貴族の誇りを
「────とにかく。僕は、君が誰彼構わず誘われたいと言うのはどうかと思うし、名のある侯爵家の一人娘がそれを実行しようとするなんてもっとどうかと思う」
声を荒げたことで逆に冷静になったのか、こほんと咳ばらいをしてナサエルが言った。
少しでも落ち着いてくれたのはいいことだが、なんだか聞き捨てならないような言われ方だ。
「……そんな話だったかしら」
「そんな話だった」
「素敵だとは言ったけど、誰彼構わず誘われたいなんて言ったかしら。それだと、私ったら節操なしみたいじゃない?」
「そんな話だった」
リエルの語尾を食べそうなほどに間髪入れず、淡々と同じ響きが繰り返された。
実に不本意である。先ほどまでの自分の発言をつらつらと思い返してみたが、やはりそんな話ではなかったはずだ。
自分で言っておいてなんだが、せめて「節操なし」を肯定することだけでもやめて欲しかった。それこそ侯爵令嬢として常に淑女たれと心掛けているのだから、真逆の評価を貰うと落ち込んでしまう。
しかし。
リエルは曲解された言葉の抜粋に呆れることはあっても、棘のある言い回しに怒ることはしなかった。あくまで不満を漏らす程度だ。
不機嫌そうに眼を逸らすナサエルからは、まるで何かに焦っているような、じりじりとしたものを感じるのだ。
もしかしたら、帰ってきたばかりとあって今日のナサエルは特別に気が立っているのかもしれない。
リエルはこの年下の幼馴染みと軽口を交わすことを苦に思わないが、喧嘩をしたいわけじゃない。久しぶりに会えたのだし、和やかに話したいと思うのだって当然だろう。
だからもう、雲行きが怪しくなってしまった話題からはそろそろ切り上げようとしたその矢先。
「ねえ」
言葉を落としたのはナサエルだった。
背けた顔から、ちらりと視線だけが向けられる。
「なあに」
リエルが優しく聞き返せば、目の前の顔に赤みがさした。
いや、とか。ええと、とか。僅かに口籠るのはどうしてだろう。
「……さっきから、君の後ろにいるメイドがやたらと僕のことを睨んでくる気がするんだけど。これって僕の気のせい?」
「え?」
この場には給仕の名目も兼ねて最少人数の使用人が控えていたが、リエルの後ろといえば思い当たるのはその中でもただ一人。
「ラナンのこと?」
「そこのメイドがそういう名前なら、そうなんだろうね」
「そういえば、貴方が留学したのは三年前だものね。ラナンとは初対面だったかしら。すっかり隣にいるのが当たり前になっていて失念していたわ」
リエルは後ろを振り返って手招きした。
「ラナン、いらっしゃい」
「はい。お嬢様」
小柄な侍女が手の届く距離で止まったことを確認し、リエルは訝しげにこちらを伺う幼馴染みに笑いかけた。
「紹介が遅れてごめんなさい。この子はラナン。今は私の傍仕えをしてくれているの。侍女としてはまだ勉強中なところもあるけれど、とっても優秀なのよ」
「ふうん」
「ラナン、こちらはナサエル。ウォッカ公爵様は知っているわね? 彼のご子息で、少し前まで他国に留学していたの。前に話したことがある、私の幼馴染みよ」
「……お話はお嬢様より伺っておりました。改めまして、私はラナンと申します」
すっと腰を低くして礼の形をとった彼女に、リエルは上機嫌でうんうんと頷いた。
ラナンがリエルの元に来てからまだ三年も経っていないのかと驚くが、最近は特にちょっとした仕草が様になってきたと感じる。侍女としての振舞いなど見様見真似だった頃がもう懐かしい。ナサエルを弟のように思うリエルだが、同じようにラナンのことを妹のように思っているのだ。その成長が素直に喜ばしかった。
しかし、にこにことするリエルとは対照的にナサエルは憮然としていた。
「その優秀な侍女とやらに僕は睨まれたわけだが?」
「あら、そうだった?」
「最初にそう言ったじゃないか!」
リエルは首を傾げて、ラナンを振り向いた。表情は変わらないが、僅かに視線が合わない。意図的に逸らされているようだった。
