いいからラーメンくらい普通に食わせてくれよ!
俺様イケメンと優しいイケメンの話がどうしても思い付かず、またエッセイが爆誕してしまいました(恋愛が絡む話は書いているのですが、「優しいイケメン」というより「無気力系イケメン」になってしまって……)。もしかしたらエッセイストに転向した方がいいのかもしれません。
後あらすじにもありますが、決して美味しそうな話ではないので、その辺ご了承ください。やっぱり何だか愚痴っぽいです。
一時期ラーメン売場で、「背徳のなんちゃら」だの「禁断のなんちゃら」だのをよく見た。パッケージに用いられている写真や他の文字などの情報から推察するに、脂を沢山用いたコッテリした物や、ニンニクを沢山用いた臭いの強い物を指すようだが、正直勘弁して欲しかった。別に私はそういった物が嫌いな訳ではない、むしろ好きである。好きだからこそ、おかしなブランディングをされている事に納得がいかないのである。きっと家で麺をすすっている頃には、その美味しさに酔いしれ、そんな小さな憤りなんてとうに吹き飛んでいる事は分かっている。だが、商品を手に取る瞬間、心に小さなトゲのような引っ掛かりを感じるたびに思ってしまうのだ。「どうしてラーメンを食べるのに、こんな思いをせにゃならんのだ」と……
そもそも何故、ラーメン売場に「背徳」「禁断」といった、食品売場より成人向けの漫画やビデオ売場の方によくあるような言葉を見かけるようになったか、という答えは読者の皆様もご存じであろう。「悪魔の〇〇」ブームである。とあるテレビ番組で、ついつい食べ過ぎてしまうくらい美味しい、という「悪魔のおにぎり」なるレシピが紹介されて以降、某コンビニチェーンにより次々と「悪魔」の名を感じた食品が発売された。これにより美味しい物――特に、食べた後で「こんなに食べたら太っちゃう」「不健康になっちゃう」とちょっとだけ後悔するような、高カロリーの物や味の濃い物は、悪の名を冠せられる事になった。ラーメンなどはその代表格であろう。かくして某コンビニの悪魔の成功により、ラーメン売場はたちまちインモラルな言葉が躍る場所になってしまったのである。(もちろんそうでない商品も多数あったが、コッテリ系が好きな私は、ついついその種の商品に目を奪われてしまうのだ)
私にとってこれは、あまり面白くない事であった。まず一つは、私は文章を書く事もあって、言葉の使い方に対して変に神経質な所があるからだ。「背徳」「禁断」といった言葉を見て、メーカーが一生懸命開発、製造、販売をした商品を正規の流通ルートで購入し、普通に食べる事の何を咎められなければいけないのか、と思ってしまうのである。何か法や倫理に反するような――豚を苛め抜いて搾り取った背脂だとか、他所の畑から盗んだニンニクでも入っているのかなどと、ついつい考えがおかしな方向に飛躍する。そしてもう一つは、「背徳」「禁断」は強力なブーストであるが、所詮一時の勢いを増すものに過ぎないからである。「背徳」「禁断」の言葉を冠せられやすい不倫の恋など、典型的であろう。不倫の恋は、それを支えている家庭がグラついてしまえば、一緒に危うくなる程度のものに過ぎない。しかし、ラーメンはそうではない。醤油だろうが塩だろうが味噌だろうが、アッサリだろうがコッテリだろうが旨い物は旨いのだ。特定の味付けにだけ「背徳」「禁断」のブーストを掛けてしまうのは、むしろ冒涜であるとすら私は思う。不倫の恋のように、ブーストを取り払ってしまえば、酷く軽薄で薄っぺらい物であるかのように見えてしまうからだ。私の懸念は当たっていたのか、程無くしてラーメン売場からはインモラルな言葉が消えて行った。「背徳」「禁断」の言葉が、もしかしたら定番の一つになっていたかもしれない味付けを、一過性のブームに貶めてしまったのかもしれない……と言うのは、流石に言い過ぎか(そもそも好き嫌いが真っ二つに分かれるような味付けだったし)。
