早すぎる再会
噂はやはり真実で、リエルが耳にした翌週にはシオンハルトはマリアヴェル・サン学園に編入を果たし、リエルと同じSクラスに通うこととなった。
ここでは学年とは別に、生徒の能力に合わせたクラス分けをされる。
上からS、A、B、C、Dの五つだ。しかし能力別とは言っても、この学園に在籍する時点で相応の家柄や能力を認められることもあり、B~Dではそれほどクラス間に差がない。AとSでは下位に比べて振り分けられる人数が減るのだが、侯爵以上の家柄であれば余程成績に問題がない限りはほぼ無条件にAクラス、学年全体を見て特に優秀な成績を修める者がSクラスという振り分けだ。
Sクラスはどの学年でも数が極端に少ないため、普段はAクラスに混ざって授業を受ける。固有のクラスを持たないように見えるが、その見分けは簡単だ。該当する者は皆、胸元に見事な金細工を飾っている。ただのクラス章と呼ぶには恐れ多いほど誇り高く、輝く将来を暗示させるようなそれは、全校生徒の憧れの対象になっていた。
皇族であるシオンハルトはまず間違いなくAクラスないしSクラスになるだろうと予想できたので、リエルは彼が同じ教室にいても驚かなかったが、その胸元にある証を見た際は思わず口元に笑みを浮かべてしまった。
噂に違わず、やはり優秀な御方らしい。
誇らしい気持ちになってしまうのは、きっと国民として当然の感情だろう。
しかし、流石に向こうから話しかけられるというのは予想外だった。
クラス内では何時でも人の目があり、貴族の多い場所ということも相まってご挨拶にご歓談にと授業の合間は常に忙しそうにされていた。リエルも名乗りと挨拶をすべきであったが、この分では自分の番が回って来るのはまだ先だろう。今日中にご挨拶できればいいと甘い判断をしたために、すっかり油断していたのだ。
まさか授業の合間に一息つこうと足を運んだ庭園で、他でもない殿下自身に捕まることになろうとは。
こちらに向かって「こんにちは」と優雅に微笑む予想外の御方に、リエルは固まった。
簡易的なお茶会の準備をしていたラナンが反射的に前に出かけたが、いつぞや言われた「大人しく」の言葉に従い、思い留まってくれたのは僥倖だ。
「ああ、失礼。まずはこちらからきちんと名乗るべきだったな。貴女を見かけたら気持ちが急いてしまった」
その甘い御姿でそんな言葉を向けられたならば、熱に浮かされて頬を染める娘がどれだけいることか。
皇子様の理想というほどの作り上げられた名乗りを拝聴しつつ、他のご令嬢とは違う意味でくらりと気が遠くなる自分をリエルは必死に宥めていた。
(まさか、まだ変装している名残が抜けていらっしゃらないのかしら)
街で出会った伊達男の雰囲気が垣間見えるのは気のせいか。
「……お久しぶりに御座います、シオンハルト殿下。こうしてお会いできて光栄に存じます。改めまして、サラバン=フォン=マティーニが娘、リエル=フォン=マティーニと申します。本来であればこちらから赴くべきところを、殿下に御手間をお掛けいたしまして誠に申し訳ございません。どうか、非礼をお許しくださいませ」
「顔を上げてくれないか、リエル嬢。言ったように、僕が先んじてしまっただけだから、悪いというのなら僕の方だろう。何より、君に謝らせるために声をかけたわけではないのだから、少々困ってしまうな」
「私に御用事が?」
合わせた瞳は、『記憶』の通りの青に輝いていた。今日の晴れた空の色よりも、深い碧。
本物だ、なんて。
妙に感慨深い気持ちになることをどうか許してほしかった。
「いや、用事というほど大層なものはないんだが、挨拶を。君の父君、マティーニ侯爵には随分お世話になっていてね。兄君も城務めだろう? 話す機会はそれほど多くないんだが、仕事ぶりは聞き及んでいる。こうしてスクールに通うことになり、同じクラスに君がいることを知って声をかけたくなってしまった」
リエルは微笑んだ。
「大変光栄なお話です。父や兄がいつもお世話になっております。殿下に気にかけて頂けたこと、我が家の誇りに存じます」
「大袈裟だな」
「いいえ、ちっとも」
和やかに相対しながら、殿下の真意が他に隠されていないかと窺うことはやめない。
「そういえば、よくこの場所がわかりましたね」
ふと思いついたように声をあげた。
この庭園は学園の敷地内にあるが、あまり人通りがなく、リエルがお茶会を楽しむ絶好の穴場スポットになっていた。図書室で気に入った本が借りられたとき、午後の授業までに時間が空くとき、よくこうしてティーセットを広げている。それを知るのは付き添うラナンくらいであり、探そうと思っても容易に見つからないのではないかという場所なわけだが。
「ああ、入学したばかりで校内の地理関係に疎くてね」
「何処か行きたい場所がおありでしたか?」
暗に迷子かと心配したが、それを直接的な言葉にするのは不敬だろう。
しかし、リエルの気遣いを正しく読み取ったシオンハルトは短く笑った。
「いや、単に早く慣れようと歩き回っていただけなんだ。覚えるには自分の足で歩くのが一番だから」
「そうでしたか」
「ここを見つけたのはそうした中での偶然さ。君の姿が見えて思わず話しかけてしまった」
後をつけたわけじゃないから安心してほしい。
爽やかにそんなことを言われても返答に困る。
