学園の気になる噂
「……それは本当ですか?」
リエルは目を丸くした。その声には、隠しようもない驚きが滲んでいた。
「ええ、リエル様。わたくしも驚きましたが、どうにも本当らしいのです。皇城の騎士様がいらっしゃるのをこの目で見ましたもの」
頬を上気させて熱心に語るのは、リエルの通うスクールで学友にあたる貴族令嬢だ。
挨拶もそこそこに「リエル様、もうお聞きになりました?」と切り出した彼女は話したくてたまらないという様子を隠しきれていなかった。
「第二皇子殿下が、近々こちらに御入学されるそうなんです!」
第二皇子といえば、シオンハルト殿下だ。
まだこの前の思わぬ邂逅の余韻が抜けきらない中、次のパーティーではどのような顔で挨拶するべきか、まさか先日はどうもなんて言えないし……なんて呑気に考えていた自分が憎い。
(そんな悠長な時間も与えてもらえないみたい)
興奮を隠しきれない様子の学友の話に頷きながら、リエルは内心でうんうん唸ることになった。
リエルが通うこのスクール、マリアヴェル・サン学園は、ルノワール帝国内でも随一の名門校だ。生徒は王侯貴族が多数を占めるが、家柄や身分に限らず何かしらが優れていると認められた者は誰であっても入学できる。特にクラス分けは完全実力主義を徹底し、上位クラスに残るためには実力を示し続けなければいけない。この学園の卒業生であることがステータスとして確立されるほどだ。あらゆる分野の有能な人財が集まるため、近隣諸国から王族やその血縁が通うことも珍しくない。
しかしルノワールにおいては、今代の皇子方は年頃に至ってもスクールには通われない方針でいるのだと思われていた。皇子は生まれた時から次代の国を背負うための特別な教育が施されることもあり、まあそういうものだろうと納得もされていた。
実際、第一皇子のウィリアム殿下は一般的にスクールを卒業される歳まですべての教育を学外で過ごし、それでいて目覚ましいほどの優秀さを誇っている。
第二皇子のシオンハルト殿下においても同様だ。
シオンハルトとリエルは同年の生まれである。スクールの対象となる年齢となってから幾ばくも過ぎているが、その御名前が学生名簿に載ることはなかった。
だからこそ。
「……どうして今なのかしら」
それがリエルの心に引っかかる。
「途中編入もおかしなことではないと、以前仰っておられませんでしたか?」
ラナンが主人の呟きに不思議そうに返答した。
確かに諸々の理由による途中編入、並びに途中退学はそれほどおかしな話ではない。前者は丁度この間話題となった幼馴染みのナサエルのように、他国へ留学していた場合などがあげられ、後者は早期の婚姻等によって学問の継続よりも優先される事柄が発生した場合などがあげられるだろう。
「ええ、おかしなことではないの。でも、殿下の場合はどんな理由がおありなのかしらって、何だか気になってしまって」
地方や諸外国への遠征が多かったウィリアム殿下と違い、シオンハルト殿下は基本的に皇都にて過ごされている。帰城に合わせての編入とも言い難い。
十分な知識や技量が既に養われているであろう今になって、わざわざスクールへ通う意味とは何だろう。
リエルがみた、どんな『記憶』にも覚えがないことだった。
考えすぎかもしれない。
しかし、結果的に考えすぎだったという結論になるならばそれはそれでいいのだ。何の準備もなしに思いもよらない壁に当たるくらいなら、準備のし過ぎで取り越し苦労に終わる方が余程いい。貴族令嬢にはいつだって優雅さが求められる。そのための余裕をつくるには、用心するに越したことはない。
奇しくもつい数月前の殿下本人と同じ考えを抱いているだなんてことは、当人達の知る由もないことだった。
「……これは、私が小耳にはさんだ程度のお話なのですが」
ラナンがふいに声を潜めた。
言いづらそうにしているのは、恐らく不確かな情報を主人の耳にいれることに迷いがあるからだろう。
「聞かせてくれる?」
「いくつか憶測が飛び交っているようですが、私が聞いた中で有力なものは二つです」
