6.大好きな気持ち
前世、僕にはお母さんがいた。僕が幼い頃に父親が亡くなり、一人で僕を養ってきた。
初めは、二人だけでも温かい家庭だった。しかし、シングルマザーで働き詰めの日々に、お母さんは体だけでなく心まで疲弊していったのが分かった。積み重なる疲労にプレッシャー、ストレスと、僕では考えられない程の負荷を受け、お母さんの顔から笑顔が失われていった。
お母さんが日々の発散方法にお酒を飲むことを選び、酔い潰れて寝落ち、会社に向かう日々を送ることを止めることは出来なかった。僕が話しかけると、苦しそうな顔を残し、沈黙する。
幼い僕には、母が苦しまない方法を見つけることは出来なかった。
いつからか僕たちの間に会話はなくなっていた。でも、僕は母からの愛を信じていたし、会話はなくても、母の行動から僕への嫌悪や憎しみは感じなかった。僕が生活しやすいように、言葉はなくともいつも通り支えてくれていた。
とても優しくて、温かい、そんな母親だった。
急にお母さんとのことが思い浮かぶ。僕の前世の記憶の一部を走馬灯のように辿られているよう。その当時の自分の感情が甦り、前世への懐かしさも恋しさも募る。
ふと、自分はもう死ぬのだろうか…。そう考えざるをえなかった。
後ろから視線を感じる。
振り返ると、顔が見えない人?が立っていた。
話しかけようとすると、僕の言葉を遮るかのように、その人が少し笑ったような気がした。顔が見えないから、到底その人が誰か、どんな表情をしているのかわからない。しかし、僕を優しく見守るその子が嬉しそうに、同じように微笑んでいるのがなぜか分かった。
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パァーッと景色が変わった。意識が引き戻されるのを感じる。
僕は、辺り一面真っ白な空間にいた。その空間の中心には、真ん丸な白く発光する、手で包めるサイズの物体が浮いていた。それは、重力をものともしないように浮遊している。
いつの間にかその物体の所まで、吸い寄せられるように歩いてきていた。
己の本能的な部分を信じ、手を伸ばす。
瞬間、発光している物体からまぶしいほどに光が放たれた。光に包まれていく。
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意識が覚醒する。
周りはまだ暗いようで、カーテンから差し込む夜空の明るさが僅かに室内に灯りをもたらしていた。
人の気配に、ハッとベッドの左側に目を向ける。
そこには、若い女性が二人ベッドの横に座っていた。静かな寝息をたて、器用に座った体勢のまま眠る様は、凄く絵になる。
目を瞑っているのに鼻筋の通った顔や長い睫毛で、どちらも整った顔立ちだと感じる。
見当たらない友達の存在に、どうにも出来ない焦りで不安でいっぱいになる。
体を起こそうとした時、腕に柔らかな温かい感触にはっと目をやる。隣で子犬の姿のまま丸まって眠るシルフィーを発見し、ほっと胸を撫で下ろす。
シルフィーの体に頭を押し付け、そこに感じる確かな鼓動に安心して、抱きしめる。力が強過ぎたのか、シルフィーが眠たそうに目を開ける。その僅かしか空いていない目で僕を捉え、一回目を閉じたと思ったらもう一度、今度は大きく目を開く。
「おはよっ。」
シルフィーは、一度息を忘れたかのように、一瞬体を強張らせる。少しして、返事のつもりなのか僕の体に頭をグリグリと押し付けてきた。
横に座る二人を起こさないように、そっとベッドから降りる。
見たことのないほどきれいなベランダの手すりに上り、夜空を見上げる。このまま体を差し出してしまったらどうなるんだろう?そんな疑問が頭をよぎる。シルフィーと出会えて、主人になったけど友達になって、とてもかっこよくて可愛くてそんな相棒が心から大好きで、好きって気持ちがこんなにも僕を幸せで満たされた気持ちにしてくれる。そんなこと初めて知った。これが僕の人生の中で一番幸せなピークといえる時期なのではないだろうか。それなら、この幸せな余韻のままこの美しい景色に身を預けたい。
「主っっ」
シルフィーの声でふと現実に引き戻される。偶に自分がこの世界に生きていることを忘れてしまうことがある。物語の中で、自分という人間が僕というキャラクターを通してこの世界を見ている、体験しているような......。
前世での記憶がある分、そんな違和感を感じざるを得ないのだ。
「ごめん、シルフィー。ぼーっとしてた。」
「........。っ主ぃ、我は主のことが大好きだからなっ!」
「僕もだよ、シルフィー。」
急に甘えたような泣きそうな声で、僕の目をまっすぐと見つめるシルフィーが可愛くて、大好きで。そんな気持ちが胸いっぱいに溢れそうな温かい気持ちとは裏腹に何故か切ない胸の痛みを感じる。そんな痛みを逃すようにシルフィーを胸に抱き、キスを落とした。
