鉢植え娘の恋人~冷酷と評される騎士の頭には小さな花が咲いています~
王太子殿下の婚約者選びが終了したと同時に始まったのは、選考に漏れた令嬢たちによる「高位貴族の令息をゲット」選手権である。
主に十代の後半から二十歳にかけて。二十二歳の殿下に合った年齢の令嬢たちは、この日のためだけに生きてきたといっても過言ではない。
親の期待、親戚の期待を背負ってこの戦に臨んでいた中でも特に上位貴族の令嬢たちは、身分が身分なものだから次の相手を探すのが難しい。同年代の令息たちにはもう決まった相手がいることが多いのだ。
いままで見下していた下位の令嬢たちが持つ「婚約者」というものを手にするべく、今シーズンは熾烈な争いがおこなわれている。
一番人気は、王太子の再従弟にして公爵家の次男であるグレン・ガリエ、二十歳。ガザニア王立騎士隊に勤める騎士である。
黒髪と濃い菫色の瞳は闇の化身とも言われ、鋭い目つきと態度で相手を威圧する冷酷無比な剣士としても有名だ。これまではずっと怖いと恐れられていたのだが、王太子の隣が埋まってしまった今となっては、次に一番地位が高い独身令息は彼である。
果敢に挑んでは、氷のような一瞥で撃沈していく令嬢が続出。
数はだいぶ減っており、残っているのは高位貴族のご令嬢が数名。自分より下位の男には嫁げないというプライドがあるのだろう。
(大変そうだなあ、いいとこのお嬢さまって)
のんびりと独りごちたのは、王宮で救護師を務めている娘。名をジャスミン・ノースポールという。宮廷医師である祖父マクニールの元で、その手伝いのようなものをしている。
王族の診察を任されるほどの腕を持つマクニールは一代かぎりの男爵位を与えられているが、孫であるジャスミンは庶民でしかない。祖父の人徳によって王宮での立場を得ている状態だし、わずかばかりの同情もあると思われる。
「なにあれ。下働きの子がどうしてこちらの区画にいるのよ」
「違うわよ。ほら、あれが有名な」
「ああ、鉢植え娘。本当に持っているのね」
ドレスをまとったきらびやかなご令嬢たちの聞こえよがしな声に足を止めたジャスミンが顔を向けると、彼女たちは扇で口元を隠しながら何事かを囁いている。
細められた瞳は嫌悪だったり嘲笑だったりと様々だが、そんな視線は慣れたものだ。なにしろ自分でもおかしいと自覚している。わかってやっているから、むしろ「なんかすみません」という気持ちにもなってしまう。
ジャスミンの手には、土だけが入った鉢がある。
彼女はガザニア王宮名物「鉢植え娘」
何も植わっていない鉢を持って歩いている変人として有名であった。
そもそものキッカケは、幼少時の事故だ。
両親とともに王都へ向かう際、乗っていた馬車が暴漢の襲撃を受けた。
犯人は当時王都を騒がせていた犯罪組織で、追われていた彼らは逃げるための手段を求めて近くを通りがかった馬車を襲った。それがたまたまジャスミンたちが乗っていたものだった。
祖父の叙勲祝いに王都へ赴くということで、特別に手配した馬車だったことが不幸を招いたともいえる。馬車を貸し切れるほどの家なら、軍資金も賄えると考えたらしい。
たくさんの声と足音。
知らない大人の男たちの罵声と馬の嘶き。
のちに響いてきた金属が触れ合うような硬質な音。
悲鳴。
七歳のジャスミンは、なにがなんだかわからなかった。
横転した馬車と地面の隙間で、ただ縮こまっていることしかできなかった。
「大丈夫か、お嬢ちゃん」
光とともに聞こえた男のひとの声を最後にジャスミンは気を失い、そして次に気づいたときは豪華な一室にいて、覗き込んできた知らない少年の頭頂部に一輪の花が咲いているのを見たのだ。
どうして頭に花が咲いているの?