だからこうやってつらつらと書いている事は、現在進行形で私の中にたぎっている物ではなく、思い出し怒りのような物なのだ。では何でまたそんな不愉快な事をわざわざ思い出しているのかと言うと、「どうしてラーメンを食べるのに、こんな思いをせにゃならんのだ」と再び思わせるような事が再び起きたからである。随分長い前置きになってしまったが、ここから先はその出来事について語ろうと思う。
そもそも私は「背徳」「禁断」ブームが起こる以前から、ラーメンなる物の扱いに何となく違和感を覚えていたが、とあるネット記事を見て、その違和感が明確に形になったのだ。その記事の一節に有るのが、「映えスイーツではなく、汚いラーメンを食え」という言葉だった。私はこの言葉に、わずかながら反感のようなものを覚えた。私の愛するラーメンを「汚い」と形容した事はともかく、前後の文脈などから見て、「映えスイーツ」と「汚いラーメン」がヴィランとヒーローのごとく対立する概念であり、「映えスイーツ」がヴィランサイドであるかのように扱われていた……からである。
そもそも、映えスイーツと汚いラーメンは対立していない。好む層は対極で、互いに口汚い言葉の応酬をする事はあるかもしれないが、映えスイーツと汚いラーメン自体はどちらも食べ物の一ジャンルに過ぎないためだ。映えスイーツを好む人が汚いラーメンを食べたからと言って灰になって消えたりする訳ではないし(食べ慣れていなくて、少々気分が悪くなるくらいの事はあるかもしれないが)、逆もまたそうであるし、何なら両方好きだ、と言う人もいる。ちなみに自分こと米沢がその一人だ。また、「映え」が示す範囲はかなり広く、整然と盛られた大量の肉が「映えグルメ」として紹介される事もある。だから「映えラーメン」なんて物も当然、それなりの数が存在すると考えられる。
またその記事には、「丁寧な暮らしなんて止めろ、家事なんて適当にすればいい」という趣旨の事も書いてあったが、別に丁寧な暮らしが好きだからと言って、毎日の生活全般を丁寧にする必要はどこにも無い。散らかった部屋の片隅に花を生けてもいいし、洗濯物がロクに畳まれていないのに半日かけてスパイスからカレーを作ってもいいし、1個68円のカップ麺を食べた後オーガニックなスイーツを食べたっていいのだ。何も完璧に部屋を片付けないと花が活けられないという事もあるまい。コップを置くくらいのスペースがあれば、一輪くらいは十分活けられるだろう。素敵な一輪挿しを買ってもいいし、家にある中で一番マシなコップでもいい。たとえ少々床がゴチャゴチャしていたとしても、それは花を活けるのに何の関係もない事だ。
話をラーメンに戻そう。要はラーメンもスイーツも好きな自分が、「汚いラーメン」vs「映えスイーツ」という対立構造があちこちで発生するので嘆いている、という話だ。そもそもなぜ両者は対立するのだろう。
その大きな原因は、現実の人間をフィクションのキャラクターのように捉えてしまう事だろう。フィクションのキャラクターは、物語上で何らかの転換を迎えない限り、キャラはブレないものだ。そして「ツンデレキャラ」「元気キャラ」「クールキャラ」といった何かしらの類型が存在する。そうする事で読者はキャラをスムーズに理解し物語に集中出来るのだが、この情報社会とも言われる現代において、フィクションの類型を現実に当てはめる事で、煩雑な現実を手っ取り早く理解しようとしてしまう人が見受けられるように思う。
つまり、その人が「汚いラーメンが好き」という情報だけで、「汚いラーメンを好みそうなキャラ」(見た目より中身重視→見た目重視の物を嫌う、健康とかあまり気にしない、男性的などなど……あくまでも勝手なイメージではあるが)という類型に当てはめてしまうのだ。しかしその方法は、現実の人間を理解するにはあまり良くない方法である。後にその類型にそぐわない情報を新たに得た時、「キャラがブレた」と不快感を持つ事になってしまうからだ。役者などのセルフイメージを演出する必要がある人以外でも、不快感を持たれる事を避けるために、本来の自分の趣味嗜好を曲げて、類型の方に近付こうとする人も決して少なくはないだろう。