この侍女が「有力」とまで言うのならば確証はなくともそれなりに信用できる内容だ。
リエルの使用人として学園に申請しているラナンは、敷地の出入りに都度の許可は必要ない。しかしそれでも生徒とは違う括りに置かれる立場であることや、何より本人がリエルの傍を離れることを厭う気質のために単独でふらりと聞き込みをしている様子など見たこともなかったが。さて、一体どこで精査できるだけの情報を聞いてくるのだろうか。
それはそれで気になったけれど、今はそこに触れないでおく。
「まず、このタイミングということですので、やはり第一皇子に起因していると考えられています」
「ウィリアム殿下の? 確かに、ここ最近で特筆される出来事といえばあの御方のことかしら」
「はい。皇都への帰城、異国の姫とのご婚約。皇位につく日が近いということは誰もが考えますでしょう」
「そうね」
ついこの間、父や母、兄たちと交わした会話を思い出す。
「その際、恐らく第二皇子は障害に成り得るのではないでしょうか」
ラナンは口下手なところがあって、どうにも話が飛躍してしまう。
「ウィリアム殿下が皇位につく際に、シオンハルト殿下の存在がそれを邪魔するだろうということ?」
ラナンは頷いたが、それが今回の突然の編入にどう関係するのか。
「お二人の関係は良好なはずよ? 皇太子もウィリアム殿下と明言されているし、今さらその座を争うようなことはないと思うけれど」
「はい。ですが、御本人方の意思と、周囲の思惑は別の話です」
そこまで言われると、リエルにも彼女の言いたいことが見えてきた。
ウィリアム第一皇子とシオンハルト第二皇子。数えで六年の歳の差があるお二人だが、逆に言うとその程度の年齢差だ。幼子の頃ならまだしも、互いに青年と呼ばれる領域にまで成長した今となっては、六年の差など大きくはない。少なくとも周りにとっては。
シオンハルトは、兄のウィリアムが皇位につくことについて何の異存もないと公言しているらしい。
しかし皇宮内は勿論、そこに密接する有力貴族も決して一枚岩ではないだろう。加えて諸外国の重鎮も口出ししてくることを考慮すれば、政治的思惑は本人の意思の届かぬところでどう動くかわからない。
具体的に言うならば、ウィリアムの皇位継承に不満がある者が、この機に乗じてシオンハルトをその席に、どうにかして祭り上げようとする可能性があった。あるいは二人の皇子を争わせることで国内に歪みを生み、分裂させ、国家転覆や他国の侵攻を企てる輩もいないとは言い切れない。
二人の皇子はどちらも現皇帝と皇妃の実子であるので派閥争いなどは考えづらく、起き得るとしたら後者だろうか。
「つまり今回のシオンハルト殿下の学園編入は、皇位につかれる準備を始めた兄殿下に対し、自分がその政敵にはならないとアピールするため、ということかしら?」
リエルの問いに、ラナンは頷いた。
首都城内に皇位継承権を持つ年頃の皇子が常に二人とも居るというのは、要らぬ軋轢や無意味な派閥を生みかねない。政治も絡む事柄である以上、多少のことなら仕方がないが、大々的に表面化するようであれば、その噂は城外にまで広まってしまう。仲のいい兄弟に国の安寧を重ねていた国民にとって、少しの波紋が大きな動揺を呼ぶかもしれない。
ウィリアムに倣って地方や有力国への長期遠征も考えられただろうが、兄殿下の帰城と入れ替わりに出て行くというのも、変な勘繰りをする者の的に成り兼ねなかった。どれだけ正当な理由付けをしたところで、思惑のある者には穿った捉え方をされるものだ。
それならば、所在は離れることなく、日中にスクールへ通う用ができる学生という立場は城を空けるいい理由になることだろう。
ウィリアムがいない間に皇帝陛下の補佐を行っていたらしいシオンハルトだったが、今は学業を優先したいと言えば、御公務から離れ、政敵にもなりにくい。
「これが、一つ目の理由かしら?」
こくりと頷くラナンを見ながら、なるほどなあなんて感心していた。言われてみれば納得の話だ。
「それで、二つ目の理由は?」
