極的な子を主に評価する」


そのようなことはなかった。



 小学校では、最初で最後、初めて、算数で、成績最上の「5」をもらった。


理科も、初めて「4」をもらった。



 わたしは、中学1年のとき、野球部に入ったが、


人数が、多すぎて、一部の上手い生徒以外、


「キャッチボール」をした記憶しかない。


そこで、鞍替えをして、バスケ部にはいった。



 そこに笠井君がいた。笠井君は、準エースで、


エースは、小学校時の親友、小林君だった。



 彼は伝統高、「町田高校」に進学、東京薬科大学に進学し、


薬品会社で、薬剤関係の仕事についたところまでは、知っている。



 彼とは、よく、草野球、小林くんの家でも


(父は、女子プロレス、姉は、後に私もハマル


「宇宙戦艦ヤマト」をみていた)



 小林くんとは、一番草野球を団地の芝生でしていて、よく、ボールが


ベランダに入っては家の人にとってもらった。


不思議と「留守の家」は、一軒もなかった。



 当時は、主婦がパートすることは、あまりなかった、


こともあるのでは、ないかと推測する。



しかし、ある日、子供が、邪魔だと威嚇したバットが、


小林くんに当たり、「歯をかけるケガ」をしてから、


わたしから、縁を切る形になった。苦い思い出である。



 中学校の、友達は、佐伯君といって、高校で行う約10Kmのロードレース


に備えて、約3kmの団地の外周を、よく走った。



 彼は、大学受験に失敗して、縁がなくなくなった。



 「国立」や「立川高校」という学区で一番の高校にいった。


小学校までの友人「荒川 隆司君」がいた。向かいの団地に住んでいて、


彼の家で人生ゲームで遊んだ。彼は、「東大」にも進学した。



 会社はうろ覚えだが、海運会社大手のわたしもリクルータにあった


「日本郵船」だと思う。



 中学1年生のクラスは、小学校と正反対の、「やんちゃクラス」で、


担任の、女子教師「若林先生」がヤリ手であった。女子の体育担当。


 今、思えば、問題ある生徒(わたしは、非社交的すぎ)て)を


集めたと、推測する。



 2年生が一番よく、担任は温厚な、国語担当の「中島先生」


問題集を、そのままパクッり、ミソをつけた。


クラスメートも、まじめで、おとなしく、よかった。



 最初の1年生1学期では、数学が98点で、学年最高得点なのに、


技術家庭は、わずか18点だった。



 担当の「鷲尾先生」いわく


「普通、数学が得意な生徒は、技術も得意なのにな」


技術的なこと、美術などは苦手で、


大人になっても、「日曜大工」は一度もしていない。



 もっとも、「エコヒイキ」が、あって、芸術系も、


「4」の評価をもらった。




 「鷲尾先生」は、生活指導担当で、悪事をした生徒を、昼休みに、


女子のスピーカ付きで、校庭を1周を走らせた。


 