開口一番、そう問うた少女に動じなかった少年はたいしたものだとジャスミンは思う。のちに彼が語るところによれば「訓練の賜物だ」だそうだが。
続いて覗き込んできたのは祖父であり、けれどやはりその頭頂部にも花があった。少年とは違う色合いで、水分を失って萎れたような花。
「おじいちゃんもだ。お花咲いてるよ、でもげんきない。お水あげなきゃ枯れちゃうよ?」
「……ジャスミン」
「なに、おじいちゃん」
ボロボロと涙をこぼしながら祖父は自分を抱きしめて、背中をゆっくりと叩きながら、よかったと何度となく呟いた。祖父の背中越しに見た少年は踵を返して部屋を出て行くと、やがて屈強な体格の男性とともに戻ってきた。
その男は意識を失うまえに見たひとで、騎士隊を率いていた隊長だとか。カルスと名乗った。ここは公爵家の御邸で、彼は王家に最も近い血筋といわれる、ガリエ公爵家の人物だったのだ。ジャスミンの祖父は王宮で医師を務めており、騎士隊の救護も職務の範疇ということで、親交があったらしい。
暴漢被害に巻きこまれた少女が宮廷医師の孫だと知った、カルスの父である公爵閣下が呼び寄せてくれた。仕事がある祖父は公爵家から王宮へ通い、ジャスミンは静養させていただくことになった。
両親は回復することなくそのまま亡くなったと聞かされた。安置所で対面した両親の頭部にも植物があったけれど、花も葉も落ちて水分を失っている状態。そっと手を伸ばすとカサリとした感触を伝えたのちに消えた。
そのときジャスミンは悟る。
ああ、これはきっとひとの命なのだ、と。
自分は生命の危機にさらされたことで、こんなものを見るようになってしまったのだと、ぼんやりと考えた。
思考が飛躍しすぎだとは思うが、それぐらい当時の自分は病んでいたのだろうと振り返る。事実、頭に咲く草花の話をすると、皆が決まって同じ微笑みを浮かべた。つまり「可哀想な子を見る目」だ。王都でも幅を利かせていた組織に、乗っていた馬車を襲撃され、怪我を負ったうえに両親を亡くした子どもである。少々おかしなことを言っていても、許容されるというものだった。
元来のジャスミンは前向きな子で、実家が客商売をやっていたこともあって周囲の空気にも敏感だ。公爵家の使用人たちの顔から「あ、これはみんな困ってるな」と理解したジャスミンは、見えているものに対してくちを噤むことを選択した。
現在この秘密を知っているのは、祖父マクニールと公爵家の主だった者のみ。荒唐無稽な話を信じ、両親を説得してくれたのは、目覚めて最初に姿を見たグレン・ガリエだった。
グレンは二歳年上で、整った顔立ちの少年。ジャスミンが暮らしていた田舎ではまず見ない、ようするに「育ちのよさ」が垣間見える男の子で、はじめは萎縮していたジャスミンであったが、持って生まれた性質は変えられない。動けるようになると邸内を歩きまわり、使用人たちにあれこれ質問を繰り返した。
グレンはその後をついてまわり、すっかり世話係のようなポジションに落ちついてしまったことは悪かったと思っている。
だが彼の父であるカルスは、逆にジャスミンに礼を述べた。
グレンは、公爵家の人間として「周囲に内面を悟らせない」訓練に入れ込みすぎるあまり、子どもらしからぬ落ち着きと無表情が標準装備されてしまったという。
貴族としては良くあっても、父親としては忍びない。楽しいことや嬉しいことを共有できる相手がいないのは、とても寂しいことだ。
「ジャスミンのおかげで、グレンにもきちんと感情が戻ってきたように思う。ありがとう」
「そうなの? わたしはグレンをこまらせてばかりでわるいなっておもってたのに」
「あら、それは大事だし将来有望ね。いい女は男を困らせるものよ」
割って入ったのはカルスの妻。頭に美しい百合を咲かせた女性はジャスミンをたいそう可愛がってくれる。母を亡くしたジャスミンは、屈託なく彼女に甘えていたし、彼女もまたそれを許してくれた。
過去の自分を振り返ると、命知らずというか恐れ知らずというか。王都で暮らして十年も経てば、貴族社会の序列は理解している。事件の被害者というだけで公爵家から庇護される平民は常識から外れているし、もっといえば公爵家の御令息の傍にいる年頃の娘が平民であるということも大いに問題がありそうだ。
(でもさ、仕方ないじゃない。グレンのこと大好きだし)
無論ジャスミンだってわかっているのだ。貴族社会というのは、好きという感情だけで事が運ぶほど甘い世界ではないことを。
だからせめてもう少し。
十八歳になるまでは何も考えず、彼の傍で、一番親しい女性でいたいと願っている。
*
王宮の救護室に戻ると、そこには客人がいた。祖父と話をしているのは、さっきまで頭の中で回想していたグレンである。
