いつかの世界を超えて ~シオンハルトの場合~
最初は、ほんの少しの興味から始まった。
月に一度のマーケットは珍しい品が並ぶことが多く、異国文化や市井の雰囲気に触れる絶好の機会だ。そんなもっともらしい理由を並べては、シオンハルトはこの日に城を抜け出すことをやめなかった。誰が注意してもその場限りの反省で、見張りの目も役に立たないとなれば、いつしか変装することと護衛をつけることを条件に外出を許されるようになったのも必然だろう。一人で無防備に出歩かれるよりよっぽどマシだった。
この日もそんな一日に他ならなかったが、出会いは突然だとはよく言うもので。
こつり、と足に何かがぶつかった感覚。
視線を落とせば、磨かれたように赤々とした林檎が転がっていた。何処かの出店から逃げ出してきたかと思った矢先、鈴の鳴るような声に呼びかけられる。
「すみません、その林檎……」
振り返った先にいたのは声の印象そのまま、まだ年若い少女だった。若いと言っても、シオンハルトと同じくらいだろうか。ふわりとした身綺麗な格好をしてはいるが、上流と言えるほどのものではなく、一般階級だと一目でわかる。
そうして瞬時に相手を数値化する自分の習慣には嫌気がさすが、同時に必要なことだと思ってもいた。
少女の抱えている大きな袋を見れば、足元の林檎がどのように転がってきたのか想像はつく。拾い上げて、軽く衣服で汚れを払ってから近づいてくる少女に笑顔を向けた。
「こんにちは、お嬢さん。こちらは君の林檎かな? まっすぐ僕の元へやってくるだなんて、この子は僕が好きなのかもしれないよ」
肩をすくめて笑うシオンハルトを見て、少女は固まったようだった。
その頬に赤みがさして見えたのは、きっと気のせいではない。
「……お嬢さん?」
反応がない少女にもう一度呼びかけた。
正直、こんなことには慣れきっていた。シオンハルトは自分の見た目に相手がどのような意識を向けるか理解していたし、それは決して自意識過剰ではない。特に年若い女性に関してはわかりやすい例が多く、自分がどのように微笑むか、どんな言葉を選ぶかで熱に浮かされたような目が返ってくる。
第二皇子という身分がそうさせるのだと思っていたが、変装したこの身においてもそういった視線は付き纏うものだった。むしろ、気やすい雰囲気に遠慮が消えるのか、街を少し歩くだけであからさまな誘いを受ける。早々に辟易したのも当然だろう。しかし、ある意味で扱いやすくもあると気づいてからは、自分の容姿さえも武器にしようと気持ちを切り替えた。
さて、この少女も哀れな一人かと思う心中は置いておいて、シオンハルトはなおも笑顔を崩さなかった。
「お嬢さん、もしかしてこちらは貴女のものではない?」
「わ、私のもので合っています! すみません、受け止めていただいてありがとうございます」
「いいえ、僕がいることで貴女のお役に立ったなら幸いです。さあ、こちらをどうぞ。美しいお嬢さん」
林檎を差し出すと、慌てたように受け取って頭を下げるものだから、また袋から何か落ちやしないかと心配してしまった。
もう用は済んだのでその場を立ち去るつもりでいたのに、熱心に見つめてくる様子には何故か引っかかるものがあった。
「……僕の顔に何か?」
「いえ、綺麗な瞳ですね」
それはつい、条件反射で口にしてしまったように感じた。言われたシオンハルトよりも、言った少女の方が驚いたように目を丸くしていたのだ。
「あの、突然すみません! 変な意味はなくて、ただ本当に、綺麗な色だからつい見惚れてしまって」
「ああ、よく言われます。珍しい色をしているって。緑の瞳を見るのは初めてですか?」
「いえ、友人に翡翠の目をもつ子がいるんです。その子の瞳もとても綺麗で、なんだか似ているなって思ったんですが」
続きを迷うような間があった。
「何か気にかかることでも?」
「……なんだか、貴方の瞳は不思議で。宝石みたいに綺麗な緑のはずなのに、私が知っている翡翠の瞳とは何かが違うんです。個人差と言われたらそれまでだけれど、なんだか気になってしまって」
「僕の目は翡翠じゃない?」
少しの動揺を隠して揶揄うように言ったが、少女はそんな様子に気づきもせず首を傾げて考えていた。
「翡翠というよりも、もっと深い、海の色のような…」