(……もしかして本当に、ご挨拶のためだけにお声掛けくださったのかしら)
にこにことお互い笑いあっているが、どうにも会話が上滑りしている気持ちになるのはリエルの考えすぎだろうか。
シオンハルトはきっと嘘を言っていない。
でも、語ったことがすべてではない気がした。
「よろしければ、こちらで休まれていかれませんか?」
リエルは広げているティーセットを指し示した。
「少ないですが、お茶とお菓子をご用意しております。本日は良いお天気に恵まれておりますし、この場所は心地よい風が吹くのです。探索の合間に、少し休まれてはいかがでしょうか」
リエルの傍にラナンがいるように、シオンハルトの傍には騎士が一人ついていた。先ほどの出会い頭の挨拶でシオンハルトが自分と合わせて紹介していたが、名前は確か、カイルだったか。元々友人と時折お茶を楽しむこともあるため、ティーセットは多めに用意している。御付きの騎士が主人と席を共にするかはわからないが、二人分の追加用意が可能であることは確かだった。
しかし、問われたシオンハルトは困ったように首を振る。
「大変魅力的なお誘いだが、今日は遠慮をしよう。君の大切な憩いの時間にこうしてお邪魔しておいて、お茶会にまで飛び入りをするのは流石に無粋だ」
「そんなことは」
「またの機会に是非。そのときは、僕がお菓子を用意しようか。リエル嬢はフルーツタルトはお好きかな?」
フルーツタルト。リエルは甘いものに目がないが、その実極度な甘さはすぐに胸やけをしてしまう難儀な体質であった。その点、ジェラートや果物を使用したパイなどは甘さの中に爽やかな酸味もあっていくらでも食べられる。要するに、フルーツタルトは氷菓と並び立つリエルの大好物だ。
反射のように好きですと即答して、その勢いの良さに自分でハッとした。
僅かに目を見開いてから、くすくすと笑いを溢し始める目の前の貴人は実に楽しそうで、リエルの頬に熱がたまる。
「それはよかった。僕の知り合いにお菓子作りが得意な者がいてね、特にフルーツタルトが絶品なんだ。次の機会には是非とも御馳走させてほしい」
楽しみにしております、と。未だに熱い顔を隠すようにそっと手を添える身では、それだけ小さく返すのに精一杯だった。
「それでは、僕はこれで」
「はい」
リエルが腰を折って礼をする。
「ああ、そうだ」
ふいにぴたりと、進みかけていたシオンハルトの足が止まった。
「リエル嬢。一つ、君に会えたら聞きたかったことがある」
「何でしょうか?」
「僕に、何処かで会ったことはない?」
ひた、と。鋭く尖ったものを急に突き付けられた心地がした。
ほんの一瞬の静寂と、後を追うような心臓の激しい鼓動。
「……六、七年ほど前になりますでしょうか。以前に一度、皇城にて兄と共に謁見させて頂いたと記憶しております」
「ああ、僕も覚えているよ。君の兄君だけじゃなく、我が兄上も一緒だったね」
さらりと返す様子にはまるで手応えがない。
「はい」
「会ったのはその一度きりだったかな?」
ひと際大きく心臓が跳ねた。
聞かれていることがどういうことなのか、わかるようでわからない。
ただ、目の前の細められた海色は、何かを疑っていた。確かめようとしていた。
リエルは、その内容に心当たりがあった。
あり過ぎたことが問題だった。
「……そうですね」
少し考えるような素振りが、わざとらしくなければいい。
「城勤めをしております兄ほどではないのですが、私も何度か父に伴って登城しておりましたから……遠目からでしたら御姿を拝見したことがあったかと存じます。そういうことでしたらお会いしたとも言えるのですが、こちらは私の一方的な事情に御座いますし……」
正面から、宝石のような碧に向き合った。
「ですからやはり、こうしてお話するのはあのときのご挨拶以来かと存じます」
しばらく探るような雰囲気を感じたが、シオンハルトはそのままにこりと微笑んだ。
「……そう。それなら、僕の勘違いかもしれないな」
「以前に何か気づかぬところで私は粗相をいたしましたか?」
「いいや、気にしないで。今度こそ僕は失礼するよ」
ひらりと手を振って、シオンハルトは言葉通り今度こそその場を離れて行った。
遠退く後姿が見えなくなるまで穏やかに見送り、確認できなくなると漸く息を吐きだせた。
(どうしましょう。何とか乗り切れたけれど、シオンハルト殿下は何かしらの確証をもっていらっしゃる)
すんなりと引き下がりはしたが、最後の笑顔は間違いなく作り笑いだ。彼が抱いた何かしらの疑いが、リエルの回答を聞いてもまったく晴れていないことは明らかだった。
リエルには心当たりがある。
変に気にされるくらいならいっそのこと打ち明けてしまった方がいいとも思うが、その心当たりが一つじゃないことが何よりの問題だった。
普通に考えれば、二月前の街での出来事だろう。たった一日、ほんの数分の出来事。
これが普通のご令嬢であったならば、シオンハルト殿下の「会ったこと」に該当するのはその一点に違いない。
けれど、リエルには特別な『記憶』があった。
シオンハルト=ジン=ルノワールという名の『彼』と、花屋の娘として出会った『リエル』の、何年もに渡るその『記憶』。
〝もしも〟を考えてしまう自分は、馬鹿げているだろうか。
リエルは平行世界の夢をみる。
もしも、平行世界の夢をみるのが、この世界でリエルだけじゃなかったら?