「ラナン?」
「……申し訳ございません。お嬢様とは旧知の仲でいらっしゃると頭ではわかっているのですが、お嬢様に対するお言葉がとてもウォッカ公爵様のご子息とは思えず……つい視線に思いが滲んでしまったのやもしれません。至らぬ側近で申し訳ございません、お嬢様」
「あらまあ」
観念したように話し出したラナンの口調は淡々としていて、少しわかりにくくされてはいたが、リエルに問われれば嘘は言えない彼女だ。その内容には感じたままの素直な棘が含まれていた。リエルから見ても主人至上主義なこの子のこと、ナサエルの皮肉の多い話し方が気に障ったのも仕方ないように思われる。主人を害されているようにでも感じてしまったのだろう。
(無闇に刺激しない方がいい子がここにもいたわね)
感情を表に出しづらい彼女にとって、思ったことをそのまま表現できることは進展だと喜びたいが、時と場所、何より相手が悪かった。
「ナサエル、あのね」
違うのよ、なんて弁解の言葉は間に合わない。
「あらまあ、で済ませられることか? なあ。おかしいだろう、リエル。このメイドが何て言ったか理解しているか? メイドの分際で、この僕に、態度が悪いと言っている。わざわざ家の名前を出してまで!」
言うが早いか、ガタン、と音を立ててナサエルが立ち上がった。
三年で見た目以上に自尊心を成長させたらしい彼にとって、使用人から侮られることなどあってはならないことだった。おまけにウォッカの名前を出したとなれば地雷を踏み抜いていると言ってもいい。眦を釣り上げて射殺さんばかりに睨みつける先、ラナンはまったく動きを見せなかったが、それすらもナサエルの癇に障っていた。
「……座って、ナサエル」
溜息を吐きたいのをなんとか堪え、リエルは努めて静かな声を出した。
「そこのメイドに謝らせるのが先だ」
「ラナンは謝ったわ」
「あれが謝罪だって? 思っていもいないことを言わないでくれ。そいつが謝ったのは主人である君にであって、僕にじゃない。僕に対する非礼に、そこの小娘は何一つとして悪気を感じていないじゃないか。ああ、本当に。この僕が、随分となめられたものだね」
「ねえ、ナサエル」
「たかだか使用人が、不相応にもこの僕にものを申したんだ、本来ならば謝罪だけでも生ぬるい。そうだろう? 相応の対応をしてもらわねば公爵家の顔が立たない」
自分の主張ばかりを喚き散らして、立つ顔などあるものか。
しかし完全に頭に血が上ったナサエルには、何を言っても無駄のようだった。
ラナンに謝らせるのは簡単なことだ。リエルが一言、そう命じればいい。
今まさに振り返って、ツンとすまし顔をしているだろう侍女に目配せをすれば、それだけで彼女は頭を下げるだろう。申し訳御座いませんと腰をおり、深々と頭を垂れる。ナサエルが望む通りに、いくらだって謝るだろう。
「……そう、わかったわ」
リエルは立ち上がる際、音をたてなかった。
苛立ちに燃える瞳に対し、その正面に滑り込む。
「リエル……?」
「ナサエル=イル=ウォッカ様」
凛とした声が、空気を震わせた。
人の声が一瞬でその場を制圧するために必要なもの。それは、大層な言葉の羅列であったり、腹の底からの大声ばかりとは決まっていない。それを証明するかのように、この場においてリエルが言葉を続けるならば、口を挟める者などありはしなかった。細い腰がすっと滑らかに動き、折れていく様を誰もが息を呑んで見守った。
「この度は、私の侍女が大変失礼をいたしました。侍女の失態は主人である私の責任。リエル=フォン=マティーニの名をもって、この非礼をお詫びいたします」
「お、お嬢様…!」
それまで平静を保ち続けていたラナンが、血相を変えてリエルに縋った。
「申し訳ございません、申し訳ございませんお嬢様! どうかお顔をお上げくださいっ!」
「それを決めるのはあなたではないわ」
リエルの声はいっそ穏やかなほどに落ち着いていて、ラナンの焦燥感を一層募らせた。
ああ、何てこと、何てこと…!