「海?」
海。それを表現する色の多くは、緑というよりも青のイメージが強い。
隠している本来の色を言い当てられたような心地になった。ほんの少しの沈黙に気づいてか、ハッとしたようにパタパタと小さな手が視界で揺れた。
「宝石に見合わないと言いたかったわけではないんです、決して! 綺麗な瞳だと思ったことに嘘はないんです!」
不躾に見つめてしまってすみません、と少女は謝る。
「……いいえ。僕の方こそ引き留めてしまってすみません。お買い物の途中だったんでしょう?」
シオンハルトは、無性にざわつく心を置いて、またにこりと笑顔を作った。
「ええ。でも、もう帰るところでした。そろそろお店番を交代しないと」
「なるほど、買い出しですか。道理で荷物が多いわけだ」
「つい、買い込み過ぎてしまって」
「随分重そうですが、よろしければどちらかまでお送りしましょうか?」
「え?」
「お嬢さんの細腕に何かあっては大変だ。僕でよければ引き留めてしまったお詫びにお供しますよ」
「お供って、そんな……」
「貴女ともう少しだけ話したいと思ってしまうこの僕を、どうぞ荷物持ちとして使ってやってはくれませんか?」
気取ったように胸に手をあてる仕草は悪くなかったはずだが、シオンハルトの予想に反し、少女はすっかり恐縮したようだった。頬は赤らむどころか、心なしか青ざめているようにすら見える。
「と、とんでもない! 貴方に荷物持ちなんかさせられません!」
「どうして?」
「お兄さん、いいところのお家でしょう? そんな方にこんな雑用をお願いするだなんて、私としてはとっても心臓に悪いんです」
「……へえ」
意図せずに漏れた声が平淡なせいで、少女の肩がびくりと跳ねた。
「えっと、ですからあの、高貴な方に荷物持ちだなんて雑用はちょっと……」
「そうじゃない。いや、違うんだ、少し驚いてしまって。お嬢さん、どうして僕の身分をそんな風に思うのか聞いても?」
「? ええと、まずそのお召し物でしょうか。この辺りでも珍しいほどにきめの細かい織目だと思いまして。袖口の刺繍も見事ですよね。繊細なのにそう感じさせないほどさり気ない造りをしていらっしゃる。今日のようなマーケットでもそうそうお目にかかれない一品だと思います。それを何事もなく着こなせるお兄さんは普段からきっと同等かそれ以上のものに触れているのだろうなあ、と」
すらすらと、何てことのないように少女は話す。
「だから、ね。お気持ちだけで十分ですよ。心配してくださってありがとうございます」
シオンハルトが呆然としている間に、少女はその場をもう離れようとする。こちらに対する未練など少しも感じさせない、実に晴れやかな笑顔だ。
「林檎も。ありがとうございました! それでは、」
「待って」
咄嗟に呼び止めたのは無意識だった。
きょとりと見返すあどけない顔に、ここで終わりにしてはいけないと、根拠もなく確信した。
「……僕は、ハルトと言います。今日の出会いの記念に、よかったらお嬢さんの名前を教えてもらえませんか?」
意識して柔らかく微笑む。
少女は驚いたようだったが、待たせることなく、欲しいものは返された。とびきりの笑顔と一緒に。
「私はリエルです。ここから二つ先の通り沿いで花屋を営んでいます。日々に彩りをご所望の際はどうぞお立ち寄りくださいね、素敵な花をご覧にいれますから。ハルト様ならいつでも大歓迎でサービスしますよ!」
純粋な商売気しか感じない誘い文句には、これ以上ないほどの好感がもてた。
「ああ、きっと行こう。君に会いに」
するりと口から飛び出した耳障りの良い言葉にだって頬を染める様子がない。自分が口説かれているだなんて微塵も思っておらず、まるで面白い冗談を聞いたとばかりにくすくすと笑うのだ。
「はい! お待ちしております、綺麗なお兄さん!」
最後にぺこりと、小さなつむじが見えるほどに頭を下げて、リエルは通りの向こうへと歩いて行った。
シオンハルトは今度こそ引き留めなかった。
けれど視線だけは、どこか名残惜し気にその遠ざかる背中から離せずにいた。
「……リエルか」
聞いておきながら呼べなかった名前を、今更ながら口に出す。
思い返すのは、熱心に見つめる視線だ。その理由が最初に思い描いたものと違ったから、いい意味で興味がひかれた。