そんな、いつだか考えては打ち消していた〝もしも〟が急に頭に蘇り、チカチカと明滅して存在を主張した。
だから、何も答えられなかった。とぼけるしかなかった。
「あの、お嬢様……」
ぼうっと考え事にふけるリエルに、ラナンが控えめに声をかけた。
その手にはティーカップがあり、新しく注がれたであろう紅茶はまだ温かそうだった。
お礼を言って受け取ったが、その顔にはどこか困惑が滲んでいた。
「先ほどの第二皇子、シオンハルト殿下ですが」
「ええ」
「その……お声や顔立ち、身のこなしなどに既視感があります。以前、休校の折にお嬢様と訪れたマーケットで、お嬢様の帽子を受け止めた男性を覚えていらっしゃいますでしょうか? その者と非常によく似ております」
「………」
「先ほどの第二皇子殿下の口ぶりからしても、あのときの青年である可能性は高いように思います。どういった意図であのような質問をなさったのかはわかりませんが……まるで気づいて欲しいと言わんばかりの態度でいらっしゃるように感じました」
「………そうよね。貴女は当然気がつくわよね」
リエルはとうとう中途半端な自分の詰めの甘さに脱力した。
何かと勘のいい上に、あの時だって変装した殿下の本質に気が付いたラナンが、本人を目の前にすればどうなるかなど、可能性として十分考えられただろうに。
ああ、やはり。思った以上に『恋人』の存在に浮かれて頭が回っていないのかもしれない。何が「知っている未来は選ばない」だ。このままでは挙動不審な頭の弱いご令嬢として人生が終わってしまう。
リエルは項垂れた。
そんな「自分だけの人生」は御免である。
「あの、やはりお嬢様は気づいていらしたんですね…? 出過ぎたことを聞いてしまい申し訳御座いません」
リエルがそれ以上何も答えないから、当たり前のことを聞いて呆れさせてしまったと思ったのだろうか。もしくは、今の今まであのときの青年が最近話題のシオンハルトだということに気づかなかったことを不出来な侍女だと主人が嘆いているとでも思っただろうか。
ラナンの見当違いな慌てように、ますます心が締め付けられた。
「いいのよ、ラナン。落ち込んでいるのはあなたのせいではないの」
「では」
「勿論、シオンハルト殿下のせいでもないわ」
先んじてこの侍女の言い出しそうな言葉を制した。
「波風をたてないような無難な選択をしたつもりが、なんだか裏目に出ているみたい。私もまだまだね」
だからあなたは気にしないでね、と顔を覗き込んだのだが、可愛い顔の上では眉間に皺が寄っていた。
「……見るからにお忍びな御姿を見ないふりをして差し上げたお嬢様のお気遣いを、意図の読めない質問でわざわざ自ら棒に振ろうとした挙句、こうしてお嬢様を悩ませるだなんて。恩を仇で返すとはこのことではないでしょうか。やはり第二皇子殿下はお嬢様にふさわしい御方に思えません」
ああ、このままではラナンの中で、シオンハルトはリエルの学園生活を脅かすものとして認識が固まってしまう。
「……ラナン。ふさわしい、ふさわしくないは誰かが決めることではないし、シオンハルト殿下はきっと思慮深くて素晴らしい方よ。私にご挨拶にいらっしゃったのも、何か考えがおありなんだわ。それに、私はあくまで数多におられる殿下の婚約者候補の一人にすぎないの。勝手にお相手に想定するのは、立場ある殿下に失礼よ」
まだ不満そうな様子が隠し切れない侍女を「大丈夫」「心配しないで」と宥めながら、思考はゆったりと別の方へ向いていた。
これから毎日のように顔を合わせることになる殿下に対し、どうするべきか。
目下の最重要事項はこれで決まりだ。