お出かけ日和と兄の忠告
気持ちのいいほどよく晴れた日の昼下がり。
窓の外を眺めていたリエルは、こんなに良いお天気に通っているスクールも休校ときたら、暇な時間を持て余すことがひどく勿体なく思えた。
リエル=フォン=マティーニは、国で有数の力をもつ侯爵家に生まれた。
所謂貴族のお嬢様というやつだが、可憐な見た目や柔らかな言葉遣いに似合わず、本人の気質は考えたら即行動を絵に描いたような活発そのもの。しかしながら、毎度そういった突発的な行動に振り回されるのは彼女が身内と評する相手に限定されるものだから、その可愛らしくも困ったお転婆を知る者は案外少なかったりする。
この日も絵画のような出で立ちで繊細な溜息を溢しながら、しかしその思案の内容といえば、これから何をしようか、その「したいこと」をリストのように頭の中に並べて厳選するようなもので。憂うどころか、うきうきと弾む気持ちに占められていた。
(せっかくなら外に出ようかしら。確かこの前、街の通り沿いに美味しいジェラート屋さんができたのですって、話に聞いたばかりですもの)
甘いものの中でも特に氷菓が大好きなリエルにとって、とても魅力的な情報だったのを覚えている。
行きたいと思ったのは必然だが、そのままの理由を家人に伝えると、食べ歩きは慎ましくないだの、並ぶ苦労をする必要はないだのとあれこれ過保護を発動されて専門のシェフを家に招くことに成り兼ねない。
落ち着いてゆったりと楽しむことも嫌いではないが、大衆向けには大衆向けの良さがある。綺麗に一枚一枚曇りなく磨かれたお皿の上に、芸術品よろしく飾られた渾身の一品と、より多くの人が楽しめるようコストを考えたうえで見た目と味に一定以上の好評を得ている一品。そもそもの土俵が違うのだから優劣などつけられようか。リエルはどちらも大好きだと胸を張って言える。
つまるところ、たまには気兼ねなく後者を楽しみたいのだった。陽光の挿し込むカフェテリアで若者向けに可愛らしくデコレーションされたケーキやラテを嗜みたいし、道を埋め尽くすほどの香ばしい香りを放つ屋台で買った串焼きにその場で遠慮なくかぶりついたりしたい。
とにかく、リエルとしては噂に聞くジェラート屋に自らの足で食べに行きたかった。
「お嬢様、午後のご予定はお決まりですか?」
丁度、昼食後の紅茶を用意していた侍女が手を止めてリエルに問う。
「いいお天気だから、出掛けましょうか」
何処へ行くというものを省いた言葉でも、主人が上機嫌にしていればそれだけでこの侍女に否はなかった。
「それでは、外出の準備をいたします。お召し物はどうされますか?」
「そうね…春の色がいいわ。瑞々しい新緑や、柔らかな花の色。貴女の見立てで構いません、いくつか候補を出しておいてくれるかしら」
「かしこまりました」
そう時間もかからず、リエルの前には外出用のドレスに帽子、靴が並ぶ。あまりたくさん広げる選び方は無駄が多い気がして好きではない。けれど、選ぶこと自体は楽しいものだ。
嬉々として準備を進めていると、支度を手伝っていた侍女が急にふらりと部屋の扉へ向かった。
「……お嬢様」
「ええ、構わないわ」
主人の了承を得て侍女が静かに部屋の扉を開けると、そこにはリエルの予想通りの人がいた。不自然な位置まで上げられた右手を見るに、恐らく今まさに扉をノックする一歩手前だったのだろう。
これも最近ではお決まりの光景だが、リエルは可笑しそうに微笑んだ。
「ご機嫌よう、お兄様」
「……ああ、ご機嫌ようリエル。前も言ったが、いくらラナンが気配に敏感だからといって、訪問者が誰かわかる前に扉を開けてはいけないよ」
リエルと五つ年の離れた兄、タリアスはそう言って、仕方なさそうに溜息を吐いた。
ラナンとは、リエル付きの年若い侍女の名前だ。
「ちゃんと相手をわかってから開けています、お兄様。この子が間違えるはずないもの」
「そういうことを言っているんじゃないんだよ、まったく。あまりじろじろと見るものではないが、部屋の様子からしてこれから着替えるのではないのかい? そんな場面で扉を不用意に開けるのもいけない」
「まだ何を着るか決まっていないもの。下着で出迎えたわけでもないでしょう?」
くすくすと笑うリエルは実に可愛らしかったが、一方でタリアスは、妹のあんまりな言い様に額に手をあてて項垂れた。
「……侯爵家の娘としての慎みの話だよ。ラナン、君も君だ。リエルが喜ぶからといって、何でも言う通りにしなくていい。今はまだ奇跡的に百発百中のようだけれど、もしも扉を開けた先が僕じゃなかったらどうする? 父上は笑うかもしれないが、母上なら驚いて卒倒するぞ。罷り間違ってお客様だったとしたら、失礼だと顔を顰められてもおかしくない。いいかい、ときに主人の行いを窘めることも、側近の務めだよ」
「申し訳御座いません、タリアス様」
頭を下げる自らの侍女の前に、すかさずリエルは割って入った。
「まあ、お兄様。ラナンを叱るのはずるいわ。お兄様がいらっしゃるようなら開けてもいいって、私がお願いしたんですもの。お叱りはすべて私に」
ラナンが扉越しであろうと相手を間違えるはずがないと思っていることは変わらないが、その信頼を誰かに押し付けることは確かに浅慮だったのだろう。だからこそ相手を選んだつもりだったが、そろそろ兄の心配を汲む頃合いかもしれない。
「遊び過ぎたのは認めます。ですがお兄様。誓って、不快にさせる気はなかったのよ」
ごめんなさい。
素直に謝れば、一拍おいてリエルの頭に慣れ親しんだ大きな手が乗せられた。
