いつかの世界を超えて ~クロムの場合~
ふっ、と頭をよぎった未来がとても素敵なものに思えて、クロムは居ても経ってもいられなくなった。
ぱちりと大きな瞳に尊敬と少しの呆れを滲ませる様子は、互いの関係値としての距離の近さを物語っているようだった。ああ、きっと自分はこの子とそれだけ長い時間を過ごすのだろうと疑う余地なく思えてしまった。
この少女がどこの誰かはわからない。まだ出会ってもいない。
いつもなら、未来を視てしまうことにそれほどの感慨をもたなかった。
未来は未来だ。今を生きている結果として、未来がある。人生には大なり小なり分岐点があり、選択の連続によって日々が彩られていくものだ。未来のために今を変えることは悪いことではないけれど、「そうなることを知っているから」を選択の理由にするのはひどくつまらないことだとクロムは思う。
だからいつだって、何をみたって、先読みをすることから特別な行動は起こさない。といっても、知ってしまったことを無視することは案外難しいものだから、例えば誰かしらによっぽどの災厄が待ち構えていたら助言くらいはするし、明日ひどい雨が降るとわかれば備えることもした。クロムがそうすることによって未来が変わるならば、それも含めて運命だと思うからだ。しかし基本スタンスとして、クロムは動かない。災厄を根本から解決できるような力があってもそれを実行しないし、天候を自在に変えられるとしても豪雨も嵐も止めはしない。成るように成るまで自然に任せ、どうしようもないときに手を加える。
クロムが動けば、未来は望んだとおりに進むだろう。有能にして万能である彼だからこそ、必要以上のことをしない。そうして今まで過ごしてきた。
クロム=ライムとは、そういう人であった。
しかし今回ばかりはどういうわけか、ふと頭をよぎった女の子が気になって仕方ないのだ。
クロムの先読みははずれない。それこそ先読みしたクロム自身が何かしない限り、変わることはない。少女と自分が一緒にいる姿が視えたのなら、例え今知らない相手だとしても、これから必ず出会うのだろう。
けれど、いつ出会うのかはわからなかった。明日か、何か月も先か、もしかしたら何年か先。どこでどうやって出会うのかもわからなかった。
ただ決まっていることは、その子がクロムの前に現れること。クロムの弟子になること。どれだけの期間かわからないが、その子の成長を見守れるほど長く愛しい時間を過ごすこと。
いつもだったら、それだけわかっていれば後はもうのんびりと自然にその時が訪れるまで待つばかりなのだが。
クロムは常になく、そわそわと逸る気持ちに浮かされていた。
はやく、はやく会いたい。
何処にいるの、何時会えるの。
それでもクロムは待ったほうだ。はやく、はやくと心がざわつくのを抑えて、一週間は普通の日常を過ごした。二週目はいつもより多く外出するようになった。三週目はあまり行かない場所にまで足をのばした。四週目になると、ほとんど毎日近隣の街を見てまわっていた。そうして一月。ついには我慢ができなくなって、気づいたらクロムは魔法書を片手に会ったこともない少女の所在を探していた。
一度探そうと決めてしまえば、偉大な魔法使いにできないことはない。
月が欠けて、星が空に輝く夜。
誰も見ていないようなひっそりとした路地裏へ。クロム=ライムは、ただ一人の弟子を迎えに行った。この時点ではまだ弟子ではなかったけれど、これだけは決定事項だったから後か先かは些細な話だ。
ひょこりと顔を覗かせた先、膝を抱えて蹲る小さな影を見つけた。
競うように瞬く満点の星に照らされていようとも、こんなちっぽけな存在主張しかできない者を誰が気にしただろう。普段ならきっと誰も気に留めなかったに違いないし、実際昨日まではそうやって日々が回っていた。
しかし、今日という日においてこの路地裏は特別だった。その小さな影こそを望んで降り立った、偉大で酔狂な愉快犯がいるのだから。
「やあ、こんばんは。今日はいい星空だね」
気取ったような呼びかけが思いのほか近くから聞こえたもので、俯いていた少女がそっと顔を上げた。
まさか自分に向けてではないだろうと思っていたに違いなく、クロムがしゃがみこんで目線を合わせると困惑するような気配がした。
「お兄さん、だあれ?」
「僕はクロム。クロム=ライム。しがない魔法使いさ」
「まほーつかい?」
聞いたそのまま、言葉を繰り返す様が愛らしい。ぱちりぱちりと、大きな目が瞬く。
「そう! 君を迎えに来たんだよ。君は、僕の弟子になる運命だからね」
「でし…うん、めい…?」
こてりと首を傾げる少女に怯えの気配がないことを確認してから、クロムはその子を抱き上げた。身の丈よりも大きい服を着ているとは思ったが、見た目以上に随分と小さくて軽い身体だ。筋力の薄いクロムであっても軽々腕に収められるだなんて、まずは何か食べさせることから始めなくてはいけないらしい。
「ねえ、君。名前はあるかい?」
「わたしの名前?」
「そうさ」
クロムが頷けば、少女は少しだけ考える素振りをして、やがて小さく口を開いた。
「……わからない」
「名前がないのかい?」