こんな暗い室内でも輝いて見えるほどの神々しさと美しさを兼ね備えた、美麗でとんでもなく精巧な人形のような女の人たち。ふと、自分がお母さんという存在に包まれた記憶があまりないなと気付いた。こんな美しい高貴な人達が僕の母親だったら...。そんなことが頭をよぎる。僕の扱いはどんな人であっても変わらないのだろうか。
起こさないように、足音に気を付けて近寄る。椅子の上に乗って、このきれいな女の人たちの膝の上に座ってぎゅっとしたい。そんな願望が頭をよぎり、椅子に手をかけるも、起こしてしまうかもしれない懸念が浮かび、どうしようかわからなくなって、二人の周りをうろうろしてしまう。そんな僕を見かねたのか、シルフィーが声をかけてくる。
「主、どうしたのだ?」
「わ、わかんない...。」
「....主、その女に触ってみたらどうだ?ちょっとしたことじゃ起きないよう、我が眠らせておこう。」
「ほんと?ちょっとだけなら触ってもいいかなぁ?」
僕の気持ちを見透かすかのように、提案をするシルフィーに不安ながらも意思を伝える。すると、任せろというように気取った表情で、シルフィーは強くうなずいてくれた。
そんな友達に背中を押され、手前にいた可愛いふんわりとした雰囲気をまとった美しい女の人に近づく。膝に置かれた細い綺麗な手にそっと触ってみた。僕とは違って温かい体温を持った手にそそられ、手を握ってみた。指が動かないから上手く握れなかったけどその一時の幸せな気持ちを強く感じた。
次に、隣りの対照的な美しい綺麗な人に近寄る。さっきの幸せなひと時を得て調子に乗り、勇気を出して膝に乗り、そっと抱きついてみた。思った通りの人肌を感じられて、僕の目頭まで熱くなるのを感じる。
僕の母親は間違いなくあの可哀想な人だ。だけど、あの人からは感じられなかった温かさが、こんなにも心地の良いものだったと知らなかった。流石に今回は自分が泣いていることに気付いた。この世界にきて、沢山泣いている気がする。前世では、あんなにも我慢するのがうまかったのに、今ではこんなにもへたくそだ。はっと、頬から落ちそうになる涙を手でキャッチする。このきれいな人を少しでも濡らさないように、降りようと体を離す。
すると、僕の背中に腕が回され、引き戻される。僕は、女の人の胸に顔が押し付けられるのを感じた。何が起こっているのか分からなくて必死になって頭を回して考えるも、そのあまりの温かい体温に包まれ、何も考えられなくなり、そっと体を預ける。その人は、僕の頭の後ろを優しく引き寄せながら髪を梳くように撫でてくれた。
綺麗な人から聞こえる一定のリズムを刻む心音を聞いていると、起きたばかりだというのに眠たくなってきた。幼児の体ということもあり、眠気に逆らえるはずもなく、糸が切れるかのようにプツっと意識が途切れるのを感じた。
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「か、可愛すぎ、、、、。」
「羨ましいですっ、オリビア様っっっ。」
「やかましいぞ人間。主が起きたらどうするのだっ。
主をこっちに渡せ。」
「少しでも動くと起きてしまうかもしれませんわ。ご安心ください、この通り寝心地は良さそうですので。」
「...我に喧嘩を売っておるのか?」
「あら、そんなことはありませんわ。この子のことを神獣様よりも大切にすることを表現しようとしたまでですので。」
「まぁまぁ、落ち着いてください、お二方。」
「...そういえば、あの女はどうなった?」
「...エルレド。」
「はっ、あの家に居たものは全員捕らえられ、地下で順番に尋問中ですっ。」
コンコンコン
静かな空気に、乾いたドアのノックする音が響く。
「皇子達のようです。どうされますか?」
「今は忙しいから無理だと伝えてくれる?」
「了解しました。」
「...いいのか?」
「この子が起きてしまうのもそうだけれど、人に対して恐怖心のようなものがあるかもしれない。その懸念をなくすまでは、私達と過ごす方がいいと思うの。どうかしら?神獣さん。」
「何でお前たちと一緒なのだ。」
「それは神獣さんだけだと、心配ですもん!この子の身の回りのお世話も必要ですし、誰かに愛されることも覚えてほしいですよね。何よりこんな可愛い子が一人でいたら、あちこちから狙われますよ?」
「そうか....。」
少々言いくるめられた気もしなくもないが、あの時真っ先に心配して駆けつけてくれたこの王族たちには悪意を感じなかったため、我が主を愛おしそうに見つめる二人の女に取り敢えずほんの少しだけ任せてみようと思えたシルフィーだった。




