月夜の魔法使い
「やあ、こんばんは。今日はいい星空だね」
ふとかけられたやわらかいテノールに、リエルはゆっくりと振り返った。
声の主は探すまでもなかった。バルコニーには二人だけしかいなかったのだ。リエルと、リエルに声をかけた男性の二人だけ。
その闇色の姿を見てリエルはそっと目を大きくしたが、すぐににこりと微笑んだ。
「こんばんは。ええ、本当に素敵な景色ですね。失礼ですが、貴方は私をご存じ?」
「もちろん。マティーニ侯爵のご令嬢、リエル嬢ですね?」
「ええ。リエル=フォン=マティーニと申します。申し訳ございません、どこかでお会いしたことがありましたか……?」
「いいや、安心していいですよ。初対面で間違ってない。僕が勝手に君を知っていただけだからね」
「それは光栄です。改めて、お名前をお伺いしても?」
こてりと首を傾げて紡いだ言葉が、白々しくならないようにリエルは気を付けた。
「僕はクロム。クロム=ライム。しがない魔法使いさ」
気取ったように、男性が手を広げた。
「まあ、魔法使い様ですか」
「おや、あまり驚かないね」
リエルの反応が不満そうというよりは、不思議そうにクロムは言った。
「この国ではすっかり魔法よりも魔術が主流になってるだろう?」
魔法と魔術は、結果だけ見れば同じ類に思われがちだが、その本質はまったく異なる。自身の魔力を基盤とするところは同じだが、生まれもった自然との高い親和性によって無から有を創造する魔法に対し、魔術は現象そのものの原理を紐解き、その中に規則性を構築し、有るものから有るものへ物事を置き換える。
例えば、魔法で風を起こそうとしたとき、そこに決められた形はない。魔法を使いやすくする媒介は人によって様々だし、極端な話、魔力を対価に『風よ起きろ』と願えばいい。より精度や威力を上げるために五大精霊と契約する者もいるが、これについては一定の親和性以上に才能や素質が関わってくるので、できるのは魔法使いの中でも特に優秀な部類だ。
一方で、魔術で風を起こそうとしたとき、原理の理解なくしてそれは成されない。魔力を風に変換するための道筋が必要なのだ。一般的には魔法陣が用いられることが多いだろう。魔力というエネルギーを使って風を起こすための理論を形成し、実際に行使することで実現される。
才能や素質に左右される魔法に対し、魔術は知識と技術を身につければ多少の魔力で事足りるとなると、国が発展する中でより利便性と普及性を考えられたときにどちらが栄えるかは明らかだった。
本来は魔法使いが自分の研究に没頭する目的で建てられたという魔塔も、いつしか魔術師の研究機関へと姿を変えていた。
皇城を構える首都では特に魔術の恩恵が強く親しみ深いものとなっているが、しかし、魔法の存在そのものが消えたわけではない。
神秘は見えなくても、知らなくても、ただそこに在るものだ。
「ええ、確かに。残念ながら私は魔法を見たことはないのですけれど、それでも決してお伽噺ではないことは知っています」
「僕が魔法使いということを信じられる?」
「疑う理由がございませんもの」
「そう。君は物知りで、素直だね」
「恐れ入ります」
魔法の存在は別として、うんうんと満足そうに頷く彼自身のことを並行世界の『記憶』で知っているなんて、決して言えはしないけれど。
クロム=ライム。彼は、ルノワール帝国において知る人ぞ知る大魔法使いである。
現代ではこの国自体に魔法の浸透が薄いことも手伝って一般的に有名になることはないが、逆に魔法に馴染みのある人ならばその名を知らないわけがない。近隣諸国は勿論、遠くの地からもわざわざ彼を訪ねてやって来る人がいるくらいだった。
それほどの力がありながらどうしてより魔法の発展した土地へ行かずに魔術が主流の帝都近郊、しかも国境にある森の奥深くなんかに居を構えているのか。彼を知る者ならば一度は抱く疑問だろう。是非我が領地に、我が国に、なんて勧誘も、もっと好待遇を、正当な評価を、なんて尊ぶ声も実際いくらでも挙がっていた。
しかし当の彼、クロム自身がそれらの誘いに首を縦に振らないのだ。
『師匠はすごい方なんだからもっと偉ぶってもいいと思います』
それは、いつかの『リエル』が言ったこと。
『一帝国民に過ぎない僕が皇城への出入りが許されてる、っていうのは十分に偉ぶってると思うよ』
『それは確かにそうですが、師匠のお力を思えばもっとです! もっと偉ぶっていいはずなんです!』