「怪我でもしたの?」
「いや、べつに」
表情が動かないため「何を考えているかわからなくて怖い」と言われるグレンだが、ジャスミンにとっては関係がない。彼の頭でさわりと揺れる小さな花は慎ましやかで、瞳の色をもっと薄くしたような淡く綺麗な色だ。
人間のオーラを表したような花たちは、感情や体調に合わせて色を変化させる。病気になれば萎れてしまうし、哀しいときは青く染まる。怒気が強ければ赤くなるし、焦っていると黄になる。
その特徴から考えると、今のグレンは穏やかそのもの。非常に安定している。ただちょっとだけ雑草らしき芽が出てきているのが心配なので、ジャスミンは彼に歩み寄ってそれをちょいと手で摘んだ。そして自身が持っている鉢に移植する。
「なにかまずいものが生えていたのか」
「ううん。たいしたものじゃないと思うけど、心配事ある? あったらそれかも」
「……あるにはある」
「早めに摘んだから大丈夫だとは思うけど、しばらくは様子見かなあ」
顎に手を当てて考えこむジャスミンの頭を、グレンの大きな手が撫でる。栗色の髪は土色とも揶揄されるが、グレンを始めガリエ公爵家のひとびとは良いと言ってくれるので、あまり気にしてはいない。だって人間、どうせいつかは白髪になるのだ。
そんな白髪頭の祖父は、鉢を抱えたジャスミンに問いかけた。
「王女の具合はどうだった?」
「移植は成功したと言っていいと思う」
「そうか」
「ちゃんと根付いたのか茎もしっかりしてきたし、今はまだ蕾だけど膨らんできたよ。薬はおじいちゃんから出してね」
「わかっとる」
花壇の話でもしているかのようだが、その対象は王女だ。
十歳を迎える王女殿下は近頃少々元気がなく、塞ぎこんでいた。身体的には問題はなく精神面での不調と判断したマクニールは、王女の対処を孫であるジャスミンに委ねた。年が近い(といっても七歳差だが)女同士のほうが良いだろうというのは建前で、実際は治療をおこなうため。
ジャスミンのおこなう治療は、花を再生させることだ。虫がついていたら取り除くし、当人の花株以外のものがあれば雑草として取り除く。
これらは実生活における不安や心配事の現れであり、心が荒れている証拠なのである。
ようするに心理療法なのだが、ジャスミンのそれは物理的なもので、実際に手入れをしている。あまりにも深刻な場合は、株を一旦別の場所に移し替えてお世話をし、元気になってからもう一度本人へ戻すという手法を取ることもある。
この際に使用するのが鉢だ。鉢の用途は一時移植だけではなく、間引きしたものを引き取ることもある。捨てるには忍びないし、それらは育てると昇華されることがある。良いことに還元されたり、悪いことは消滅したり。種ができて育てたときは、おめでたいニュースとなって巡ってきた。
いつなんどき、なにがあるかわからない。
できれば悪い芽は見つけ次第摘んで、良い芽は育てたいという思いから、ジャスミンは鉢を持ち歩くようになったというわけだ。
子どもの時分は可愛らしいものだったが、十七歳の今では変人扱い。庭師でもないのに邸内で土の入った鉢を持っているのだから、そりゃあおかしいだろうとジャスミンも思う。
だけどグレンはそれでいいと言ってくれたし、代替わりして公爵になったカルスも許してくれた。
その言葉に甘えて現状維持をしている理由は、こんな変わり者を傍に置いていることで、グレンの傍から女性の影が遠のくのではないかという打算である。
あやしい平民娘を王女殿下に拝謁させて大丈夫なのかという気もするが、ガリエ公爵家の威光はここでも光っている。
現国王にとって、公爵は従弟だ。その男が信用しているのであれば――ということらしいが、だからといって限度があるだろう。
ガザニア王国は平和だなあとしみじみ思うジャスミンである。
*
現在、鉢は多様な植物に溢れている。第三者からみれば何もなくても、ジャスミンにとってはそうではない。
こんなときは裏庭だ。救護室からほど近い場所にある薬草園、その片隅にある一角は空地になっていて、そこはマクニールが作ってくれたジャスミンのための庭。王宮内のひとびとから摘んできた草花は、こうしてまとめて植えている。
水を撒かなくても育つのは不思議だった。植物を育てるときには声をかけるのがよいとはいうけれど、ジャスミンが声をかけたり、手で触れたりするだけで元気になる。理由はわからないけれど、嬉しいので考えないことにしていた。深く考えたら負けだと思うのだ。そもそも、この「相手の頭頂部に花が咲いて見える」という現象自体が珍事であるのだから、この事象に正解も不正解もないだろう。