すぐさま身を翻し、ラナンは動揺したまま立ち尽くすだけのその人に向かって勢いよく頭を下げた。
「ナサエル=イル=ウォッカ様! この度の非礼をお詫びいたします、この罪は如何様にも償います、ですがどうか、どうか私の主人をお許しください!」
一刻も早くと肌が泡立つほど急かされる感情に、もはや腰を折るだけでは足りないと膝をつき顔を地面に近づけた。ここは中庭だ。よく手入れされているとはいえ、芝生に擦り付ければどうなるかなどわかりきっていたが、服や手が汚れるのも厭わずにラナンはひたすら謝り続けた。
「申し訳ございませんっ!」
「……ナサエル様。こちらの謝罪で足りなければ我が父であるサリバン=フォン=マティーニを通じ、正式な文書を作成いたしますが如何いたしましょうか」
頭を下げたままでいるリエルには見えなかったが、ナサエルの顔は真っ青だった。
「……いや、いい。二人とも、顔を上げてくれ」
「お心遣いに感謝いたします。それでは、ラナン」
「………はい、お嬢様」
顔を上げるよう促した先、ラナンの顔色はもはや青を通り越して白くなっていた。自分の何より大事な敬愛する主人に頭を下げさせたことが、あまりにも重く心に圧し掛かっていた。
「ラナン。公爵家に関わらず、ある程度の身分がある者にとって家の名前はとても重いものよ。個人の感情で軽々しく口に出していいものではないし、当人にそれを告げるならば、発言には十分気をつけなさい。私が出ただけで済むならばいいけれど、先ほど言ったように、お父様が出なければいけない話になることだってあるわ」
「申し訳ございません……」
「あなたはラナン。私の侍女よ。私の誰よりも近くに居る自覚を持ちなさい。貴方はとっくに、マティーニ家の一員なのよ。その発言一つずつの背景にマティーニの家名が伴うということを忘れてはだめ」
「…はい、お嬢様」
深々と頭を下げる華奢な侍女にリエルはふわりと微笑んだ。
相手の間違いを諫めることは決して悪いことではない。むしろ、臆せず物を申せる姿勢は誰かにとっての救いになる。大事なのは時と場所、相手の見極めだが、これも賢いラナンならば本来は問題ないだろう。しかしリエルに懐きすぎたこの可愛い子は、こと主人に関わるとなると偶に暴走するきらいもあった。これを機に少し灸をすえるつもりが、これほど落ち込んでいるのを見てしまうと胸が痛む。
(フォローをしたいところだけど、その前にもう一人)
リエルは、未だ呆然としているナサエルに向き合った。
「改めて、私の侍女が失礼いたしました」
「……いや」
「ですが今度は、貴方が謝る番だわナサエル様」
「え?」
思わぬ言葉に、言われたナサエルはぽかんとリエルを見返した。
「ご覧いただきました通り、ラナンは謝罪いたしました。それなら今度は、私の侍女に頭を下げさせたことを貴方は謝るべきです」
「何を、言っているんだ…?」
ナサエルだけではない、口にはしないものの傍に控えるラナンも困惑していた。
「ナサエル様、貴方も自分の発言の後ろに家の名前が浮かぶことをまだ理解していないんじゃないかしら」
「そんなことは!」
「ないって言えますでしょうか? それなら、私たちの誇りを信じ、生活を支えている大事な家門の一員に対して使用人の在り方を軽んじる言葉を使ったのは、ウォッカ公爵家の総意と受け取ってよろしいかしら?」
「っ!」
ハッと息を呑む気配がした。
「貴方の家の名前を出して非難をしたのはうちの侍女だけれど、それを取り上げて詰めたのは貴方自身だわ、ナサエル=イル=ウォッカ様。世の中には取るに足りない言葉なんていくらでもあるけれど、真にその家の名前を大事に思うならば、使いどころを誤ってはいけないんじゃないかしら。ときに寛大に振る舞ってみせるのもまた、上流階級の嗜みだと私は思うのだけれど、この考えは間違っていますか?」