 今、わたしは、忙しい。


妻が、コロナになり、わたしも、3日後に発症した。


妻は引っ越しの準備や、秀忠の今後(世帯分離はした)の心労や、


コロナより前からある吐き気や咳や痰に苦しんである。




 話を戻すと、わたしの、早稲田大学時代に、戻すと


頭が良い人(楠木君)に取り入って成績をとる、


学科唯一の女子、進学高の「湘南高校」の女子を嫌悪した。



 きっと、高校のときも、そうやって成績を上げ、


おそらく、推薦で入ったのだろう。



 大学5年生のときに、妻側の親戚に、


同じ研究室の人がいたのは、すごい偶然である。



 ただ、わたしは、当時の、彼を知らない。



 4年生のときは、推薦でも落ちることがある。


若気のいたりで、若いときの給料がよいという理由で、


「キャノン」を受けて落ち、就職活動に失敗した。


 当時、円高が、急激に進行したことも、


当時、輸出比率75%の会社に影響はあった。


そうはいっても、受験者全員10人以上が落ちたのは、過去ない。


就職担当の教授が、抗議して1人だけ、採用された。



 学科と縁が強い「東芝」を受けていたら、


よほどのことがなければ、就職できただろう。



就職活動に失敗した後でも、


わたしが、その気になれば、「新日鉄」に入れた、


「キャノン」は、同じサークルの同年齢の「大倉君」が勤めている。


ちなみに、学科は「機械科」である。



 キャノンの「工業経営学科」出身者は、


主として、キャノンでは、営業に近いことをしていると、後でわかった。



それなら、「非社交的」で、「口下手」な、わたしが落ちるのは、


当然である。



 当時は、もう製鉄会社いう理由で、先がない企業と皆に思われた、


事実、受験した人は0人である。



 「キャノン」に落ちた、わたしが、そこを受けなかった理由は、


就職担当の教授にある。



 他の学科は、早く面接を受けたが、


当学科は日が遅く、落ちたらどうしよう思い、


教授に相談したが、大丈夫といい、一考だにしなかった。



 結局その年は、亡くなった、長崎県にいた、「松代長人」さんの縁で、


面接をした、「日本鋼管」に受からなかった。


 (残念ながら、コネがあるので、受験させただけで、


面接者は、残念そうにしていたように、見えた。



 わたしが在籍した、サークルの「REDWINGS」の、青山短大出身の後輩、


「横溝 環」という女性が、人事部にいたのは、驚いた!



 それから、自分で道を開くとの考えを、強く持ち、


全薬工業(迷ったが、入社しなかった)に応募した。



 次に本社が、東京の立川市にあるスーパー「いなげや」を受験した。


わたしは、乗り気でいたが、


母が、「そこまで自分を下げる必要はない」という理由で、


面接にいかなかった。ドタキャンである。



 その後、食品スーパー「マルエツ」で、約19年働き、


「いなげや」も、20年以上経って、引っ越しても、


なお、近くにあり、よく買い物をする。



 就職論文を書かずに留年でした、大学5年生には、


学科の選択科目の単位を多く取り、「秀」の単位を多くとった。



 前年の受験時、成績150人中109位だった、


成績が、かなり、上昇したと思う。



 最初に勤めた、興亜海上火災(当時)


(小学生から高校1年までいた、「藤の台団地」の1街区では、


窓越しに明かりがみえる「井上さん」という女子がいたが、


課は違うが、なんと、経理部にいた!



 面接時には、かなり成績が上と思われた。


 (早稲田は優の上に「秀」があって、


成績がその分、良く、みえるカラクリのためもある)