さて、救護室に戻ろうと薬草園から出たところで、人影を見つけて生垣に隠れた。騎士隊に所属している男性とドレス姿の令嬢だ。距離があるため会話は聞こえないけれど、花の色を見るかぎり不穏だ。騎士の花は困惑の色合いで、令嬢のほうはなんというかピンク色。薔薇の花で、棘のついた蔓が相手を絡め取らんとばかりに伸びている。
(うわあ、捕食だ)
じつにわかりやすい捕食の場面だ。
とはいえ、ジャスミンが知っているかぎり、騎士のほうは故郷に恋人がいたはずだ。今季のシーズンで婚約するという話をグレンを介して聞いている。
相手のご令嬢はたしか伯爵家の三女だったかと思う。彼女も王太子妃候補の一角で、ちょうど年回りがいいことで、すでに嫁いでいる姉たちに居丈高になっている姿を目撃したことを思い出す。選考に漏れたことで焦っているのだろう。
割り込んでいく勇気はなく、ジャスミンは別の道を通って王宮へ戻ることに決めた。
こちらの道は貴族たちのために整備されているため、景観が整っている。季節に合わせた花が植えられていて、専用の庭師が剪定をおこなっているので見た目にも美しい。
ただそこを通るひとびとはどうかといえば、かなり毒々しい花を持つ者が多いと言わざるを得ない。育ちが良いことと心根の美しさは、必ずしも比例しないのだということを、ジャスミンは王都に来て学んだ。
使用人感丸出しの服装で歩くジャスミンを見て、ひそひそと囁く声が聞こえる。鉢を持っているだけで注目の的だ。王宮に勤めているひとたちはどちらかというと「可哀想な子だからそっとしておこう」という方針だが、普段は各々の領地で暮らしている貴族たちにとっては「なんだあれ」であり、加えて今シーズンにおける「王太子妃選考の敗者復活戦」にかけるひとたちにとっては、邪魔でしかない。狙い目であるガリエ公爵家の次男をゲットするためには、公爵家の威光を笠に着て隣に侍っている庶民女を完膚なきまでに叩き落す必要があるのだ。
しばらく進み、王宮の左翼側に向かおうとしたときだ。渡り廊下の向こうから、赤いドレスを着た令嬢が歩いてくるのが見えた。遠目に見ても派手な顔立ちで、化粧の効果でそれが倍になっている。舞台化粧のようなメイクは、ジャスミンの感覚からいえば「ケバイ」のだが、貴族令嬢はそういうものらしい。
彼女はたしかカノーヴァ侯爵家のロベリア嬢。王太子妃候補の上位者で、令嬢たちのお茶会でも取り巻きを引き連れて君臨していたのを見たことがある。
ド庶民であるジャスミンが敵う相手ではないので脇に避けて頭を下げたところ、カツンという硬いヒール音を響かせてロベリアが止まった。
「あなたよね、グレン様に付きまとっている卑しい育ちの女って」
(あー、うん、そういうことですか)
ロベリア嬢の次の狙いはグレンだという噂は聞いていた。口数が多くない彼は何も言わないけれど、騎士隊の面々があれこれ報告をくれるのだ。完全におもしろがっている。
騎士隊の鍛錬を見学に来てあげたと言って接待を要求したり、王宮へ戻る際にエスコートをさせたり、グレン宛に王都の名店から差し入れが届いたり。露骨すぎておもしろいと評判らしい。
身分で壁を作らない実力主義の騎士隊は平民も多く、口調もざっくばらんだ。同じく平民のジャスミンはグレンとの仲を応援されており、王宮における二人の噂の大半は、彼らがわざと流しているのではないかと疑っている。
とはいえ彼らに悪意はない。頭頂部の花はいつだって親愛の色に染まっており、重い過去を背負っているジャスミンの幸福を願っていることは伝わる。期待に応えられるかどうかはともかくとして、無下にはできないのだ。
「いい加減になさい、グレン様は迷惑しているわ」
「彼がそう言ったのですか?」
「まあふてぶてしい。恥ずかしげもなくあの方の隣になど立つから、見えていらっしゃらないのね、あの眼差しを。わたくしは見ていましてよ、あなたに向けた冷酷で鋭い目」
グレンは釣り目気味で、本人も気にしている点である。
深い菫色の瞳は重く見えがちで、そこもひそかに悩んでいるのだが、ジャスミンとしては落ち着いた色合いの瞳が素敵だと折に触れて伝えているところだ。
「あなたのことは伺いました。気の毒な身の上だとは思いますが、過去のことでいつまでもガリエ公爵家に頼るなんて、おこがましい。頼る伝手が欲しいのであれば、わたくしのお父様が紹介すると言っています。別荘地の庭師が弟子を欲しがっているそうだから、ちょうどいいじゃない」
「庭師の弟子ですか?」
「彼は独身よ。上のお兄さまと同じ年だと言っていたから、三十五歳でしたかしら。調べたところ、あなたはもうすぐ十八歳になるのでしょう? 親のいないあなたでも自由に結婚できるわ」
両親の承諾なしに婚姻が可能となるのが十八歳だ。ガザニアにおける成人である。