『そうなの?』
『そうです! それに本当は何度も爵位の授与を皇室から打診されてるって知ってるんですからね。いつでも貴族になって、豪華な邸宅で過ごしながらキラキラした装飾を付けて、シェフが作った美味しいものをテーブルいっぱいに並べて、寝返りを五連続くらい打っても落ちないような広いベッドで寝れるんですよ』
『僕には身分なんて必要ないよ。それに、今の生活が気に入ってるんだ。邸宅なんて持て余すから殆どの部屋が書庫になるだろうし、装飾が多くても邪魔になるし、シェフが作った料理よりも君が作った温かい料理が食べたい。ベッドは別に、足がはみ出さなければ問題ないかな。君のベッドは大きくしてあげようか?』
『それは興味がありますが、そういうことではなくて……』
不満そうにする『リエル』に『彼』は笑った。
『それにね、見せびらかすばかりが力の正しい使い方ではないんだよ』
このときばかりは、常にないほどの穏やかで老齢な雰囲気をその身に纏っていて、『リエル』を落ち着かない気持ちにさせた。
そうして自ら望んで国内にその名を広めることをしないクロムだが、実は皇城にあっては馴染みが深い。歩く知識の宝庫とも言える彼のことだ、その存在を放っておくにはあまりにも惜しいし、彼自身が他者にそれを与えることを厭わない質なので皇族は勿論、宰相以下国の重鎮の相談相手として有事の際は頻繁にその名前が上げられていた。門外顧問のような立ち位置に近いかもしれない。その関係すらも知る人ぞ知る、といった形だが別に隠しているわけでもないので、こういった公のパーティーには意外なほどよく呼ばれているのだ。
だからこそ、彼がこの場に居ることは何もおかしくないとリエルは知っている。闇色の衣装に身を包んだ彼は、間違いなくリエルが知るその人だろう。
「リエル嬢はこんなところでおひとりで? 君ほどのご令嬢ならフロアで引っ張りだこだろうに」
「いいえ、共に参りました兄上がお話に夢中なんですもの。危うく壁の花になるところを、窓の外にこれほど綺麗な星空を見つけたものですから。恐れ多くも、夜空に瞬く星々にお相手を願えないかとお伺いに参りました」
「君のご指名をいただけるだなんて今夜の星は随分と贅沢者だね」
けらけらと可笑しそうに笑うクロムが空を見上げるのに合わせ、リエルも視線を向けた。
口ではああ言ったが、実際はクロムの言う通りだった。兄のタリアスが仕事の話でリエルから距離をとれば、すかさず話しかけてくる人は少なくない。こんなことならば共にいやすいナサエルもやはり参加してくれればよかったのにとすら思ってしまった。
ウォッカ公爵家にも当然招待状が届いていたが、呼ばれるべきナサエルは今の時期まだ帰国に際した諸々で忙しい。間もなく手続きが完了するスクールの準備もあるし、今回は出席を辞退すると事前に聞き及んでいた。
リエルは壁の花になろうとも別段気にしない。むしろ壁の花にしてもらえないことのほうがときに煩わしく、次に誰かに声をかけられる前にと、そっと抜け出してきたのだ。勿論、約束通りタリアスには一声かけた。申し訳なさそうな顔をされたが、仕事の話の邪魔をする気はない。
嬉々として抜けた先、こうしてバルコニーに出てみれば広がるのは満点の星。皇城の一室は何処から出ても見晴らしがよく、景観も申し分ないものだからより一層夜空の美しさを演出していた。
改めて見ても見事だと思う。心惹かれるままにほう、と感嘆のため息をこぼせば、隣に立つ男がくすりと笑う気配がした。
「そんなに喜んでもらえたのなら、僕も張り切ったかいがあるね」
なんだか気になる言い方だった。張り切ったというのはどういう意味だろう。リエルが問いかけるように見つめると、クロムは得意げに目を細めた。
「今宵の空は僕が晴れさせたんだよ」
「晴れさせた?」
「そう。僕の魔法でね」
パチン、と綺麗に決まったウインクは、なかなか様になっていた。しかしリエルの内心はそれどころではない。確かにクロムは大魔法使いだが、それでも天候を変えるには相応の魔力が要る。天候とは自然そのものだ。自然を歪めるようなことをクロムはそもそも好まないし、おいそれとできるようなことでもない。
それを、今日、変えたと言ったのか。
目を丸くするリエルは、クロムが天候を変えるに至ったよっぽどの理由があるのかと警戒したが、彼はその様子を純粋な驚きだと受け取ったらしい。
「天候を、変えたのですか?」