「………いいや」
苦しそうに、もう一度「いいや」と重ねられた声は小さかった。
リエルはじっとその様子を見据えながら、確かな口調で言葉を続けた。
「私たちにとって、名は誇りです。それを大事に思うことは何も間違っていないわ。それを侮辱されたと感じるならば、憤るのも当然のこと。ときに何よりも誇りや矜持を貫かなければいけないときが、殿方にはあるのでしょう」
けれど、だからこそ。名をかけるところを間違えてはいけないのだ。
「貴方がむきになるほどに、何より大事に思うその名が軽くなってしまわないかしら。相手が勝手にこちらの家を語るのと、自分で意図して家の名を出すのとでは言葉にかかる重さが違うわ」
名を背負う、名にかけるとは、そういうことだ。侮辱を許せと言っているのではない、対応を間違えるなと言っているのだ。
「それに、ラナンが非難をしたことに対してまったくの覚えがないわけでもないでしょう」
「……」
すっかり俯いて黙り込むナサエルは、やはり素直な性格だと思う。
(……お説教って疲れるわ)
そもそも、リエルは二人のどちらにもそれほど怒ってはいない。
ラナンがナサエルにああして噛みつくことになった原因は、彼がリエルに放った皮肉の数々だ。当の本人であるリエルは気にしていなかったが。
リエルとナサエルは幼馴染みの気やすい関係であるし、現にリエルの口調だって他の誰に対するよりも随分くだけている自覚がある。ナサエルの皮肉は聞く者によっては確かにはらはらさせられるだろうが、周りに使用人しかいない状況とあれば、本来彼らは主人の交友の様子に対してあからさまな我を出すことはない。
ないのだが、そこはこのラナンだ。主人至上主義であることに、まだまだ侍女としての経験が浅いことも手伝ってこのような結果になってしまった。
ラナンがぐっと気持ちを押し込めていればナサエルの癇に障ることはなかったし、ナサエルがラナンの発言に関して寛大な態度でいればこの場は穏やかに終われただろう。
要するに、どっちもどっち。
しかし、一度緊張感に包まれた空気はそうそう立ち直るものではない。それならばと、リエルは行動しただけのこと。
喧嘩両成敗というやつだった。
ここでナサエルがへそを曲げるようであれば仕方ない。この場はお開きにしてまた改めることにしよう。存外真面目な彼のことだから、頭を冷やせばこちらの言いたいことも伝わるはずだ。
リエルは頭を下げたそのときから、多少の長期戦も覚悟していた。
「私の使用人に対する暴言とこの場の雰囲気を壊したことに対して、どうか謝罪を」
リエルの声音は一貫して落ち着いていた。しかし有無を言わさぬ色が込められていた。
ナサエルはぐっと歯を噛み締めたが、やがてその口元から細い息が吐きだされていく。
「……君の言うことは間違っていない。すまなかった。ナサエル=イル=ウォッカの名をもって、この場で起きたことを謝罪しよう」
力なく言われた言葉に先ほど空気を切り裂いたような怒気は見られない。可愛い弟分のフィルターがかかっているリエルには、しょんもりと垂れ下がった犬のしっぽが見えたほどだ。
「ラナン」
「! はい」
「ナサエル様はこう仰っておりますが、貴方はもう大丈夫かしら? ウォッカ家のご当主様の書状は必要? 取り寄せるというのなら、お父様を通じて私の名前を出すけれど」
ナサエルの肩が少し揺れたが、しかし口は挟んでこなかった。
ラナンは数度瞬きをして、ふるりと首を振った。
「いいえ、とんでも御座いません。もともと私に謝罪は不要です。ナサエル様、この度は本当に申し訳ございませんでした」
