いつかの世界を超えて ~ナサエルの場合~
ナサエル=イル=ウォッカは苛立っていた。
「────この度、ナサエル様のお世話をさせていただくこととなりました、リエルと申します」
よろしくお願いいたします。
そう言って頭を下げた小柄な少女は、見たところ自分と同じか自分より幼いくらいの年頃だった。
「見ない顔だな」
「はい。つい半年ほど前から奉公に参りました。至らぬ点もあるかと存じますが、ナサエル様の身の回りに不自由のないように努めさせていただきます」
年の割に落ち着いた物腰や丁寧な所作は決して悪くなかった。
それでも、とにかくこのときのナサエルはすべてが鼻について仕方なかった。この新人メイドだけではない。周りを取り巻く何もかもが、ほんの些細なことですら神経をいちいち逆立ててきて気に障った。
要するに八つ当たりなわけだが、頭でそうとわかっていても、行動に反映されるかどうかは別問題というものだ。
綺麗に結われた髪形にすらイライラと心が掻き立てられたナサエルは、衝動に押されるままこれ見よがしに鼻で笑い、遠ざけるように手を振った。
「それはつまり、失敗しても許せというための免罪符のつもりか? 至らぬと思うなら僕に構うな、うっとおしい」
さて、新人だというのなら泣くだろうか。それとも憤るだろうか。泣かれるのは面倒だが、立場も弁えず詰め寄ってくるようであればそれを理由に解雇もできる。ただでさえ年若い娘など面倒で敵わないというのに、新人だなんて聞けばそれだけでもう苛立ちの対象だ。それが傍付きだって、冗談じゃない。
少しでも怒りを滲ませたら指摘してやろうと注意深く顔色を見ていたが、予想に反して少女の様子は落ち着いたものだった。
「申し訳ございません。ですが、私はナサエル様にお仕えするためにここにおります」
「ものは言いようだ。そうするしかないからそうしているだけだろう? 所詮使用人などその程度で指示待ち人形はどこでも同じ。なあ、僕に仕えるのが嫌ならば別の仕事を用意してやろうか」
「……ナサエル様がそう仰るなら、私に否は御座いません」
「それは遠回しに僕の傍付きを離れたいという意味でいいか? それとも本当に自分の意思がないのか。どいつもこいつも、言うことを聞くばかりで面白みのない。もういい、下がれ。大抵のことは僕が一人でできる。呼ぶまで姿を見せるな」
今度こそ追い払うようにして突き放したが、少女はその場を離れなかった。
「おい、聞こえないのか」
「いいえ、聞こえております。ですが、なるほど。ナサエル様は面白みのある使用人をご所望なのですね」
「何?」
「主人の望みを叶えるのも使用人の務め。言うことを聞くばかりがご不満ということでしたら、僭越ながら申し上げます。貴方様はもっと周りをよく見られるべきです」
にこりと笑った少女は、ナサエルが目を白黒させている間に高めのよく通る声ですらすらと言葉を紡いだ。
「ナサエル様は五年間の留学中に一度もこちらにお戻りにならなかったとか」
「……それがどうした」
「私は先ほども申し上げました通り新参者に御座います。しかし、この屋敷には貴方様のお帰りを心待ちにしていた者も多いのです。侍従長などはこの日取りが決まった時からそれはもう機嫌よくあちらへこちらへと準備をされておりましたし、料理番もいつも以上に張り切っておりました。久々にお使いになるということでこちらのお部屋もそれはもう念入りに掃除して隅々まで磨き上げておいででしたし、寝具は衣服はと、何から何までそれはもう……」
「ああ、うっとおしい! お前は何が言いたい!」
それはもう、それはもう、と。大げさな言葉を使う割にいつまでも核心を話さない目の前の少女に馬鹿にされているような気がして、ただでさえ低い沸点はすぐに振り切れた。
「もっと労われという話か? 褒美をくれてやれと進言でもしているつもりか。主人にチップを強請るだなんてとんだ傍仕えがいたものだな! それがお前たちの仕事だろうに、当然のことをつらつらと」
「ええ、そうです。それが私たちの仕事です。しかし、すべてが当然のことではございません」
少女は怒鳴り声などに怯むことなく、毅然とこちらを見返してきた。
「侍従長がこの日のために用意した紅茶の茶葉は、貴方様が好んで飲んでいらしたものなのだそうです」
「?」