瞳の色に、服の質。流石に皇族とまでは思わなかっただろうが、ある程度の身分をあれほどあっさり当ててみせたことは素直に驚きに値する。
花屋の娘ということだが、ただの庶民を名乗るにしては良い目利きの才がありそうだった。
シオンハルトを「綺麗」と称しておきながら、見た目に一切の執着がなさそうなところも面白い。あの年頃の娘に想定し得る反応をことごとく打ち破ってみせた様は爽快だった。
リエルという少女に関して考えれば考えるほど、シオンハルトの機嫌が浮上していく。そんな自分に気づいて小さく笑った。
「殿下」
「街中での呼称には気を付けろ。僕は今『ハルト』だ」
護衛には少し離れたところから着いて来るように指示していた。そんな彼がこうして危険もないのに話しかけてくるということは、もう今日は時間切れなのだろう。
「今日は随分と楽しまれたご様子ですね」
「そう見えるか?」
「はい。気に入った品がおありでしたら買っていかれてはいかがでしょう?」
「いや、今日はもう帰るよ。でもそうだな……確かに面白いものは見つけた」
「今買わなくては無くなってしまうかもしれませんよ?」
当然のようにそんなことを言う今日の護衛は、きっとシオンハルトの頭に浮かんだ面白いものをわかっていない。ちゃんと一定の距離を保たれていたようで何よりだ。
「はは、心配するな。むしろ時間をかけて見極めたいんだ」
「それは結構ですが……無断外出を増やすのだけはおやめくださいね。こちらの心臓がもちません」
「努力はするさ」
非難の声をあげる護衛兼お目付け係をあしらいながら城へ戻る道中、次の機会をいつ作ろうかと思案するシオンハルトはまだ知らない。まさか自分が、一介の花屋である少女をこれから本格的に気に入ってしまい、隙を見つけては足繁く街へ通うことになろうとは。それでも会う頻度に不満を感じ、いっそのこと城内に花を飾る発注をしてしまおうと画策することになろうとは。
そんな未来がたった数か月先に待っていようなんて、このときの彼は知る由もなかった。
とある世界で確かにあった『出会い』の一幕。
◆◆◆
「……あまり勝手な真似をされては困りますよ、殿下」
「ここではハルトと呼べと言ったはずだが?」
すぐ近くからかけられた声に、シオンハルトは驚かなかった。
傍に居ることは知っていたし、言葉に呆れの色を滲ませるこの男がその実他の護衛連中よりもよっぽど放任主義だとも知っていた。シオンハルトとそう歳も変わらないというのに、これで実力は護衛筆頭に値するのだから実に有り難い。もしもこの場に居たのが自分の側近であったなら、過保護が爆発して有無を言わさず安全圏へと連れ戻されていたはずだ。
たかだか数分、偶然出会った少女と立ち話した程度で大袈裟だと思うだろうが、主君第一主義を掲げる者にとっては素性の知れない相手とのその数分がとても心臓に悪いのだといつだか言われたことがあった。
まあ、今回に関しては相手がまったく素性の知れない相手とも言えなかったので大目に見てくれるだろうが、それはそれで、今度は接し方に問題があったとお小言がありそうだ。
「それでは、ハルト様。畏れながら申し上げますが、少々お遊びがすぎたのでは? あまりうるさく言いたくはないですがね、マティーニ侯爵のご息女を相手に御自分の身分をほのめかすのはどうかと思いますよ」
「わかっている。つい、やりすぎた」
「ついって、貴方ねえ」
「悪かったよ」
会話がどこまで聞こえる範囲に居たのか知らないが、名のある令嬢を相手にわざわざ自らかまをかけて煽るような真似をした。それも他に誰が聞いているかわからない往来でのやり取りだとすれば、護衛はたまったものじゃないだろう。これで本当に言い当てられでもしていたらあらゆる意味で大問題だ。第二皇子があからさまに変装して街を歩いているのも醜聞に関わるし、ご令嬢相手の言動も王族らしからぬものだった。何よりその場が混乱でもしたら、何処に危害の種があるかわかったもんじゃない。
シオンハルトとしてもせっかく得られた外出の条件をこんなところで潰したくはないのだが、それでも心に引っかかる何かがあった。
「……なあ、カイル」
「なんですか?」
「俺のこの瞳、お前は何色だと思う」