「あなたのような傷物を娶ってくれる相手がいるのだから、感謝なさい。わざとらしく晒して同情を買おうとなさっているのかもしれないけれど、貴族社会において女性の身体に傷があるなんて、忌避されるものよ。グレン様だって汚らわしいと思っているわ」
不愉快そうに眉を顰めるロベリア嬢は、ジャスミンの身体を検分するように眺める。
幼少時の事故で、たしかにジャスミンの身体には傷が残っている。服に隠れている部分が大半だが、ひとつだけ顔にもある。
右のこめかみにある縫い痕は、馬車の木材が刺さったときの傷だ。少しでもずれていたら血管を傷つけ、失血死していた可能性もあるということで、マクニールは自分のほうが死にそうな思いをしたらしい。祖父が丁寧に縫ってくれたとはいえ、傷は深く、数針も縫えば痕は残る。
ジャスミンは基本的には気にしていないが、こんなふうに侮蔑されると対処に困る。これに関しては、同情されたほうがマシだった。
なによりも怒るのだ、彼が。言われたジャスミンではなく、彼がものすごく怒るから困ってしまう。
「ロベリア・カノーヴァ嬢、なんとおっしゃいましたか」
「グレン様!」
いつにもまして冷ややかで硬質な声色でグレンが現れて、ジャスミンの背には冷や汗が流れた。その声色をものともせずロベリアは喜色に満ちた声をあげてグレンに歩み寄り、甘えるように腕を引く。強者だった。
「お待ちしておりましたの。明日の舞踏会でのエスコートの件ですわ。時間ギリギリというわけにはまいりませんし、会場へ向かうまえにお父様に会って挨拶を。わたくしとの婚約について、きちんと書面で約束をし――」
「ジャスミンに何を言ったのかと聞いているんだが」
「え、なにって、つまりこの娘がグレン様に付きまとっているから、礼儀としてきちんと教えを」
「付きまとっているのはそちらだろう。俺は何度も言ったはずだ、寄るな、と」
そう言って腕を振り、ロベリアの手を払いのけた。ついでに彼女曰くの「冷酷で鋭い目」を向けて、淡々と告げる。
「聞こえていないのか。俺はジャスミンに何を言ったのかと訊いたんだが」
「……だ、だって、女の身で傷を作って平然と」
「傷なら俺にだってある。王宮で働いている者たちもそうだろう。生きていれば、そういうこともある。生きているからこそ傷が残るんだ」
気にすることない。この傷は、ジャスミンが生きている証。生きて、ここにいる証だから、がんばって生きのこった証なんだから、誇っていいと思う。
幼いころ、まだ生々しく隆起していた傷を見て、鏡の前で何も言えなくなったジャスミンに、グレンがたどたどしく告げた言葉は今も憶えている。
彼自身、騎士職に就いていた祖父に言い聞かされたものだったらしいが、年下の女の子が、己が受けたこともない大きな傷を負っていることに衝撃を受け、ようやく祖父の言葉の意味を心から理解した出来事だったという。
だからジャスミンも、この傷は勲章だと思うことにしたのだ。生き残ったからこそ、グレンと会えた。
傷があるこめかみにくちづけられるのはくすぐったい気持ちになったけれど、それがいつしかもどかしくなり。唇の落ち着き先が移動したのは、グレンも同じ気持ちになったからだと思っている。
彼のくちから漏れる言葉は時として辛辣だが、その唇は以下略。
(こんなときに何を考えてるのわたし、痴女だ)
ロベリア嬢が青白い顔で硬直しているのに対し、グレンとのあれこれを脳裏に浮かび上がらせていたジャスミンの顔は赤い。
ちらりと視線を向けると、グレンの頭上の花は青白い。憤怒ではなく、静かな怒りだ。冷気が漂ってきそうで思わず腕をさすってしまう。
「ジャスミン、どうした」
ひとによっては、睨んでいると評するかもしれない眼差しは、ジャスミンから見れば心配に満ちたもの。寒々しかった花の色はやや黄色まじり。
だからジャスミンは安心させるように笑みを浮かべた。
「だいじょうぶだよ、グレン。来てくれてありがとう。今から戻るところだったの」
「そうか。マクニール医師に許可は貰ったから、町のほうに出よう」
「カルス様への用事は?」
「終わったから言っている」
父親に話をしておくことがあると言っていたことを思い出して問うと、眉を顰めて低い声が返ってくる。
これもまた怒っていると思われがちで、現にロベリアは完全に震えあがっているようだ。ところが彼の頭上の花はさわさわと落ち着きなく揺れており、早く話題を変えたいと焦っていることがわかる。ジャスミンは「動揺してる、わたしには知られたくない話題かな」と判断して、グレンの腕を取った。
「お腹すいたね。なに食べようか」
「なんでもいい」
「わたしの食べたいものばっかり優先させちゃうのはよくない癖だよグレン。今日はグレンが決めてよ」
