久敏、進行大腸がん完治も87歳にて逝く。母の亡くなった親戚など
8月10日のことだった。
博は、マルエツ武蔵小杉駅前店に出勤する前の、
夕食を食べているときだった。
秀忠から電話がはいった。
「父さん、久敏さんが危ないかもしれないかもしれないので、
すぐ病院にきて」
どうやら、夕方、母、嘉子が、医師からいわれたそうだ。
しかし、危篤という言葉はなかったそうだ。
3日ぐらいしか、もたないとの言葉をいわれたそうだ。
それを、秀忠がすぐ父を呼ぶべきと、考えてのことだった。
そこで、わたしは上司の若尾リーダに電話した。
「父が危ないかもしれないので、休ませてください」
リーダーは、愛知のビジネスホテルの強硬日程にも、
土産は受け取っても有給の1日もくれなかった、
仕事優先のリーダだが、今回は承諾して、
詳細がわかったら、連絡ほしいとのことだった。
彼は少し前、おばあちゃんがなくなった日に休むことを、
上司の富川ナイトマネージャーから、断られたことも、
頭にあったかもしれない。
しかし、リーダならまだしも、ただベテランというだけで、
本来は平の長老パートが、このような時に、休めなかったら、
ブラックすぎる話である。
とにかく、私は、いなぎ若葉クリニックに直行した。
道は特には混んでなく、一時間かかることなくクリニックに到着した。
到着して、病室につくと、母と子がおり、
父は手術中や危篤の人がつける器具をつけられていた。
先生は、回復しているといっているという。
母のことばから、重症だが、早くて明日と覚悟し、
わたしは、2人を先に帰らし、徹夜し、
朝、わたしと交代で、
またきてもらうことを決め2人に話した。
夜には強いわたしである。判断は合理的なはず・・・。
2人が帰ったあと、わたしは、今時、携帯電話をもたない主義の。
人間なので。若尾リーダーに、秀忠から借りたり電話で連絡した。
「今、病院にいます。あと2,3日かかるかもしれません。」
ちょっとパニックていたみたいで、現実的でないことをいった。
電話が終わってから、20分もたたなかったかもしれない。
久敏の心電図が反応なくなった。
「お父さん」 当然、反応はなかった。
急いで医師に伝えにいくと、もう、わかっているみたいだった。
看護師が父の体を清めてきます。といって、久敏の病室にいった。
実際には、日付がまもなく変わる10日のことであるが、
死亡診断書では11日となった。
死因は肺炎だと思っていたが、何と敗血症という病気であった。
たぶん、推測だが、老人保健施設で既にそれに患っていた
のではないかと思う。
後で知る母も、当然わけがわからなかった。
次にわたしは、実家に電話した。
「もし、もし、おやじがなくなった」
母が来る間に再びリーダーに電話した。
リーダーは呆れていたが、わたしも、すぐに逝くとは思っていなかった、
と弁明した。
まもなくして、母ひとりで、やってきた。
母は「おかあさんは、一回も死に目にあったことがないの」
涙はなかった。
わたしが知っているだけで、過去から順に母のおじいさん、おばあさん、
大林組につとめていて、手遅れの胃がんでなくなった一番下の弟。
松代長門さん、退職後は船を買い、釣りをしていたときいた。
わたしも胃がんがわかってから、母と車で九州にいき、会ったことがある。
次に父の親戚であるが、わたしも小さいころから知っている、
仲良くしていた、わたしのいとこの友幸さん、
両親は、その前になくなったらしい。
友幸さんは精神を若いときに病んでいて、パーキンソン病でなくなった。
彼は株をやっていたようで、母に東京電力が買いだとの言葉を残した。
東日本震災が起きる前のことである。
母は年をとってから、調布の東京電力の営業所に、
掃除のおばあさんとして、かなり、限界まで勤めていた。
朝は父が車で送っていたらしい。
母はまじめで社交的な態度が好まれ、退職時には、
花束までもらったといっていた。
次に、母の姉で繁子さんの子供の由紀子さん、
東京に住んでいて、母がとても可愛がっていた。
しかし、頭の腫瘍で長年入院し、母も見舞いにいっていたが、
最後は、なんと手遅れの乳がんで、50代の若さで亡くなった!
母は入院していた病院に対し、とても怒っていた。
彼女は結婚していたが、子供はいなかった。
そのお墓は、町田のへんぴな場所にある「新町田霊園」。
その縁で、母もそこと契約をしていた、
父はそこに眠ることになる。
最後に、わたしの結婚式にも出てくれた長女の繁子さん、
由紀子さんの母である。
この人は年をとってから、すい臓がんでなくなった。
父の葬儀社は、母が自分のためにと前に契約していた、
永山のメモリー堂というところでそこに電話した。
そこの人は一時間ほどで、到着した。
父、久敏の体は清められ、白装束を着ていた。
葬儀の多摩永山メモリードホールの人がきて、
父を運び、そこの霊安室に入れた。
霊安室は、生まれて初めていったというより、
身近な人の死にかかわったのは、初めてであった。
この後、打ち合わせをしますか、後にしますかと、
メモリードホールの人に聞かれた。
午前2時半過ぎのことだった。
わたしは了解し、母も異論はなかった。
打ち合わせは、まずお通夜の日を決めることから、
始まった。お盆も近く、火葬場も空いてないことから、
自然に日程は決まった。
なお、弟の雄二郎には夜中ということもあり、事後報告になった。
メモリードホールでふるまう食事や、おおよそのホールにくる人数、
火葬場の予約や、宗教の確認、
わたしは初めて知ったが、矢川家は浄土真宗であった。
最後に、おおよその金額の確認もあって、終わった。
わたしは休むため、明け方に自宅にむかった。




