パーティーの幕開け
父と母に見送られ、リエルは兄のタリアスと共に送迎の車に乗り込んだ。
朝にやんだ雨は結局あのまま再び降るようなことはなく、午後には晴れ間から澄んだ青空が見えたほどだった。
「よく似合っているね、そのドレス」
予定通り身に着けた淡い水色のドレスは、選ぶ際にタリアスも助言をくれたものだった。
「ありがとう、お兄様。お兄様も新調なさったのでしょう? お兄様はスタイルがいいから、何でも似合ってしまって大変ね。きっと今日もご令嬢方の視線の的だわ」
「褒めても何も出ないよ」
タリアスは呆れたように笑ったが、リエルは世辞で言ったわけではない。家柄が申し分のない上に見目も良く、人当たりも温厚で悪い噂を聞かないこの兄は、まだまだ若いことも相まって独身貴族の中でも特に人気が高い。その隣に寄り添う権利を得たいと目を光らせる者が社交界では後を絶たないことを、実の妹であるリエルは当然のように知っていた。
「そうだ、リエル。会場に着く前に言っておかなければいけないことがあった」
「何でしょう」
「今日のパーティーなんだが、なるべく僕の近くから離れないようにしなさい。やむをえず離れる際は、行き先を僕に伝えること」
結婚した相手や婚約者、それに相当する者がいない場合、身内をパートナーとして同伴することはまったく珍しくない。今回のように年若い者を中心とした催しならば特にその傾向は強く、何なら単身参加も大いに許容されている場であった。
リエルも当然、マティーニ侯爵家の娘として兄と共に挨拶周りに付き合うつもりでいたが、こうも改まって言い聞かせられるようなことだろうか。
「勿論お兄様のお傍に控えるつもりでいたけれど、どうかなさいました?」
小首を傾げて見返すと、タリアスは言いづらそうに視線を逸らした。
「お兄様?」
「……いや、君ももうすぐ成人だし、あまり心配しすぎるのも大人げないと思ってはいるんだが、嫌な話を聞いたものだから」
「嫌な話?」
「若い世代が特に多く招待されただろう? 何やら見合いの場だと勘違いする者も少なくないとか…」
「まあ」
リエルは口元に手をあてた。
「でもお兄様。お父様とお母様も最初はパーティーでお知り合いになったと聞きますし、招待された方々なら危ないお相手もいらっしゃらないと思います。あまり心配なさらなくても……」
「わかってる。勿論わかっているさ。だが、家柄として悪い相手はいなくても、多少強引なやつは何処にだっているものなんだ。君は特に、視線を集めるだろう? 可愛い妹に人が群がるところはあまり気持ちのいい光景ではないし、強く腕を引かれているところを見てしまったら僕は何をするかわからないよ」
「そんなこと起こらないと思いますが……それに、こういったパーティー自体はもう何度も出席しているではないですか」
どうして改まってこんな心配を口に出されているのか、それが謎だった。
「今までは父上や母上が一緒だっただろう。今日は僕一人だから、君を守る目が少ないんだ。そうでなくても、今日は君の夜会デビューなんだ。隠すようなことでもないから知っている者は知っているし、君の大事な日に記憶に残ろうと躍起になるに違いない。頼むから知らないうちに僕の傍からいなくなっている、なんてことはやめておくれよ」
あまりにも真剣に頼まれるものだから、リエルは笑ってしまった。確かに心配性だとは思うが、それも兄からの愛情だと知っているので悪いとは思わない。
「わかったわ、お兄様。なるべくお兄様の目の届く範囲におりますし、何処かへ行くときはちゃんと一言申します」
リエルが約束すると、タリアスはホッと息を吐いた。
「僕が仕事の話をするときに傍にいても退屈だろうし、ずっと隣に縛り付けようというわけではないんだ。何より父上も言っていたが、せっかくの交流の場だからね。積極的に話すこと自体を制限したりしないよ。うるさく言ってすまないが、僕の精神安定上のために下心にだけは気をつけておくれ」