「その御大層なカラーコンタクトを付けた目の色ですか? そうですね、俺はあまり情緒のある色の名前を知らないんで見たまま安直に答えますが……まあ、緑でしょうか」
「俺もそう思うよ」
「そうですか」
「緑の宝石と言えば何を思い浮かべる?」
「……俺は宝石にも詳しくないんですが」
「一つくらい何かあるだろ?」
意図のわからない突飛な質問にカイルの眉間に皺が寄ったが、どうも答えるまで動く気がないと読み取ると観念したように息を吐いた。
「緑の宝石ねえ……エメラルドとかそんなイメージです」
「ああ、そうだな。あとは、翡翠とかもよく言われる」
誰にというと、あからさまな誘いをかけてくる街で出会った女性であったり、おべっかを言って品物を買わせようとする行商人であったり。
「そうですか。それで? それがなにかあるんですか?」
考え事を始めてしまった主人は生返事しか返さない。カイルとしては、このままこの場所に留まられてはたまらないのだ。何が引っ掛かるのか知らないが、没頭するなら城に帰ってからでいいだろうに。
小さくもう一度、今度は敢えて「殿下」と声をかけた。
「いやな、アレキサンドライトと言われたんだよ」
「アレキサンドライト?」
「ああ。俺のこの瞳の色を宝石に例えたとき」
「おやおや。作り物の色ですら宝石にしてしまうだなんて流石です、殿下」
「茶化すな」
「失礼いたしました。それで? それの何がおかしいんですか? 確かアレキサンドライトも、まあ緑と言えば緑でしょう。発見当時はエメラルドに間違えられた宝石のはずだ。貴方のその目を例えるのに間違ってはいないと思いますがね」
「詳しくないという割によく知っているじゃないか」
「茶化してるのはどっちですか」
「悪かった、悪かったからまだ行くな」
すうっとわざとらしく気配を消し始める本日のお目付け役に、シオンハルトは待ったをかけた。
「確かにアレキサンドライトは緑の宝石と言われても間違いじゃない。でも、なんでわざわざアレキサンドライトを選ぶ? 一般的に緑と言えばすぐに思いつくのはエメラルドや翡翠だろう」
「……考えすぎじゃないですか?」
「そうかもな。でももし、アレキサンドライトを選んだことに何か意図があったら……? 可能性が僅かにでもある限り、考えすぎて悪いことはないさ。鈍感に過ごして後手に回るよりはずっといい」
アレキサンドライトという宝石は、色が変わることで有名だ。昼と夜、天然と人口、光の種類によってその身の色を変える。確かに緑の一面もあるのだが、同じように赤や紫、青の側面もある。一つの石に様々な色が秘められていた。
もしもこの特性を含めてハルトの瞳をアレキサンドライトに例えたのだとしたら?
まるで色が変わることを知っていたかのように思えないだろうか。変装を解いた本来の姿では、瞳の色が違うのだと知っているかのような。
もしそうだとしたら、彼女は何処までわかったうえであの場で変装を指摘することを避けたのだろう。往来で皇子の身分が露見する危険性を鑑みて? 変装には気づけても「ハルト」がシオンハルト第二皇子であるということにまで気づけたかは別問題だ。何を思って対応したのか、シオンハルトはそれが知りたい。
「……やっぱり、考えすぎだと思いますがねえ。俺にはどうも、貴方がいつになく執着しているように見えます」
「……」
カイルの言葉はある意味で図星だった。彼女のことを考えれば考えるほどに、シオンハルトの中に名状し難い何かが巡る。とにかく無性に気になるのだから仕方ない。
落ち着いた物腰に、仕立ての良い衣服。手にした帽子も趣味がいいと思わず賞賛したくなるほど繊細な造りをしていて、オーダーメイドであったことは間違いない。
直接の面識は一度きり、しかも幼い頃の記憶で曖昧なものだが、遠目からならばその成長した姿を父親に連れられて城内を歩く様子から見たことがある。
現在、数ある縁談相手の一人として、その名前があがっているご令嬢。
「…リエル=フォン=マティーニ。マティーニ侯爵のリエル嬢か」
妃選びなど面倒なだけだと思っていたが、これはもしかしたら。
隣から主人の様子を窺っていたカイルに言わせれば、思考の海に沈むシオンハルトは今にも鼻歌でも始めそうなほど機嫌が良く、それはもう嫌な予感がしたらしい。