「……わかった」
まるで続けて舌打ちでもしそうな声色ながら、頭の花が薄紅色に染まって揺れたので、ジャスミンの心も温かくなった。まったくグレンは、照れを隠そうとするほど声が低くなるのだから困ったものだ。
*
「あなた、まだわきまえていないの!?」
「えーと、なにを?」
昨日、グレンにこれ以上ないぐらい冷たくあしらわれたはずのロベリア嬢が再び現れて、ジャスミンは唖然とする。高位貴族令嬢はめげないらしい。つよい。
本日は夕刻から舞踏会が開かれる。王太子が公に婚約者を連れて出席するはじめての催しだ。臥せっていた王女が少しだけ顔を出すらしく、多くの貴族が出席するだろうと目されている。さながら婚約者探しの勝負どころといったところか。
目の前のロベリアも、まだ昼前だというのに華美な装いで非常にキラキラしい。頭の花は赤く染まっており、かなりお怒りのようだった。できればかかわりたくないなあと思うのだが、行き先を遮るように立ちはだかっているので、無視もできない。
「言っておくけれど、グレン様はわたくしをエスコートしてくださることが決まっておりますの。邪魔はなさらないでくださいな。あら、そういえばあなたはそもそも貴族ではないのですから、舞踏会に出るわけないわね」
言うだけ言って、クスクスと笑っている。時折ちらりとくれる一瞥は過分に蔑みを含んでおり、なんとまあ分かりやすい嫌味だなあと逆に感心してしまう。天晴だ。
「王太子殿下の婚約者探しが公布されるまえ、わたくしの婚約者はグレン様でしたのよ。国内が荒れていたこともあり、お話は進まなかったようですが。ようやくかと思っていた矢先に、王太子殿下のことがありました。侯爵家として立場というものがございますので、わたくしとグレン様のご婚約も諦めざるを得なかったのですわ」
ふうとため息をつき扇で口元を隠したので、どんな動きをしているのかはわからないが、目はとても得意げだったので、さぞ満足げな笑みを浮かべているのだろうと推測できた。
ふむとジャスミンも息をつく。カノーヴァ侯爵家との縁談については聞いたことがある。
ロベリアが言った「国内の荒れ」とは犯罪組織が跋扈していたことで、ジャスミンが怪我を負うことになった事件をさしている。一般の民を巻き込み、親子が被害にあった。幼い子どもだけが残され、大きな怪我を負った痛ましい事件は王宮でも話題となり、騎士隊を率いていたカルスも責任が問われた。王家筋の公爵家といえど非難は免れなかったらしい。
つまりカノーヴァ侯爵家は、世の不興を買ったガリエ公爵家と縁を持つことを止めたのだ。そして、王太子妃という、より大きなものに手を出した。
それが叶わなかったからといって、以前に一方的に解消した約束にすがってくるとは。高位貴族は本当にめげない。つよい。
年まわりがちょうどよいから、という程度の理由で決まった縁談だ。王宮の行事で顔を見たことがある程度の相手と婚約、といったところで、十歳にも満たない当時はまるで実感がなかったようで、グレンはロベリアのことなど眼中にない。
ジャスミンが回想する傍らで、ロベリアはいかに自分がグレンに相応しいかを語っている。彼との思い出とやらを語っているが、グレンからは聞いたことがない。というか、彼女が言っている「別荘地で一緒に過ごした」というのはどう考えても嘘だった。だって該当時期にはジャスミンは公爵家のお世話になっており、別荘にも同行している。なんなら一日中一緒に遊んでいる。ロベリアが入る隙間は存在しないのだ。彼女は幻でも見ているのだろうか。段々と憐れになってきたジャスミンである。
いいかげん聞くのも疲れてきたころ、反応の薄さにロベリアのほうも飽きたのか、弁を納めた。「庭師の件はいつでも引き受けるわ」と勝ち誇ったような言葉を残してようやく去ってくれたので、ジャスミンは食堂へ向かうことにした。今日の日替わりがまだ残っていることを祈って。
*
哀しくも日替わりランチ競争に敗れたジャスミンが、はじめてロベリアに怒りを覚えていたところ、侍女長の女性が救護室にやってきて、ジャスミンを叱責した。
「なにをのんびりしているの、早く来なさい」
「王女さまのところですか?」
鉢を持とうとしたところ止められ、今日は何も持たずに付いてきなさいと怖い顔で言われてしまったので、唯々諾々と従った。侍女長はおかん気質で怖いのだ。子どもらしい我儘を言って周囲を困らせる王女ですら、彼女の前では縮こまる。じつに最強の女なのである。
しかしながら落ち着かない。おかしいと思いつつ鉢を持ち続けてきたが、いざ無くなってしまうと妙に手持無沙汰というか、有体に言えば不安になった。
(わたし、じつはすごく病んでいたのでは?)