「……いいや、僕も悪かった」
ラナンのさらりと自分を卑下する口ぶりに言いたいことはあったが、ばつの悪そうなナサエルを見るとこの場でこれ以上話を続けるのは憚られた。
「わかりました。じゃあ、この話はおしまいね! さあ座ってナサエル。すっかり冷めちゃったから新しい紅茶を淹れてもらいましょう」
「あ、ああ」
「ラナン……あらまあ、エプロンに葉っぱが。手も見せて。まさか怪我はしていない?」
「お、お嬢様。私は大丈夫ですので、どうかお気になさらず」
「そんなわけにはいかないわ。ほらほら、見せてごらんなさい」
膝をついたときの汚れをはたいてやりながら、他に汚れはないか、擦ってはないかと心配するリエルにラナンは慌てた。顔を真っ赤にさせながらわたわたと所在無く手を上げ下げする年若い侍女は可愛らしく、普段の無表情など見る影もない。
姉妹のような二人の様子を見ながらナサエルも漸く腰をおろすと、すかさず給仕係が淹れたての紅茶を用意した。今までの成り行きを見守っていたのだろうが、それにしてもなんて良いタイミングだろう。続けてリエルの前にも用意された紅茶に、彼女はにこりと微笑んだ。
「ありがとう、マサさん」
「いいえ、ごゆっくり」
マサは今回の給仕担当の名前だ。この場にずっといたわけだが、話の落ち着くタイミングを見計らって紅茶を淹れなおす手腕は大したものだ。笑いかけるリエルに穏やかに返す姿を見ながら、目指すべきはここだろうかとラナンはその滑らかな仕事ぶりをじっと観察していた。
ラナンとは違う意味でその様子を見ていたナサエルは、ゆらゆらと揺れるカップの中身に視線を移し、ふっと息を吐きだした。
「……悪かった」
「あら、もういいって言ったのに。安心して、貴方の家に書状を求めるのなんてこの場限りの冗談のつもりだったわ」
もとよりラナンがそんなものを望むはずがないとわかったうえで言ったことだった。なんなら、わざわざ丁寧に頭を下げたところからここまでの一連すべて、ある意味で旧知の身内しかいないからこそできた行動だ。
「わかっているさ。君が僕を窘めたことも、僕の出方次第では冗談じゃなくなっていたことも」
「どうかしら。でも、この場だから、相手が私だからという部分はあるのよ。貴方がそこを間違えることはないとわかっているけれど、ラナンの反応も決して軽んじていいものではないわ」
「……わかっている。いや、わかったよ。ちゃんとわかった」
うなだれる様子からはすっかり毒気が抜けていて、それどころか大分弱っているようだった。さきほどまでの小生意気な威勢はいったいどこに行ってしまったのか。
(……少し、やりすぎてしまったかしら)
リエルとしては、本当に気にしていなかったのだ。気やすい会話は望むところだし、幼い頃からの付き合いは伊達じゃなく、ナサエルの素直な部分をちゃんと理解していた。
おまけに『記憶』のことがある。目の前のナサエルがどのような三年間を他国で過ごしたのかを知らないが、もしも『彼』と同じようなものであるならば、楽しいばかりでいられなかっただろう。何せこれほど捻くれて帰ってきたのだから。
『記憶』の世界ではこの状態で初対面となったが、こうして彼と目線の近い侯爵家に生まれ、幼少期から共に過ごしてきたとなれば、実際に見てきたナサエルという少年は高慢なお坊ちゃまという言葉だけで表現できなかった。むしろ、リエルの後を懸命に着いて来てはにこにこと笑っているような可愛らしい少年だった。夢を見始めてしばらく経っても、この幼馴染みがそれほど遠くない未来で『記憶』のような彼になるなど想像できなかったくらいだ。出会いのスタート地点が違うとこうも人の印象は違うものだろうか。
