殺戮
ヒュージアントたちは黙々と穴を掘り進める。ニッツは燭台を手に作業を監督していた。
バエルの地下は土が固く、城壁の下をくぐっての侵入は不可能だ。しかし、なるべく近くまで地下で進んでおきたかった。少しでも奇襲の効果をあげるためだ。
すでに作戦はできあがっている。準備も今日中には終わるだろう。今夜には決行できる。
ふと、バエルで出会った少女、ユイのことを思い出す。
あんなに優しくされたのは生まれて初めてだ。
本当にあの街を攻めていいのか、攻撃の意思がにぶる。
(ひとり優しくしてくれた人がいたからってなんだ。そんなの関係ない。優しくされたいなんて思ってない。……人間なんて結局、薄汚い生き物だ。僕には蟻だけがいればいい。蟻は嘘をつかないし、裏切らない)
そう結論づけるも、やはり迷いは残る。
迷っているうちに準備が完成した。侵攻開始を引き伸ばしたところで兵站上、不利になるだけ。
攻撃開始の合図を待つだけのヒュージアントたちを見て、ニッツは簡単な解決策を見出した。これまでそれを思い付かなかったのが馬鹿みたいだ。
ニッツは蟻たちに命令をくだす。
(攻撃開始。ただし、敵は兵士だけ。一般人は襲わないで)
ニッツの意志が女王を介して全軍に伝わる。蟻たちは静かな進軍をはじめた。
ヒュージアントの総数は6000。ニッツはこれを三つの部隊に分けた。
三つのうち、最初に動くのは1000体からなる隊。これは水道橋を伝って城壁内に侵入する。
バエルへと伸びる長大な水道橋の上を、蟻たちが黒い線となって進む。
城内に降りた1000体は城壁を守る兵士たちに襲いかかった。兵士たちは応戦するも、暗い闇の中に黒い蟻の姿は捉えにくい。
兵たちが撹乱されたのを見て、ニッツは次に4000の蟻を投入する。
地下に潜っていた4000体は一斉に地上に出て城壁へ向かう。
本来なら守備兵たちが投石機や弓矢で攻撃してくるはずだが、陽動部隊のおかげでその攻撃もまばら。
4000体はほとんど損害を出さずに城壁にたどり着くと、垂直の石壁をすいすい登る。
頂上へとたどり着いた蟻は守備兵に襲いかかる。すでに揺動部隊と戦闘中だった兵士たちは新たな敵に対処できず、次々と死んでいく。
ヒュージアントは目の前の敵を殺すと、街の中へと降り立つ。
街では敵襲を告げる鐘が鳴り響く。町人たちは家に入り、鎧戸を閉めた。
守備兵が配されているのは城壁と、長官のいる行政府の周辺のみ。
街に降りたヒュージアントは行政府を目指す。
行政府からも兵が出てきて、戦闘がはじまった。
すべての光景をニッツは頑丈な建物の中で見ていた。室内には女王と、残り1000の蟻がいる。
ここにいるのはニッツ自身の守りと、不足事態が起きた時のための予備兵力だ。
ニッツは蟻たちに守られながら戦況を見守る。すべて順調だ。
——突如、真っ赤な炎が網膜を焼いた。
荒れ狂う炎は街道の石畳を溶かし、十数匹のヒュージアントを呑み込んだ。
炎の残像が消えると、行政府の前にひとりの男がいた。兵士ではない、鎧は藍色の革でできており、武器は何も持っていない。
男は手のひらからをかざすと、何事かつぶやく。周囲の兵が脇へ飛び退いた。
——再び、閃光。
二度目の炎は先ほどより大きく、三十匹近くの蟻が消える。
道端に残った炎の残滓が、明かりとなって真っ黒い魔物の姿を照らし出す。それまでやられる一方だった兵たちも敵の姿が見えるようになり、反撃をはじめる。
ニッツはすぐに男の正体を察した。
(あれが精霊を使い魔にした人間、魔道士か……)
図書館で魔道士についての記述は読んでいた。火、風、土、水、それぞれを操る精霊を使い魔とし、精霊の力を使うことができる。あの男は炎の精霊を使い魔としているのだろう。
見るのははじめて。
だがいることは知っていた。
だから、出てきた時の“案”も準備していた。
(ここにいる蟻たちで行政府の裏に迂回、背後からあの魔道士を叩く)
ニッツが命じると、女王は「ぎゅぎゅぎゅ」と蟻同士でしかわからない声を発する。ヒュージアントたちは命令に従い、動き始めた。
ニッツが見ていると、炎の光の届かない位置で闇が蠢いていた。
静かに建物の裏に周り——、一斉に魔道士に襲い掛かる。
魔道士はあわてて振り向くが、反撃する前に一体の蟻が噛みつかれていた。火炎を出すも大量の蟻にとりつかれ、なすすべなく巨大な顎の餌食となる。
これで障害は排除された。
(4000は建物を包囲。残り2000で建物内に突撃。中の兵士を一掃して)
命じると、蟻たちは行政府の中に入る。中から悲鳴があがった。
野太い抵抗の声、甲高い断末魔、何かが壊れる音。
ニッツはそれを聞いて首を傾げる。
(攻撃するのは兵士だけって言ったのに、女の声……? 蟻に驚いただけか)
いぶかしんでいると、窓から人の死体が飛び出してくる。
兵士のものもあれば、明らかに文官とわかる服装の男、家政婦なども混じっている。
(おい! 命令しただろ!)
隣にいた女王を睨むが、女王は何も言わない。
そこでようやく悟った。ヒュージアントに兵士と一般人の区別などつかないのだ。
——ヒュージアントは、魔物の中では賢い部類に入る。しかしあくまで魔物の中では、だ。人間ほどの知能はない。
人間ならば兵士と一般人の違いなど、服装で見分けられる。だが、魔物に“服”などという概念はない。
ならば、建物の中の人間は——。
昼間のニッツの記憶が蘇る。「行政府で働いている」そう言っていなかったか——っ?
ニッツは不安に駆られて外に飛び出し、行政府に駆け込んだ。
中はまさに阿鼻叫喚であった。
血潮が飛び散り、ちぎれた人間の四肢が散乱している。
強烈な匂いがニッツの鼻をついた。めまいを覚えながらも死体をひとつずつ確かめていく。
ひとつの死体につまずいた。
起き上がり、死体の顔を見る。
知っている顔だった。
長い黒髪、通った鼻筋、優しかった顔は恐怖で歪んでいる。
ユイだった。巨大な蟻の顎によって、下半身と左腕がなくなっている。
ニッツは冷たいユイの体を抱き上げた。
めまいが一層ひどくなる。視界がにじむ。胃の腑が引っかき回され、中のものを吐き出した。
(違う、違う、違う、違う……。僕は、一般人は襲うなって。この人を殺す気なんてなかった。いや、けど、攻撃を命じたのは僕で……、やっぱり全部、僕のせい……?)
再び嘔吐する。胃の中がからっぽになる。もう何もかもどうでもよくなる。
ニッツは涙と鼻水で顔を汚しながら、隣についてきていた女王を見上げた。
(命令。街の人間全員殺して)