「あったかもしれないけど、覚えてない。『お前』とか『それ』とか、『こいつ』とかなら呼ばれる」
「なるほどね。じゃあ、僕が名前をつけても問題なさそうだ」
「お兄さんが?」
「うん! そうだなあ、なんて名前が良いだろう」
考えたのは一瞬だった。それが当然とでも言うように、ふいに頭に浮かんできたのだ。
「……リエル。リエルなんてどうだろう?」
「リエル?」
「そう。君の名前。気に入らない?」
少女は戸惑いながらも、リエルという三文字を口の中で転がした。その様子に負の感情は見られない。
「…わたしは、リエル?」
「うん。今日から君は、リエルだ」
それはすとん、とクロムの心にも落ち着いた。
リエル。そう、この子の名前はリエル。
ああ、そうだね。ずっと会いたかったのは、やはりこの子で間違いないだろう。
きょとりとこちらを見返す瞳には、あのとき先読みでみたような尊敬や気やすい呆れなどなかったけれど、いつか必ずここに親愛の情が浮かぶのだと思うと心が躍った。
「行こうか。今日から僕が君の師匠! 君は、魔法使いの弟子になるのさ」
「わたし、〝まほーつかい〟…? の〝でし〟になるの?」
「そうだよ。お気に召さない?」
悪戯っぽく小首を傾げて聞いてみれば、首が取れちゃうんじゃないかというほどぶんぶん横に振られた。
「……とっても、すてきだと思う」
迷うように目を泳がせた少女が、やがて一生懸命に伝えてくれた言葉。その頬は控えめに蒸気して、瞳は隠しきれない期待が滲んでいた。きっとそれは、少女にとっての最大級の誉め言葉なのだと理解して、クロムは機嫌よく笑った。
───満点の星が輝く宵闇の町。偉大な魔法使いとその弟子が、運命に従って出会った奇跡のような始まりの話。
◆◆◆
綺麗に一礼してバルコニーを後にする彼女を、クロムは手を振って見送った。実際に会ってみると、麗しい花のように磨かれたご令嬢だ。思慮深く物事を推し量ろうとする一面と、若さを隠さぬ素直な一面がどこかアンバランスで、一層の魅力を演出していた。
彼女とほんの一曲にも満たないくらいに踊った時間が、まるで宝物のように心に残っているなんて。自分でも驚くほどに、クロムは彼女に興味があった。
フロアから漏れ聞こえる音楽に途中から参加したこともあり、それならば次の曲で最初からもう一度、と笑いあっていたのだが。リエルを探しにきた兄君の声が耳に入ったことにより、この場はお開きになった。
残念だと思うが、それよりも、今日無事に彼女に出会えたことの嬉しさが勝った。
一度運命に出会ったならば、また会える機会は必ず訪れる。
次に会えた時は、何を話そうか。
次に会えた時は、この胸を騒がせる感情に名前をつけることができるだろうか。
彼女、リエル=フォン=マティーニという女の子は不思議な存在だった。
クロムが抱く感情がまずおかしい。自分が視た未来はどう考えても誰かの命に関わるようなものではないし、国の行く末を左右するようなものでもない。言ってしまえば、気にするに値しないようなどこにでもある一場面。
なのにどうしてこんなに会いたいと思うのか。このざわつく予感は何なのか。
気になって、気になって。
ひさしぶりに意図的に未来を視た。
先読みなんていらない力だとすら思っている自分が進んでそれを行うことがもうイレギュラーなのに、そうして視えた未来は更にイレギュラーとも言えた。
クロムは「運命」という言葉を使うが、選択によって未来は変わる。先読みをすることで選択を変えたならば、その選択を変えた過程すらも全部含めて辿り着いた結果が真の「運命」なのだ。
だからというわけでもないが、クロムの先読みで視る未来では、しばしばいくつかのパターンがみられる。Aを選んだから生まれた未来と、Bを選んだから生まれた未来。どちらも運命で、どちらになってもおかしくない。
さて。彼女の場合で言うならば、その未来のパターンが多すぎることが問題だった。
本来あるべき変えられない大きな流れというものがあったとして、彼女はそれすらも選択制にしているような印象だ。一時間ごと、へたしたら一分一秒ごとに未来があっちへこっちへ動いているようにすら感じる。こんなことは初めてだ。
魔法使いとは知識人の総称とも言われているが、あらゆることを知っているが故に、未だ見ぬ事象に対する好奇心が常人以上に発揮される。自分の常識外に突然現れた少女が、気になって仕方なかった。
それにもう一つ。
直接会って初めて気づいたが、彼女からは何か大きな気配がする。
彼女自身のものではない。外部からの強い力に干渉されているような、そんな気配が纏わりついていた。それは執着のようでもあって、加護のようでもあって、何か強い願いの塊にも思えた。何れであったにせよ、自他共に認める偉大な現役魔法使いのクロムをもってしてもその実態が掴めないのだから、相当な力には違いない。
「……君は、いったい誰なんだろうね」
バルコニーで一人、呟いた声は夜風に溶けた。でもそれでいい。今すぐ答えが見つからなくても、これからいくらだって機会が訪れるだろう。そういう運命を感じる。
クロム=ライムは機嫌よく、魔法でグラスを呼び出すと星に向かって乾杯し、そのまま勢いよく飲みほした。