ある意味で素直だからこその変化なのだろう。しかし、そこに至るまでの経緯を知るのは今ここにいるリエルではない。
そもそも。リエルにしてみれば、正直に言ってどっちでもよかった。
ナサエルが『記憶』の通りになっても、ならなくても。どっちでもよかったのだ。
この世界には、この世界での付き合い方がある。
リエルの中で、ナサエルはナサエルとして存在が揺らぐことはない。不思議な夢をみるよりもずっと前から、リエルの中にナサエルはもういたのだから。
ここまで築いた二人の距離感を大事にしようと、一歩離れたところから不器用な幼馴染を見守るはずだった。
しかし実際にこうして、ラナンの態度に激昂する様子をみたら、そうも言っていられなくなった。
この世界のナサエルには侯爵令嬢の幼馴染はいても、常で支えることが出来た『リエル』という新米メイドはいないのだ。
彼女の役目は誰が担っているのだろう。傍についている人はいるのだろうか。小生意気にも意見をして、主人を諫めるような彼だけの侍女はいるのだろうか。このままでは、彼を取り巻くあらゆる環境から彼は孤立するのではないか。
リエルはそんなときに、必ずしも傍にいられるとは限らない。寄り添えるとは言い切れない。
だって、リエルは彼の屋敷のメイドではなかった。彼の横に付き従って、ときに手を焼きながら、ときに怒鳴られながら、彼のために奔走した『リエル』ではなくなってしまった。
そこまで考えたときにはもう、口を出していた。
お節介だと思われても仕方ないだろう。冷静になって考えれば、ナサエルの家は公爵家に相応しい厳選された従事者に囲まれていて、リエルの心配はそのまま彼らへの侮辱に成り兼ねないものだ。
(それでも放っておけない私は、やっぱり中途半端ね)
本当は、反省が必要なのはこの二人だけじゃないと、誰より自分が知っている。心の内のことなんて当人以外にわからない。誰も叱ってくれないからこそ、自分の反省点は自分で見つけて、素直に受け入れなければいけないのだ。
「…儘ならないな」
「え?」
一瞬、心の声を声に出してしまったかと錯覚したリエルに反し、深々とした溜息と共に口を開いたのはナサエルだった。
「僕は、君に成長した姿を見せたかったのに。蓋を開けてみればがっかりさせてばかりだ」
思いがけないことを言われたものだ。
「がっかりなんてしないわ。私は、貴方がこうして元気に帰ってきてくれた。それだけでとっても嬉しいの」
「それは、ありがとう。でも、君がなんと言おうとも、僕は自分にがっかりしているよ」
「どうして?」
「言ったろう? 成長した姿で驚かせたかったんだ。君に会えるのは今日じゃないと思っていたから、予定が狂った。ああ、こんなのも言い訳か」
何だか随分落ち込んでいるようだった。
「再会の挨拶も忘れるほどに驚いた記憶があるけれど、それじゃあご不満でした?」
「見かけが変わるのなんか当たり前じゃないか。それに……」
「なあに?」
急に言い淀むナサエルに首を傾げたが、やはり言いづらかったようで「なんでもない」と顔を逸らされてしまった。
「ああ、そうだ。ひとつ言い忘れていた」
リエルが続きを促すと、ナサエルは吐息を溢すようにふっと笑った。その目が随分優しく細められたものだから、どこか大人びた表情に不覚にもどきりと胸が鳴る。
「…...ただいま」
たった一言。ありふれた挨拶だ。
けれど、リエルの胸は締め付けられるようで、それを隠して笑うのが精一杯だった。
「…ええ。おかえりなさい。ナサエル」
「ああ」
君が出合い頭に突っ込んでくるから言いそびれたな、って思ってね。
そう言って意地悪く笑うナサエルに、ほっとしたことも内緒だ。