「料理長は本日既定の非番を何か月も前よりいただいておりましたが、貴方様の帰国の日取りが決まった途端、自らスケジュールをひっくり返して本日キッチンに立っております。代わりに誰かが休めばという話にもなったそうですが誰一人として譲らず。ぜひ覗いてみていただきたいほどに、本日のキッチンはぎゅうぎゅう詰めですよ。それも、作られるのはナサエル様の好物ばかり」
あれもこれもと挙げては、すらすらと語る少女はしかし読み聞かせでもしているように一音一音を丁寧に紡いでいた。
「他にも御座います。例えば、こちらのお部屋の調度品は貴方様が好まれるだろうというものを選りすぐって並べられております。ナサエル様を幼い頃より知っているからこそ選べるのだと皆張り切っておりました」
「……」
「私の言いたいことは伝わりますでしょうか。この家の使用人は、ただ自分の仕事をしただけではないのです。貴方様のためだから。ナサエル様の顔を思い浮かべて働いておりました」
恩着せがましい、と再び怒鳴ることはできただろう。けれどナサエルはぐっと言葉に詰まってしまった。
言いたいことがわかるかだって? ああ、わかるさ。わかってしまった。
「指示待ち人形」だなんてとんでもない、という話だ。ナサエルは帰国すると連絡してから、ひとつだってそんな要望出していないのだから。
それは彼等の気遣いに違いなく、並べられたすべてのことが幼い記憶を刺激した。
五年は長い。しかし一方で、生まれた時からの年月で見ればまだ短い。五年離れていただけで、好みがまるごと変わることもなかった。
「特別に労われと申し上げているのではございません。ナサエル様の仰る通り、私たちは仕事をしているのです。ただ、差し出がましいようですが…上に立つものとして、慕われるものとしての余裕をお持ちください。ただ仕事をするだけの存在と、貴方様個人を慕ってついてきてくれる存在とではその重さが大きく違います」
「……使用人の分際で本当に差し出がましいな。しかも新参者のくせに」
「申し訳ございません」
「いや、もういい。……お前、名前は?」
挨拶のときに告げられた名前など頭に残っていなかった。この短時間で聞き直すのも本来なら眉を顰められて仕方がないが、少女は構う様子を見せなかった。
「リエルに御座います」
「そうか、リエル。少し頭が冷えた……悪かったな」
「え」
気が抜けたように、素直な言葉が口から出た。自分でも意外だったが、しかし目の前の少女はそれ以上に目を丸くしていた。皮肉ろうと追い払おうと怒鳴ろうと、顔色一つ変えなかった娘がここにきてやっと表情を崩すとは。つくづく失礼なことだ。
「……だが! これから僕に付くというのなら、相応の節度はもつべきだ。無礼も許さない。僕に恥をかかせたら、奉公だろうとなんだろうとここから追い出されると思え」
ぽかんとした少女の顔を見ていたら居た堪れなくなり、ナサエルは気づけばそうまくしたてていた。
その必死な様子に少女、リエルは笑った。くふ、と。こらえきれないとでも言うように声を漏らし、そのままくすくすと肩を震わせたのだ。
「はい、かしこまりました。坊ちゃん」
これは後から聞いた話だが、彼女はこの時、澄ました顔の裏で実は相当頭にきていたらしい。自分の尊敬する諸先輩方を蔑ろにする言い方が許せなかったのだとか。
短期間で随分懐いたものだと我が家の優秀な人材を誇ればいいのか、いっそ即時解雇を覚悟してまで雇い主に一言申し上げようと決意した彼女の短気さを呆れればいいのか。
ナサエルはそのどちらも実行できたが、当時のことを思い出しながら話す彼女があまりにも柔らかく笑いながら「あの時の貴方様の優しさと寛大なお心に助けられて、私は今ここにおります」なんて言うものだから、感情すべて持っていかれてどうでもよくなってしまった。
ナサエルは、リエルの笑顔に弱い。使用人の鑑を目指す彼女が常に携えている柔和な表情ではなくて、心から滲みだしたような溌溂とした笑顔に特別弱かった。
それはもう、初対面から変わらない。
「……おい、坊ちゃんはやめろ」
「皆が申しておりましたよ、ナサエル様はこの家の自慢の坊ちゃんだと。幼い頃より坊ちゃん、坊ちゃんと、随分お慕いさせて頂いたと」
「そんなに前の話を持ち出されてもな」
「この家の方々には、つい最近の出来事なのでしょう」