「ああ、僕にかかれば雨雲を呼ぶことも、その逆に散らしてみせることも不可能ではないからね」
「……どうして?」
「それは、どうしてわざわざ晴れさせたのかってことかな?」
リエルがこくりと頷くと、簡単なことさ、とクロムは言った。
「晴れなければいけなかったから、晴らした。晴れるはずの日に雨が降っていたから、雲を散らした」
「晴れなければいけなかった……?」
「そう。今晩は晴れなければいけなかったんだ。いや、正直天気なんてどうでもいい。問題は君のドレスさ」
話の矛先が思わぬ角度に曲げられた。
「私のドレス?」
「君、晴れなければこのドレスを着てくれなかっただろう?」
そう言われて、はたと今朝のやり取りを思い出す。確かにリエルは雨であれば靴を変えなければいけなかったし、それに合わせてドレスも変える気でいた。あのタイミングで晴れたりしなければ、間違いなく今ここに立つリエルの装いは変わっていたはずだ。
しかし、それをどうしてこの男が知っているのだろうか。
きょとりと見つめ返すリエルに、クロムはそっと目を伏せた。
「だめだよ。今日、君は水色のドレスでなければいけなかった。水色でなければ、この出会いに繋がらないんだ」
「水色に、何か意味が?」
「色自体には意味なんてない。ただ、今日という日に僕は水色のドレスを着た君と出会う予定だった。君が水色のドレスを着て、今日この場所に立っているということに意味があったんだ。それが運命なんだよ」
「運命だなんて、随分ロマンチックなことをおっしゃいますね」
「嫌い?」
「いいえ、素敵だと思います」
突然現れて不可思議なことを言っているようにしか見えないが、ここまで聞けばリエルはもう得心がいった。
(…ああ。きっと、何か視たんだわ)
◆◆◆
クロムには先読みの力がある。
先を読む力、つまりは未来を知る力だ。それは彼の多すぎる魔力があふれ出した結果、大体は偶発的にみれるものらしいけれど、その精度は確かだった。
『もうあと数日でリンゴをたくさんもらえるから買わなくていいよ。本当にたくさんだから、パイにしてほしいな。蜂蜜をたっぷり入れてね』
そう言って、買い物へ行くはずだった足を引き留められたことを覚えている。
『明日、雨が上がったら森の西側へ行ってごらん。君が探している薬草が見つかるから』
薬を作らなければいけないのに必要なストックが無いことに焦れて、雨の中を歩こうかと窓を見つめていたとき。そうして優しく笑いかけてくれたことを覚えている。
どうしてわかるの、と聞くと「視えたから」と当たり前のように返されるのだ。
だから、大丈夫だよ。
クロムにそう言われると、なんだって信じられる気がした。
『記憶』の中の彼との出会い自体、彼の先読みの力のおかげだった。親に捨てられ、食べるものもなく、貧民街で蹲っていた幼い『わたし』の前に、ある日突然この男は現れた。
視えたから。そうなることが運命だから。
だから迎えに来たのだと、彼は言った。
『やあ、こんばんは。今日はいい星空だね』
『……おにいさん、だれ?』
『僕はクロム。クロム=ライム。しがない魔法使いさ』
『まほーつかい?』
『そう! 君を迎えに来たんだよ。君は、僕の弟子になる運命だからね』
きょとんとする『わたし』を抱え上げて、クロムはにこっと笑ってくれた。寒くて、お腹が空いていて、あちこち痛くて仕方なかったけど、その笑顔を見るとなんだか無性に安心してしまった。
『行こうか。今日から僕が君の師匠! 君は、魔法使いの弟子になるのさ』
そうして、あの苦しい生活から救い上げてもらったのは『わたし』が生まれてから、たぶん二桁も数えていないくらいの年頃だった。
クロムは物知りで、万能だったけど、突飛な行動でこちらを振り回すことも多かった。彼の思い付きや奇行についていくために、どれだけ苦労したことか。何度も呆れて、泣かされて。遠慮なんてできないくらいに感情を揺さぶられる毎日だった。
それでも、そんな生活が楽しかった。そんな彼が好きだった。少しずつ心の器を満たされて、憧憬でもない、崇拝でもない、尊敬とも違う淡い気持ちを育てていった。
この人を師と仰げることが何より幸せだと思う一方で、それが何よりもどかしいと気づいた時の戸惑いは筆舌に尽くし難い。胸が痛くなるほどの強い感情に彩られた、大切な『記憶』を知っている。
クロム=ライム。
────偉大な魔法使いである彼もまた、リエルの並行世界の『恋人』だった。
◆◆◆