「二つ目、なんですが……」
ラナンは一拍、言い淀んだ。
「その……妃候補を探しているのでは、と」
「うん?」
思わぬ角度の話に、小首を傾げてしまう。
「第一皇子が婚約されるということで、第二皇子のお相手にも注目が集まっているようなのです。次期皇帝陛下が異国の姫をお相手となさるなら、第二皇子妃は国内の王族や有力貴族から選ばれるべきだとか……」
「その婚約者候補を見定めるために、年頃の娘が集まるマリアヴェル・サン学園はもってこいの場所だということかしら?」
「あくまでも噂に御座いますが……」
「学園はお見合いの場でも、女性を並べたショウウィンドウでもないのだけれど」
「あ、あくまで一部の者が勝手に流している噂です、お嬢様」
リエルは特別不快に思っているわけではなく、むしろ自分で言いながら面白くなってしまったくらいなのだが、そのご令嬢の対象に自分の主人が含まれるとわかっている侍女は何やら必死で「噂なので」と繰り返していた。
「冗談よ、ラナン。本気で言っていたら不敬になっちゃうもの、内緒にしてね」
こくこく首を振る様子に笑みをこぼしつつ、それはそれとしてこれも納得できる話だと言った。
ラナンはリエルに話すことを躊躇ったが、それでも「妃選び」を有力な二つ目の理由として選んだことは流石だ。リエルにしてみても、それが的外れでないことは容易に理解できる。
「私だって、誰かを見極めようと思ったら紙に並べられた情報を眺めるよりも実際に会いたいと思うもの」
何も妃に限った話ではない。
今度開催される皇太子主催のパーティーと同じく、自ら交流することで為人がわかれば、それが今後のあらゆる人選に役立つことだろう。家柄、財力、知力、武力、あるいはそれに並ぶ何か。種類を問わず秀でた者が集うこの学園において、それを間近で目にすることは今後の国家を支える才能の発掘に繋がる。
「私も、今まで以上に気を引き締めなくちゃいけないわ」
この間の邂逅の際、シオンハルト殿下が正確にリエルをマティーニ家の令嬢として認識できたかは定かではないが、学園で顔を合わせるとなればまず間違いなく向こうは今度こそ顔と名前を一致させて覚えるだろう。
こちらは知らぬふりを通すのだから、これ以上鈍いご令嬢だとは思われないように他の場面で能力を示す必要がある。
(マティーニの名前に関わりますもの。お父様とお兄様の足枷にならない程度には頑張らなくちゃ)
気合を新たにしていると、ラナンは複雑そうな顔をしていた。
「……お嬢様は気負わずとも今のままで十分以上に素晴らしい御方です」
「気持ちは嬉しいけれど、それは褒めすぎよ」
「私は心配なんです」
「心配?」
「お嬢様をご覧になったら、妃候補なんて即決に決まっています。仮に噂が事実ではなかったとしても、見初められてしまえば断れないのではないでしょうか。第二王子がどんな御方かもわからないというのに」
既に会っているとは言えないので、どうしたものか。
リエルは当たり障りのない一般的評価を口にした。
「皇太子殿下と並び、とても優秀で、皇城内でも人望が厚い御方と耳にするけれど」
「皇族への憧れを煮詰めたような世間の噂などあてになりません。それに、何処から来たどんな御方であろうとも、お嬢様のお相手に見合うかは別の話です」
この侍女の主人贔屓にも慣れたものだが、言い方というものを考えて欲しい。
「ラナン、他に人がいるような場所ではそういったことを口にしては駄目よ」
「心得ております」
「もしも仮にあなたの言うような状況に近いことが起きても、大人しくしていてね?」
リエルに対して嘘をつけない彼女は、少し迷った末に言葉を返した。
「……お嬢様の学園生活が脅かされないようであれば」
(……脅かされると判断したら何をするつもりなのかしら)
そんな話をしてから数日後。
「こんにちは。いや、ここでの挨拶は御機嫌ようとするべきかな。そちらはマティーニ侯爵のリエル嬢でお間違いはないですか?」
目の前に輝く麗しい笑顔に、リエルは内心で冷や汗をかいていた。