知ったように言う、と思ったが、何故か不快ではなかった。
「ああ、そうでした。ナサエル坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめろと言ったが?」
「では、ナサエル様。差し出がましいついでに、もうひとつ。申し上げたいことが」
「何だ?」
「ただいま、と。言ってあげてくださいませんか。皆、貴方様のお帰りを本当に心待ちにしておりました。まだここへ来たばかりの私が、ナサエル様が好まれていた紅茶やお菓子を覚えてしまうくらい。貴方様を、坊ちゃんとお呼びしたくなるくらい」
あまりに柔らかく言うものだから、ナサエルは照れくさくなって視線を逸らした。
「……帰りの挨拶くらいした気がするが?」
「私の見ていないところでお済みでしたら申し訳ございません。ですが、少なくともハリエル侍従長の『お帰りなさいませ』には『ああ』と答えたきりだったのでは?」
「お前……」
「はい」
いっそ清々しいほどににこりと笑って言い切るメイドを、どうして不敬だと一蹴できないのか。
「そう言えばお前をここまで連れてきたのはハリエルだったか。まったく。面倒なものを置いて行ってくれたものだ」
「お望みでしたら『指示待ち人形』にでもなりましょう」
「おまけにいい性格をしている。おい、何度も言わせるなよ。僕がお前の不敬を許すのは、客観的に見て僕に非がある場合だけだ。調子に乗るようなら即時解雇で叩き出すからな。路頭に迷いたくないなら主人に従え。お前は使用人だ」
「勿論に御座います、ナサエル様」
どうして、会ったばかりのこんな生意気な娘一人に自分が心を乱されるのかわからなかった。使用人なんて皆同じで、立場の違いをはっきりさせなければどこまでだってつけ上がる。
それなのにどうして、こんな小娘相手に。
「リエル」
「はい」
「………ただいま」
我ながらぶっきらぼうな言い方になったと自覚があった。
送るべき相手は別だと理解していたが、口から零れた言葉は帰らない。
驚いたような顔からじわじわと、花が綻ぶような笑顔に変わる様に魅せられた。
「……はい。お帰りをお待ちしておりました。そして、お会いできる日をお待ちしておりました」
お帰りなさいませ、ナサエル様。
思えばきっとこのときから、隣に在るのが当たり前の存在になっていた。
◆◆◆
「─────いかがでしたか、ひさしぶりのお話は」
マティーニの屋敷を後にする帰り道、側近からの質問にナサエルは眉を寄せた。
「どうもこうもない、見ていただろう。最悪だ」
「それはそれは」
この当たり障りのない返答をする男、アンバーはナサエルに仕えてもうすぐ二桁の年数を数える。今回の帰国の挨拶に際したマティーニ家への訪問に付き添い、つまるところあのお茶会の時にもナサエルの後ろに控えていた。事の次第は一部始終が筒抜けだったというのに「いかがでしたか」とはいい質問をしてくれる。
それが八つ当たりと知りつつも、ぎろりと睨むナサエルにアンバーは涼しい顔をしていた。その姿がどうにもリエルの傍に新しくついたというあのいけ好かない侍女の姿に重なって、眉間の皺が深くなる。
あの場は確かにナサエルにも非があったが、きっと今回の出来事を抜きにしてもあの侍女とは馬が合わない。そんな予感があった。
「……何か言いたいことがあるのならば言え。今のうちならば聞いてやらないこともない」
「いいえ、大した申し上げがあるわけでは御座いません。ただ、ナサエル様が気にかけていらした許嫁様と大変仲のいいご様子でしたので、純粋に喜ばしいことだと思っております。旦那様にも良いご報告ができそうですね」
「い…っ⁉」
思わぬ単語に声がひっくり返った。
アンバーは自分の発言の何が主人の頬を赤らめたのか、まるでわからないという様子だ。
それが尚更ナサエルの羞恥心を煽る。
「ナサエル様?」
「い、許嫁の話はまだ早いだろう、僕も帰国して間もないし、そういう話が上がるかもしれないというだけでまだリエルにだって話されていないそうだ」
どもりながら言い募るナサエルは、自分に向けられる生温い視線に気が付かない。
「ですが、旦那様もマティーニ侯爵様も交流が深いではありませんか。本格的に話が進むのも時間の問題では?」
