バエルの少女
ラフエル王国は大陸中央部にある国家だ。
もとは都市国家であり、周辺都市を併呑する形で大きくなっていった。
併呑された都市のうち、最西端にあるのがバエルだ。それより西には小さな集落がいくつかあるが、王権は及ばず、商人だけが行き来している。
そのバエルでもっとも賑わう市場に、ニッツはいた。
首からは蝋をしいた板をかけている。これにとがったペン先をこすると、跡がついて字が書けるのだ。
ニッツは目についた肉屋の前に立つ。
「らっしゃい。どれにする?」
言われ、ニッツは蝋板をがりがりとペンでこする。蝋が堅いせいで書きにくい。見ている店主は怪訝な顔をした。
「なんだ? ひやかしなら帰んな」
言われ、ニッツはむっとして顔を上げる。急いで書こうとするが、首根っこをつかまれた。
「なんとか言ったらどうなんだ、口がついてないのか? ほかの客の邪魔になるだろうが」
店の脇の路地に放り投げられる。からんからんと音を立てて金属製のペンが転がっていった。
擦りむいた膝をかばいながら立ち上がってペンを追いかける。
ニッツが追いつく前に、通りかかった人がペンを拾ってくれた。
「これ、君の?」
ニッツよりも背の高い、澄んだ声の女性が微笑んでいた。
ニッツがうなずくと、ペンを手渡してくる。
「怪我してるじゃん! 大丈夫?」
ニッツの膝を見て尋ねてくる。ニッツはペンを蝋板に走らせた。
『大丈夫』
「……もしかして、話せないの?」
こくこくとうなずく。
「そうなの!? たいへんだね。こんなとこで何してるの? おつかい?」
ニッツはこれが好機とばかり、肉屋でも尋ねようとしていたことを書き記す。
『兵隊、たくさん』
これが、ニッツがこの街にやってきた理由だった。
王国を征服するにあたり、最初にぶつかるのがバエルだ。しかしバエルでは守備兵が増強されていて戦力が足りない。
寡兵で勝つには効率的に兵を動かさねばならない。だが策を練るにしても情報が足りない。そこで作戦に必要な情報を集めるために街へやってきたのだ。
「ああ、あれね。なんでもこの辺で村が一晩で消える事件があってね、しかも何件も。この街の長官が魔物の仕業だって言って、王国軍から兵隊を呼んだんだって」
ニッツは歯噛みする。
村が一晩にして消える、というのはニッツの仕業だ。
群れを強化するため、村を襲って人間を餌にしていたのだが、そのせいで街の防衛力があがってしまうとは誤算だった。
「市場の中央にもおふれの看板が出てたと思うんだけど、見てない?」
ニッツはしばし考えてから蝋板で答えた。
『旅してるから、ここへは来たばかり』
「旅って、ひとりで?」
うなずくと、女は驚きの声をあげる。
「ええ!? 話せないんでしょ? しかも年も小さいのに」
ニッツは少しイライラし始めていた。この女はどうやらかなりのおせっかいなようだ。
だが話に乗ってくれるということは情報を引き出せるということでもある。必要なことが聞き出せるまでは辛抱することにした。
「君、名前は?」
『ニッツ。兵隊って、何人くらい?』
「ニッツくんね。私はユイ。よろしく。一個大隊って聞いてる。だからちょうど千人かな。ところでニッツくん、年は?」
『城壁に門はいくつある?』
「東西南北にひとつずつ。ねえ、年は?」
『15。この辺りの地盤はどうなってるの?』
「へえ。私より三つも下か。その年でひとりで生きてるなんて、偉いね」
ニッツの頭をなでてくる。ニッツは舌打ちしながら手を振り払った。
「あはは、ごめんごめん」
『この辺りの地盤は?』
「地盤……って、なに?」
ニッツはうなだれる。おせっかいだが知能が低いせいでたいした情報源にはならなさそうだ。次の質問を最後にしようと決める。
『この辺りで地図を売ってる店はある?』
「地図か。たしかに旅するなら大事だよね。わかった! お姉さんが連れてってあげる」
言うと、ユイはニッツの手を引いて歩き始める。
ニッツは抗議しようとしたが、長年の運動不足がたたって振り解く力もない。
「あ、あのお店!」
意外とすぐにあって助かった。
ほっとした矢先、ユイは一件の屋台を指差した。
「おいしいんだよ。ちょっと寄ってこっか」
そんな時間ない、そう言いたいが、完全に主導権を握られている。
結局、ユイの気の済むまで食べ歩きに付き合わされる羽目になった。