心理療法のひとつに、箱庭療法というものがあると書物で読んだ。己の心象が現れるというアレとは少々異なりそうだが、周囲のひとたちから少しずつ花を――こころを分けてもらい、それを己の器に移していく作業は、ジャスミンにとっての箱庭だったのかもしれない。
だってジャスミンの頭上には何も生えていないから。
生まれたばかりの赤ちゃん、騎士隊が捕らえた犯罪者、どんなひとの頭にも見える草花は、どれだけ鏡を覗いてみても、ジャスミンには存在しなかった。からっぽだった。雑草ひとつ存在しない。
他人の花を世話することで、足りない自分のこころを埋めていたのかもしれない。
連行された部屋は豪華な一室で、今度はガリエ公爵家の侍女長が待ち構えていた。公爵夫人の姿を探すジャスミンの身体から服を容赦なく剥ぎ取ると、手渡した夜会用のドレスに袖を通すよう厳命された。
なんだろう、これは。奥様のお供として参加するのだろうか。
いつか一緒に参加したいわあと言っていたから、可能性はゼロではない。あつらえたようにピッタリのドレスから考えても、前々から計画されていたことが推測された。
着付けられ、メイクを施され。侍女長の頭頂部では好奇の色に染まった花が跳ねている。じつに楽しそうだった。王宮の侍女長は気風のいいおかんだが、こちらは世話好きのおかんだ。
「よくお似合いですよ。坊ちゃまもなかなかのセンスでございますねえ」
「グレン?」
このドレスをセレクトしたのがグレンだというのだろうか。
首元まで覆うタイプで露出は少なく、ジャスミンの身体に残っている傷が隠れるようにデザインされている。仕上げとばかりにつけられたイヤリングを彩る宝石はアメジストで、それはグレンの頭でいつも揺れている花を彷彿とさせて顔が赤くなる。
タイミングよくノックの音が響き、侍女長が扉へ向かう。二言三言、小さく会話をしたのち、入室してきたのはグレンだった。見慣れた隊服とは違うそれはいかにも貴族然としたもので、ジャスミンは思わず見惚れてしまう。
対するグレンはといえば唇を引き結び、睨みつけるような眼差しを向けてくる。
頭上の花は点滅するように色を変えており、いつになく緊張しているようだった。この色変遷は見たことがある。あのときは、その、つまり、はじめてキスをしたときだ。
いつのまにか侍女長は姿を消しており、部屋にはふたりだけとなっていた。ジャスミンにも緊張が走る。くちの中が渇いて声もままならない。
「ジャスミン」
「なにかな!」
「なぜ怒鳴る」
「ごめん、わたし緊張してるみたい」
「そうか。俺もだ」
「みたいだね」
顔を見合わせて、ようやく笑みが漏れる。肩のちからも抜けて、誘導されるままにソファーに腰かけた。準備されていた紅茶はすっかり冷めてしまっていたけれど、ふたりしてごくりと飲み干した。乾いた喉にはちょうどよかった。
「これ、グレンが用意したの?」
ドレスを摘まんで問いかけると、頷きが返る。
「誕生日だろう? 十八歳おめでとう。この日のためにみんなで準備していた」
「あ、忘れてた」
「……おまえ、俺がどれだけ」
「ごめんごめん。でもどうしたの? いつもはこんなかしこまったプレゼントなんてしないのに」
「十八だからな」
ドレス以外にも、邸にはプレゼントが用意されているらしい。
貴族令嬢は早ければ十五歳ほどでデビューするが、ジャスミンはそうではない。市井でも十八歳の誕生日は特別な扱いをするのが習わしで、両親を亡くしているジャスミンに、ガリエ公爵家の面々が考えてくれたようだ。
「それからこれは、国王から」
「は? ちょっと規模が大きすぎて理解できない」
「王女を救った礼だと言っていたぞ」
「いやいや、そんな親戚のおじさんが言ってたよ的なノリで言われても」
「親戚だ」
「そうでしたね」
忘れていたが、グレンは王族の血を引いているのだ。