「そう、かもしれないが、そうとも言い切れない。父上はどうか知らんが、母上は気持ちを第一に考える御方だからな。貴族階級では難しいことだが、それ故の夢をみておられる。留学中の僕に異国で気になる娘はできたかなどと手紙を出すような御方だぞ」
できたと返事を出したらどうするつもりだったのか。残念ながらそこまでの好奇心が発達していなかったナサエルは無難な返答しか送らなかった。
「なるほど、政略結婚よりも恋愛結婚を推奨していらっしゃると」
「母上はな」
まあ、それも年若い今のうちだから言えることでもあるのだろう。公爵家の嫡男であるナサエルは家督を継ぐことが決まっており、どうしたって結婚する必要がある。適齢期を過ぎても独り身であるようならば、お家同士の話に発展することは間違いない。
「ですが、それも含めてお二人には問題がないのでは?」
「は?」
「お気持ちがおありなのでしょう? マティーニ家のお嬢様に」
「な…っ!」
こんなに短時間のうちに二度も絶句することになろうとは。しかも、二度目に受けた衝撃は一度目の比ではない。
「な、ななな」
顔に熱がたまっていくのが自分でもわかった。
「なにを、言っているんだ…!」
「おや、違いましたか?」
「ちがっ、くは、ないけれども……」
ナサエルは苦々しい気持ちになる。どうも揶揄われている気がして気に食わない。
思えば今日の訪問時だってそうだ。マティーニ侯爵とは事前に訪問の約束を取り付けていたが、タリアスは仕事、リエルはスクールで二人ともいないという風に聞いていた。
しかし蓋を開けてみれば留守にしていたのはタリアスのみで、リエルには不意打ちの再会となってしまった。恐らく、口ぶりから推測する分にはリエルの方はナサエルが来ることを知っていたようだから、会うつもりがあったのだろう。急な所用で席をはずしたことを含めて、マティーニ侯爵の仕組んだサプライズに思えてならない。
こんなはずではなかった。
リエル本人につい溢してしまったが、ナサエルは本当に、彼女には成長した自分を見せつけるくらいの気概でいたのだ。
それがどうだろう。碌に心の準備もせず二人きりの時間が設けられ、和やかな会話が弾むどころか些細なことが気にかかり傷つけるようなことを言った。
挙句の果てには子供のような癇癪を爆発させ、それを彼女本人に窘められ、結果は大失敗もいいところだ。穴があるならば入りたい。
「僕だけの気持ちがあったって仕方ないんだ」
それこそ、ナサエルの気持ちなど今更だった。そういう意味での気持ちなら、とっくの昔に自覚している。
あの柔らかな笑顔が好きだ。実の兄にすら基本は丁寧な言葉遣いをする彼女が、自分にだけ向ける砕けた話し方が好きだ。
それが例え姉心のようなものから為されているものだとしても、彼女にとっての特別枠は何よりも居心地が良かった。聡明な彼女は年齢差以上にどういうわけか大人びて感じることがあるけれど、ふいに見せる好奇心に輝く瞳が、どれほど魅力的か。
追いつきたかった。追いつけると思った。会えない時間は決して短いものではなく、我慢した分だけきっと再会の驚きを演出できる。
彼女が頬を染めて「かっこいい」と言ってくれる姿を夢にみた。その自分を実現して漸く、ナサエルは踏み出せると思ったのだ。弟としての特別から、異性としての特別へ。
それなのに。
「互いに想いあってこそだろう? このままでいいわけがない」
「ナサエル様……」
アンバーが目を見開き、そしてふと、優しく笑った。
「きっとナサエル様なら大丈夫ですよ。マティーニ侯爵のお嬢様は、本質をみておられます。坊ちゃんのお気持ちが、いつか必ず伝わることでしょう」
「……坊ちゃんはやめろ」
いつか、では遅いのだと思う。
ひさしぶりに会う幼馴染みの少女は、もう少女ということも憚られるほどに美しく成長していた。艶やかな微笑みの中に、無邪気な色を見つけると、変わっていない様子に安堵しながら、そこから抜け出せない自分に焦れた。
ああ、本当に大失敗だ。
「……とりあえず。アンバー」
「はい?」
「帰ったら、牛乳を用意しておいてくれ。それから、今日からの夕飯はなるべく栄養のとれるものをシェフに頼んでくれないか?」
思い描いたより身長差がつかなかったことも、意識させるに至らなかった原因に違いない。
ナサエルは側近から向けられる生温かい視線に気づかないまま、これからに思いを馳せた