 面接は2回、2回目は役員面接で、形式的なものに感じた。


銀行やそのソフト会社も、受けたが、内定出ず、


三菱直系のソフト会社と傍系のソフト会社からは、内々定をもらった。



 やっと入社した、「興亜海上火災」だが、研修を経て、


経理部主計1課に配属するも、


わずか、4カ月ほどで、辞めることになった。




 後から知ったが、研修のときから「非社交的」で、


問題視されていたらしい。



 主として、決算が仕事の主計1課では、


「新人に慣れていない」といっていたが、


コピーも取れない、電話もかけれないと嘆かれた。



 しかし、大学院生なら、研究室で、


そういう機会も、多かったと思うが、


それらの機会は、わたしにはなかった。



 異動になった、ベテランの代わりが、わたしに、務まるわけもない。


 アルバイトも、主に、地元の無料紙で見つけた、家庭教師をやっただけ。



 ただ、興亜火災で、3月の間、勤めていたおかげで、


30年以上後で、「精神障害者年金」が受給できることになる。



 辞める経過は、以下の通りである。


統合失調症で、住んでいた、東京多摩市の永山の「タウンハウス」から、


近くの心療内科に、過呼吸で2回ほど行って、心電図をとった。


親切な、ケースワーカもいた。


なお、今もそのクリニックはある。



 「心療内科」では、広く身体の症状にも重点をおく。


「精神科」の方が重い患者が多いとのイメージを持っていた。



 次に、わたしの「大きい病院で診てもらいたい」との希望で、


父母と「慶応大学病院」にいった。



 学生10名近くの前で、わたしは、症状を説明した。


久敏が、仕事で小さなケガをして帰ったとき、


興亜火災の人に、やくざがきて、ケガをさせるぞという「幻聴」や、


久敏が、わたしが、当日に帰った時にけがをさせられたという「被害妄想」、


最後に、わたしが、帰る電車に、会社にいる「会計士」が、


わたしの、真向いの席に座っていたという「幻覚」。



 診断名は、精神病に、多少興味があるほとならわかる、


「統合失調症」で、当時は、世では「精神分裂病」といわれた病気である。



 2002年8月の、日本精神神経学会において、


「精神分裂病」という病名は、正式に「統合失調症」に変更されました


と、大江病院のホームページで、見つけた。



 統合失調症は、約30年後の、年金申請のとき、


書面で、正式に判明した。



 わたしは、妻と出会う、1月ほど前に、精神が悪くなったので、


薬をもらうために、東京都三鷹市にある精神病院


「井の頭病院」にいった。



 そこでは、受付の人に、「ここは精神病院ですが、よいですか」と、


二回も、言われた。



 診察では、そこの女医に、次のようなことを言われた。


ここは、あなたのような人がいるところでは、ありません。


新聞のような切り抜きで、できて間もまもない、


「野崎クリニック」との出会いであった。



 そこでシヨックだったのは、


「親戚で、精神病の人はいますか」といわれ、


大阪の「堤 友幸」さんの名を口にした。



 すれと、女医は「あなたの病気は遺伝です」と、きっぱりいわれた。


かなりの「ショック」であった。



 薬局に行くと、薬剤師は、怯えて「お茶をのみますか」といった。



 1月後、妻となる予定の良子の交際時に、


「良子もかわいそうに」と団地の人がいっていたのを聞いた。


幻聴だろうか?



 それとも、事実で、行政の人が、様子を聞きにいったか?



 話を、再び、興和火災のことに戻ると、他部署の人間をつかって、


「自主退職」にしたかったが、わたしにはその決断が下せなかった、



 人事部に、「久敏」を呼び出され、


その後、2週間ほどで、わずか4カ月で辞めることになった。



 中堅メーカーの車を買え、


生命保険(日本生命)に入ろと言われ、


やけくそで、保険会社とは契約したが、


直後に退職が決まったので、取り消しになった。



 次回は実質、再就職で失敗したくないという思いで調べ、


研修が3月間と長期なことが決めてとなって、


東京都の地下鉄東西線の東陽町にある「明生システム会社」という、


「明治生命」(今は、安田生命と合併して、ソフトウエア会社も、


名称変更している)に入社した。



 妻、「良子」とは、当時の結婚相談所の大手で出会い、


約1年半後、わたしが、31歳のときに決婚した。



 決婚まで、住んでいたのは、


当時でも、破格の3万円台で、


中央線「武蔵小金井」の古い2kの団地に、住んだ。



 そこは、住宅供給会社が運営する団地で、運よく、1回で当選した。



1人では住めないので、書類上、「弟の雄二郎」と一緒に住んだことにした。



 その時に、慶大病院を受診したため、


通常5年の義務がしかない、カルテが残っていて、


障害年金では、重要な「初診日」がわかり、


4年ほど前から、精神障害年金を受給できることになる。



 慶大病院では、薬が共通しているとの理由で


(「PZC」という薬で2年ほど前の製造中止まで、服用)


会社には「メニエル病」との、偽の診断書偽を会社に出した。


なお、診察料は、会社にばれるという理由で、保険証は使わなかった。



 会社を辞めたら、途端によくなり、


翌年から、優秀ではなかったが、


永山のすかいらーく(今はちがう店名になっている)で、


ランチタイムに、二人の「アルバイト中学生!」とバイトした。



 1つ、イヤなことをいうと、


酒を頼む、4人位の、勤務中の昼休みと思われる「常連客」は、


忙しいのに話しかけ、クレームも多くて、イヤだった。



 わたしは、大学生のとき、サークルでの飲み会は多かったが、


酒は好きではない。



 秀忠も、わずか2月ほどで、「アルコール依存症」になり、


すでに、川崎駅近くの、川崎区の総合病院である「市立川崎病院」で、


1月半措置入院した(本来は、1ケ月が限度だが、


次の転院先が決まらなかったため)。



 秀忠は、次の病院は、措置入院のまま、


最寄り駅が、JR「武蔵小杉駅」の、幸区にある古いといわれた、


精神科単科の「栗田病院」になった。



 幸区といえば、秀忠が、初診で連れていった、


「ステラクリニック」がある、


 幸区では、秀忠が、小学生のとき、


5回ぐらい相談などで、公的機関にお世話になったが、


良子も、わたしも、その病院を知らない。



 なお、担当は、院長の「竹林先生」だ。


 

 ちなみに、「措置入院」は、「警察」が行政に「通報」して、行われる。


解除は、その恐れが行政がなくなったと、判断されたときにおこなわれるが、


実際には、医師の判断が大きいようだ。



 「秀忠」は、おそらく、一生で、一番長い措置入院になると思う。


ただし、今回は、医療保護入院も、2月以上になると思われる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