リエルが了承を返すのとほぼ同時に、間もなく会場です、と声がかけられた。
◇◇◇
煌びやかな室内は、流石皇太子主催なだけあると感嘆せざるをえない。
シャンデリアからテーブルを飾るクロス、色彩豊かなオーナメント。調度品の細部に至るまで、徹底した心配りが感じられた。
「第二皇子殿下にご挨拶申し上げます。この度は、お招きに感謝いたします」
兄の隣で淑女の礼をとるのも慣れたものだ。
目の前には、つい昨日も会ったばかりのシオンハルトの姿。学園で見かけるものとは当然異なり、今夜はパーティーらしい正装をしていらっしゃる。普段以上に磨き上げられた気品には眩しくて目を細めたくなった。
「これはマティーニ小侯爵。こうしてお会いするのは随分ひさしぶりな気がするね」
「ええ、殿下が学園に通われるようになりましてからは、すっかり城内でお見掛けする機会が減りました。いつも妹がお世話になっております」
「いいや、リエル嬢はとても優秀な生徒だと聞き及んでいたが、噂通り普段から遺憾なくその才能を発揮していて驚かされる毎日だ。助けられているのは僕の方だよ」
兄は満足そうにしているが、リエルはこんなに褒められてしまうと居心地が悪い。隣にいるとはいえ、あくまでタリアスに向けて話すものだからリエルの口から否定しづらいのが余計につらかった。
「リエル嬢も、今夜はよく来てくれた。昨日ぶりにはなるが、調子はいかがかな」
やっとリエルに話がふられる。
「こうしてお招き頂きましたこと、光栄に存じます。初めての夜会をこのような場所で迎えられる栄誉に胸が躍っておりました」
「おや、もしかして今夜は貴女にとっての特別な日?」
「はい。先日誕生日を迎えまして。幸運なことに本日が夜会デビューとなりました」
「それは是非とも楽しい思い出にしてほしい。僕が自らエスコートしたいくらいだ」
「勿体ないお言葉です」
内心ではとんでもないと思っていた。
こんな公の場で第二皇子のエスコートを受けるなど、下手したら婚約関係を疑われてしまう。
当然この場に乗じた軽口に他ならないだろうが、リエルはそれでも隣の兄の顔色を確認する勇気がなかった。
「この度の主催であるウィリアム殿下にも是非ご挨拶申し上げたいのですが、今はどちらに?」
「ああ、兄上ならば政務で少々遅れている。もう少しすれば必ず姿を現すだろうから、そのときまで待ってくれるかい」
「勿論に御座います」
申し訳なさそうにするシオンハルトにはしかし、兄殿下への親しみや敬意が滲んでいて、お二人は本当に仲がいいのだとリエルは初めて実感した。
「もう少し話していたいが、兄上がおられない分、僕も挨拶周りに行かねばならなくてね。この場は一旦失礼するよ」
「ええ。お時間いただきありがとうございました」
タリアスが一礼するのに、リエルも慌てて合わせた。
「リエル嬢」
「はい、殿下」
「兄上が出て来られて落ち着いたら、僕も少し時間ができるだろう。そのときは是非一曲お相手願えるかな? 君の初めての夜会の記念に僕との思い出も一つ加えて欲しい」
目眩のするほど綺麗な笑みだった。
「それは……大変光栄に存じますが、私には恐れ多いですわ」
「学友のよしみだと思ってくれればいいさ」
駄目かな? と聞かれれば、リエルに断ることなど不可能だった。
「……殿下の寛大なお心遣いに感謝いたします。その際は是非、謹んでお受けいたしますわ」
「ああ」
それではまた、と身を翻す様子を遠い目をして見送った。なんだかシオンハルトと会うたびに、こんな気持ちになってその背中を見送っている気がする。
「リエル」
静かな声だった。
「何かしら、お兄様」
見たくはなかったが、それでも勇気を出して兄の方へと振り返ると、いやに真剣な顔で覗き込まれた。
「後で、話があるからね」
「………ええ」
何を聞かれるのか予想はできたが、正直シオンハルト殿下の態度や言動に驚いているのは自分も同じだ。痛む頭をおさえることはせず、すべてに鈍感なふりをして兄に笑いかけた。