冷酷だの残忍だの悪魔だのムッツリスケベだの、騎士隊では愛のあるいじりをされているので忘れていた。ジャスミンの好きなひとは、とんでもなく身分の高いひとだった。
白い封書を開くと、戸籍の写しが入っていた。ジャスミンの名があり、父母として記されているのは、ガザニア王国の三公爵のひとつ。国王の妹が嫁いでいる、歴史あるグレーメル公爵家。
疑問符が飛び交うなか、グレンが淡々と告げる。
ジャスミンの立ち位置を確定させるにあたり、後見人を探した。ガリエ公爵家を除き、しがらみがなくすんなり事が運びそうな家を選択した結果が、そこだったという。
「奥様はよく、ジャスミンはうちの娘になればいいって言ってくれていたけど」
「それは駄目だ。ジャスミン・ガリエにするのは俺の役割だ」
不機嫌そうにくちを尖らせるグレンの頭上の花は左右に激しく揺れている。焦り方が半端ない。
思わず笑ってしまうジャスミンに、グレンはますますくちを尖らせた。
「恰好がつかない。十八歳になった暁には華麗に決めるつもりで父上には事前に話したし、マクニール医師にもジャスミンを貰い受ける許可はいただいた」
知らないうちに外堀が埋まっている。
「ジャスミン、今日の舞踏会は俺の婚約者、ジャスミン・グレーメルとして出席してくれ。グレーメル夫妻にはあとで紹介するから」
「ねえ、それ順番違うくない?」
「一度に済ませたほうが効率がいいだろう」
真顔で言ってのけるので、ジャスミンは脱力する。
「グレン、情緒がないよ」
「……そうか、それは悪かったな」
いつもどおりの不機嫌そうな声。だけど花は重たげに頭を垂れており、花びらを落としそうな萎れ具合。
何を考えているかわからないと言われるグレン・ガリエは、こんなにも雄弁で分かりやすくて可愛いひとだということを知っているのはジャスミンだけで、そのことが嬉しい。
もしかすると、いつかこの花は見えなくなるのかもしれない。
けれど、そうなったとしてもきっと、グレンのこころを見誤ったりはしないだろうと思えた。
「グレン、大好きよ」
「知ってる。俺も好きだから」
「うん、知ってるよ」
幾度となく確かめた言葉でも、今日はいつも以上に嬉しく感じる。現金なものだなあと思いながら、ジャスミンはこめかみにキスを受け、続いて唇で受け止める。
土色とも称される娘の頭頂部に、小さな緑の芽がひょっこりと顔を出していることに気づいているのは、若き恋人たちを見守る鏡だけだった。今はまだ。
【蛇足】
ジャスミンが心を病んでるっぽくも見えるんですが、この国にはかつて、そういう不思議能力を持つ人が現れていました。
世が世なら魔女と呼ばれるような存在で、医師と同格の立場で尊敬されていたそうです。
今もうすっかり廃れて、絶滅したと思われていたので、ジャスミンは貴重な存在です。
この異能力者の伝説は王家に代々伝わっていて、その血統である三つの公爵家も認識しています。
事故をキッカケに「花が見える」ようになった子どものことを王家に報告して、大人たちで色々画策してました。
なお貴重すぎて秘匿しているので、本人には明かさずにきました。
善悪が定まっていない子どもに明かして、無自覚に悪用するのを防ぐためです。
祖父であるマクニールは知らされて見守っていて、成人(十八歳)した暁に、本人にきちんと伝えようということになってました。
ということでジャスミンは、平民だけどすんなり受け入れられて、こうなっているわけです。
めでたしめでたし。
【追記】
誤字報告、ありがとうございます。ミスタイプ、見落とし多くてすみません。
数名からご指摘いただいております、ジャスミンの「それ順番違うくない?」ですが、
仕様です。
わざとです。
こういう言いまわしをする、とぼけたかんじの女の子、ということで、お見逃しいただければと思います。
(これ絶対に突っ込まれるよなーと思っていたら、やっぱり複数ご指摘があったので、一応)