こうして、「汚いラーメンが好き」=「汚いラーメンを好みそうなキャラ」というただの決め付けはますます強化されてしまう。この事によりどういった弊害が起こるかと言うと、この種の決め付けに支配されてしまった人々は、「汚いラーメンも映えスイーツも好き」と言う人を想定する事すら出来ない。そして、「汚いラーメン族」なる人々と「映えスイーツ族」なる別種の人々がそれぞれ存在していると思い込んでしまうのだ。このように集団が二つに分かれてしまうと、その間に様々な関係が発生する。それは憧れや好意といった正のものであるかもしれないし、嫌悪や侮蔑といった負のものであるかもしれない。いずれにせよ、同じ連帯を共有する人々の間にはほとんど起こり得ない摩擦や対立が、色々と発生してしまうのだ。
このような状況下において、私にとって厄介な事態が起きてしまう。汚いラーメンが汚いラーメン族の旗印の如く扱われてしまう事だ。たとえば汚いラーメン族の優位性を示すため映えスイーツ族を攻撃する際に、「映えスイーツは虚飾と虚栄にまみれているが、汚いラーメンには本物の食の良さが有る」といった主張をする、という感じである。私が違和感を覚えた記事も、丁寧な暮らしなどの映えスイーツ族的な人々が好みそうなものを馬鹿げた欺瞞の塊であるかのように扱い、「そんなものをやめて自由な『汚いラーメン族』になりなさい」といった趣旨の主張をしていた。確かに、ファッションやライフスタイルといった本来自由であるべきものに、トレンドや流行といった「正解」を押し付けるのはおかしいし、何の疑問も持たずにそれに追随する人々もおかしい、という主張は間違ってはいない。しかし、映えスイーツ好きな人が全て映えスイーツ族的であるとは限らないし、映えスイーツ族の「正解」を貶めれば、「押し付けられた正解に追随する」というスタンスから脱却できる訳でもない。それはそれで、別の部族の正解に追随しているだけかもしれないのだ。
つまり何が言いたいかと言うと、そういった異なる種類の人々を攻撃したり、自らが属する集団の連帯感を高めたりするために、ラーメンを利用するなという事である。くどいようだが、汚いラーメンも映えスイーツも、食べ物の一ジャンルに過ぎない。別にそれ自体が、何らかの集団や、思想及び信条を代表する類のような物ではないのだ(だとしたら、ここで散々挙げているような「汚いラーメン族」、「映えスイーツ族」という名称は適切でないのでは、となってしまうのだが……そこは適切な表現を見出せなかった自分の未熟さである)。
私は、「ラーメンを食べる」という行為に「ラーメンを食べる」以外の意味を持たせたくない。「背徳」「禁断」といったラーメンを食べようとする人を罵倒するような枕詞もいらないし、「映えスイーツなんかよりずっと素晴らしい」といった見当違いの称揚もいらない。私が好きなラーメンか、ちょっと合わなかったラーメンがそこにあるだけだと思いたい。そもそもラーメンは麺の太さやちぢれ具合、ダシやかえしの味付け、具に何を入れるか、とても多様な選択肢がある自由な料理である。だから、「映えや女子ウケを求めるのは邪道だ」とか「やっぱり女子供が嫌がるようなギトギトに濃いのでなくちゃ」とかいうおかしなイデオロギーを背負わせずに、自由に楽しませてもらいたい。いや別に、食べている間にこんな事を考えている訳ではないし、ラーメンを食べている時は当然ラーメンの事しか考えていない訳ではあるのだが……
などと言っていたら、ラーメンが食べたくなってきた。ここまで付き合ってくれた皆様には本当に感謝したいが、そろそろ皆様もこう思っている事だろう。
「いいからラーメンくらい普通に食わせてくれよ!」と。
ちなみに自分の現在のマイブームは、鶏白湯系である。
書いたらわりとスッキリしました。同じ事を考えている人は案外いるんじゃないかと思いますので(後鶏白湯系好きの同志も)、こうしてただの愚痴に過ぎないものをあえて表に出してみました。全ての人が、自由にラーメンを楽しめる世界を!