「リエル。お前が甘えてくれるのは僕にとって悪いことじゃない。ちゃんと分別をつけられるならそれでいいんだ。でも、あまりラナンを困らせてやるなよ」
優しく笑うタリアスは、何だかんだで身内に甘い。例えば今回のように諫められることがあったとしても、彼の言う『侯爵家の娘として恥ずかしくないように』は、お家のためというよりもリエル自身のためを思っての言葉だった。
それがわかるからこそ、いつもつい調子に乗ってしまうともいえるのだが。
そんな心の内は秘めたまま、リエルもまた微笑み返せば、その場は侯爵家の屋敷に相応しく自然と穏やかな空気が流れ始めた。
「そういえばお兄様、私に何か御用でした?」
「ああ、今日は午後も休みなんだろう? どうするのかと予定を聞きに来たんだが、その様子なら出掛けるんだな」
「ええ。図書館へ行くついでに少し街を散策してみようと思っています」
図書館に行くつもりなのは本当だ。丁度今朝、借りていた本を読み終わったところだった。国営図書館の蔵書でありながらやや大衆向けの傾向が強いそれは、シリーズを通して若いご令嬢の間で人気となっている。興味本位で借りてみたものだが、どうやらリエル自身もその例に漏れなかったようで、昨晩初めてページに目を通したというのに気が付いたらあっという間に読み終えていた。
是非とも続きが読みたいと思っていたから、出掛けるのなら図書館にも行こうと決めていたのだ。嘘はついていないので、もう一つの目的地であるジェラート屋に関しては、兄に言わなくても問題ないだろう。
「それはいい。僕もこれから出掛けるし、お前の予定に異論はないんだが……」
何やら濁された言葉尻の意味は、案外すぐに教えてもらえた。
「行くなら早い方がいいぞ」
「?」
「最近、父上と母上がいよいよお前の婚約相手を決めなければと吟味していることは知っているだろう? 既に幾人かの候補者が居るそうなんだがね、誰から引き合わせるべきか、他でもないお前の意見を聞きたいと仰っていた。今日なんてじっくり話せるいい機会だろう? お前にこの後の予定がないか、僕が聞かれてしまったよ」
「まあ」
つい先ほど、昼食の際にも顔を合わせていたというのに、そんな話は一切耳にしていない。
「やっぱり内緒にしていたのかな。僕も偶々聞いただけだけど、父上も母上もお前に言うのは避けていたみたいだ。逃げられないためか、単純に言いづらかったのかは知らないけどね」
あの人たちも大概、お前に甘いからなあ、なんて。続けられた言葉は殆ど耳をすり抜けていた。
それはつまり、これから両親に捕まってしまえば最後、休みであることをいいことに目の前にずらりと並べられたお見合い写真と何時間も向き合わなければいけないということだろうか。ああでもない、こうでもないなんて、家柄や容姿、経歴やお家事情……考えるだけで気が遠くなりそうだ。
「ちなみに、私の午後の予定に関してお兄様は何てお答えに?」
「僕は知りませんと素直に答えたよ。あの子は学生だから、何かしら予定を入れていても仕方ない、とも付け加えたけれど」
リエルが断りやすい逃げ道を用意してくれたのだろう。こうして両親が来る前に様子を見に来てくれたことも含めて、素晴らしいアシストだと兄に感謝した。
「ありがとうございます、お兄様。リエルは逃げるが勝ちを実行させていただきますね」
「その通りかもしれないが、その言い方はどうかと思うなあ」
お見合いだとか結婚だとか、リエルにしてみればまったく気の進まない話だ。
もっとも、リエルは間もなく十七歳。まだ若いが、年頃の娘と言って差し支えない年齢であることは十分に承知していた。何より貴族に生まれた娘として、むしろ今までそういった相手が決まっていなかったことの方が驚きだということも理解していた。
しかしまあ、それはそれだ。わかっていても、気持ちの問題ばかりはどうしようもない。いつか通らなければいけない道だとしても、できるだけ引き延ばすくらい可愛い我が侭ではないか。
それに、こんなに良い天気で迎えたせっかくの休日を、気の進まないことで埋めてしまうなんてとんでもない。
だからやっぱり、逃げるが勝ちで正解だった。
「もしかして、これを教えるために寄ってくださったの?」
「……まあ、忠告程度にね。僕だって、可愛い妹が家を出て行くための話なんて気が進まないものなんだ。ちょっとした悪足掻きだよ」
そんなことを言って、しれっと片目を瞑ってみせる兄に思わず笑いが零れた。
(悪足掻きだなんて、まったくもってその通りね)
さて、せっかくの一時逃避に加担してくれるというのだから、こうしてもいられない。
笑いを隠さぬままもう一度お礼を言って、リエルは傍で控える侍女に指示を出した。
「バッグはこの前お兄様にいただいたものを出してくれるかしら。靴は、そうね……このドレスに合う色味の物の中から、なるべく歩きやすいものを並べてちょうだい。帽子は最後に自分で選ぶわ」
「はい、お嬢様」
ラナンに限らず数人の侍女が各々の役目をもってハキハキと動き回れば、部屋の空気がまた出掛ける準備に戻り始める。女性の支度は眺めるものじゃないと、賢い兄は察してくれた。
「それじゃあ僕はもう行くよ。表に車を用意させるから、街まではそれを使うといい。まさか一人で行くことはないと思うが、護衛が必要だったらちゃんと声をかけるように。いいね?」
「ええ。ありがとうございます、お兄様」
ひらりと手を振って部屋を出ていくタリアスはやはり頼れる兄に違いなかったが、気遣いと同じだけの過保護も健在していた。