使い魔
炎天下のもと、あばら屋のそばで少年がうずくまっていた。
少年はニッツという、農家の末っ子だ。くすんだ茶髪にそばかす、歳は15歳ごろ。背丈が小さい上にか細いので年よりも幼くも見える。
ニッツが小一時間もうずくまっているのは腹が痛いわけではない。
ニッツは蟻を見ていた。
あたり一面に広がり、獲物があれば示し合わせたように集まり、一糸乱れぬ行軍で巣穴へ戻っていく。
ニッツはつくづく思う。蟻は賢い生き物だ。
観察は後ろからの一撃で途切れた。
「なにやってんだい! このうすのろ!」
背中を蹴飛ばされると同時に怒声。振り返れば烈火の如く怒る母親がいた。
「またこんなところで虫なんか見て、気持ち悪い子だね。なんとか言ったらどうなんだい!」
だがニッツは何も言わない。——いや、言えない。
ニッツは、生まれつき声が出せなかった。
無表情のニッツを見て、母親は鼻を鳴らす。
「そんなひょろっちい体じゃろくに農作業もできやしない。倉にある農具の手入れでもしてな。うちには役立たずを食わせる余裕なんてないんだよ!」
ニッツの首根っこをつかむと、倉に投げ込んで立ち去っていく。
ニッツはよろよろと起き上がると、近くにあった鎌を研ぎ始めた。
農具の手入れを任されたのは幸いだった。外で父や兄たちと農作業など考えただけでぞっとする。
父も、母も、兄弟たちも、だれもニッツを愛しはしなかった。それでもよかった。
ニッツの友達はたくさんいる。
今も、蔵の中に数匹の蟻が這っていた。
蟻は言葉を話さない。それでもずっと見ていると何を考えてるのかはわかる。
ひんやりとした倉の中で蟻を見ながらの作業は苦ではなかった。
× × ×
夜までかかってすべての作業を終える。
家に入ると、兄弟たちは寝ていた。居間では父と母がろうそくの灯りの中でひそひそと話している。
物音を立てたりして二人の不機嫌を買ってはめんどうだ。ニッツは居間には入らず、そろりそろりと寝室に向かう。
居間のそばを通る時、二人の話し声が聞こえた。
「どうすんだい、あれもそろそろ15だよ」
母親のいがいがとした声。
「なにが」
父親はどうでもよさそうに頬杖つきながら答える。二人ともニッツには気づいていないようだ。
「あの穀潰しのことだよ。15になれば使い魔をつけることになる。あんなガキでもしきたりはしきたりだ」
「……そこらの、適当な魔物でもつけてやれ。どうせ何をやっても使いこなせんだろうて」
「じゃあ儀式のやり方はあんたが教えるんだね?」
父親はだるそうにため息をつく。
「あたしは嫌だよ。あれには関わりたくないんだ。いつもいつも虫ばかり見て、気味の悪い……」
「倉の奥に儀式の本がある。渡せば勝手に読むだろうて」
父の言葉に、母親はそれもそうか、とうなずいた。
話題はすぐに今年の作物の具合に移る。
ニッツは忍び足で来た道を戻り、倉へ入った。
(儀式の本は倉の中……)
真っ暗だが、さっきまで作業していたおかげで目は慣れている。探し物はすぐに見つかった。
汚い布切れをかけられた薄い本だ。本なんて高級品が何冊もあるわけがないので、これが目当てのものだろう。
表紙を開くと、やはりそれは使い魔の儀式についてだった。
ぺらぺらとめくって中身を頭に入れる。本をもとの場所に戻した。
壁際に座り、夜がふけるのを待つ。親が寝静まったころ土間に忍び込み、酢の入った壺を見つけるとひっつかんで走り出した。
土間を出て、家を出て、さびれた村を出る。
夜の森は魔物の巣窟。だがニッツは構わなかった。人間の方がよほど怖いし気持ち悪い。
魔物たちが満腹だったのか、骨張ったニッツには食欲がわかなかったのか、理由はともかくニッツは食い殺されずに走り続けることができた。
ニッツの趣味のひとつは、蟻の巣を見つけることだ。
地面の下の巣を見つけることもあるが、蟻塚は遠くからでも見つけやすい。蟻にもいろんな種類があり、蟻塚の形も違う。
明け方になってようやく目当ての蟻塚を見つける。ニッツの身長より大きい、巨大な蟻塚。
それは魔物の巣だ。魔物は魔物でも蟻の魔物。体長1メートルもの巨大アリ、ヒュージアントの巣。
ニッツは持ってきた酢を全身にふりかける。蟻は酢を嫌う。これで食べられずに済むはずだ。
ニッツは火打ち石で松明を作ると、巣穴へと飛び込んだ。
地下に広がる迷宮は広大で、奥深い。ニッツなどここでは餌でしかないが、酢のおかげでヒュージアントたちはニッツに襲いかかってこない。
やがて広間に出る。そこはこの蟻塚の主の部屋。女王蟻の部屋だ。
女王はひときわ大きく、真っ白で、美しい羽が生えていた。
ニッツが近づくと、女王は匂いを嫌がって身じろぎする。
(ごめんね、嫌な匂いだけど、ちょっと我慢して)
ニッツは酢の入っていた壺を割り、破片で腕を切り付ける。流れ出た血で手のひらに儀式のための紋を描いた。
紋を女王に向けて念じる。
効果はすぐに現れた。
女王はまっすぐニッツに視線を向ける。
(こっちに来て)
念じると、女王は酢の匂いなど気にせずニッツのそばに寄ってきた。丸っこい硬質の頭を撫でると、女王はうれしそうに腹と胸の間にある器官を「きゅっきゅ」と鳴らす。
儀式は成功だった。
蟻豆知識・しゃべる蟻
昆虫の体は頭部、胸部、腹部から成ります。しかし蟻は胸部と腹部の間に腹柄節という器官があり、ハキリアリなどはこの腹柄節をギロのように鳴らして会話します。ちなみに蟻言語の解読はまだできておらず、残念ながら人間が蟻と話すことはできません。