終焉に消えた幸福
「綺麗だな…」
思わずといったようにぽつりと零された、言葉。心で感じたことをそのままに、純粋に、素直に、誰に同意を求めるでもなく呟かれた。私はそれを耳で拾いながらも、何も返さない。顔も向けない。隣に立つ言葉の主と同じ方向に視線を固定する。目の前に広がる光景を見ながら、そうだねと胸の中で答える。
この景色を見て、「綺麗だ」なんて言えるのは、この世界で私たちだけだろう。
この、真っ赤に染まった空を見て。
夕焼け色よりも更に赤い、鮮血のような綺麗すぎる真紅で染まった空。青かった嘗ての空は、もうどこにもない。綿飴のような白い雲も、自由に飛び回っていた鳥も、何一つとして存在しない赤い空。
世界の終焉を彩る、美しい紅。人に、動物に、植物に、この世界に息づく全ての生命に、終わりを告げる色。まるで、世界が血を流しているような。
───ああ、なんて綺麗なのだろう。
世界が終わるというのに、そう思ってしまった。
始まりはいつだったのだろうか。世界が終焉へと向かうカウントダウンが始まったのは、いつだったのだろう。
北極の氷が全て溶けてしまった時だろうか。資源が掘り尽くされ、枯渇してしまった時だろうか。地殻変動が起きて、噴火や地震が頻発するようになった時だろうか。気候が狂い、異常気象が続くようになった時だろうか。未知のウイルスが世界中に蔓延し、治療法を探し出すことすらできずに多くの人々が死んでいった時だろうか。
それとも、もっと前の段階から、始まっていたのだろうか。
いつの時代も、始まりは後になって判明する。あの時から始まっていたのではなかろうか、と過去を、記憶を振り返ってはじめて、結果の原因となる「始まり」を認識する。「始まり」は、始まったその時は気づかない。気づくことはできないのだ。
だって、それが未来で起こることに対して影響を及ぼすとは、考えもしないのだから。
ほんの些細なことが、言葉が、変化が、後に何かの原因となるだなんて、誰が想像するのだろう。わかっていれば防げたかもしれないのにと、後悔してももう遅い。未来を知るだなんて誰にもできはしないのだから。後になって悔いるから、「後悔」というのだ。
目の前の景色も、「後悔」から生み出されたものだ。何もかもが、手遅れなのだ。始まりがいつだったかなんて関係ない。これが、結果だ。これが、今まで選んできたものによって作られた全てなのだ。
世界が終わりに向かって進んでいくという事実が、この世界の終着点。
「世界が終わる」
最初にそう言ったのは、どこかの国の研究者だった気がする。もう何年も前のことだし、うろ覚えにしか記憶していないけど、生中継で熱く語っていたと思う。何を言っているのだろうと、その当時の私は、錯乱したように拳を振り回して叫ぶその研究者を画面越しに眺めていた。両親もあまり反応していなかった。週刊誌やネットの書き込みに「頭がイカレタ」「デタラメだ」「何を根拠に言っているのか」などと研究者に対する批判の嵐が吹き荒れた。そりゃそうだと思った。今隣にいる人物も、そりゃあ叩かれるわな、と苦笑していた。
批判が殺到した発表から数年後、その研究者は自殺した。死ぬ前日まで、自分の研究は間違っていないと親しい人たちに言って回って。最期に、この先どんなことが起ころうとも信じなかったお前たちが悪いと、言い残して。
誰も信じなかった、その研究者の言葉が本当であると知った時、世界は混乱した。それはもう、各国の政治機能がストップしてしまうほどに。
もちろん対策を考えた優秀な国もある。だけど無駄だと判った途端、要人たちは我先にと保身に走った。できるだけ多くの食料を抱え込み、海へ、山へ、地下へ、脇目も振らずに逃げた。そのみっともない姿に憤怒したのは、国民だ。国を纏める者たちが自分たちを捨てて逃げたのだ。許せるはずもない。
世界中で暴動が起こった。たくさんの人が怪我をして、たくさんの人が死んだ。私も自分だけ先に逃げた偉い人たちが憎かった。助かりたいからって、生きたいからって、自分だけ安全なところに逃げるだなんて卑怯だと。
でも、終焉を待つ世界に、安全な場所なんてどこにもなかった。
海へ逃げた人は、嵐による波に呑まれて死んだ。山へ逃げた人は、大雨による土砂に巻き込まれて死んだ。地下へ逃げた人は、地震で生き埋めにされて死んだ。
我先にと逃げた人たちが、我先にと世界から消えていった。世界が混沌に満ちていくのを実感した。世界は終わるのだと、理解させられた。
「なあ、美織」
不意に名前を呼ばれて、紅の空から隣に目を移す。でも目は合わない。目線は前に向けたままのその横顔を見つめる。返事はしなかったけど、それでも私が聞いていることを感じ取る。空の光を受けて薄く赤付く顔に、目を細める。形の良い唇から発せられる言葉を、静かに待つ。
「小さい頃に行った海のこと、憶えているか?」
うん、もちろん。キラキラと太陽の光を反射して光る海が綺麗で、気分が高揚した。両手を広げても足りないくらいの広さで、向こうの端が見えないくらいの大きさで、寄せては引いていく波が面白くて。熱い砂浜を気にも留めずに夢中で海まで走った。君とどっちが先に辿り着けるか勝負して、同時に頭から海に突っ込んだね。鮮明に憶えているよ。触れた水は冷たくて、足の下の砂が波に攫われていく感触が可笑しくて、さらさらとした砂に半ば埋もれるように隠れている様々な形をした貝殻を見つけて、凄く楽しかった思い出を忘れるはずがない。海に入ったはいいものの、カナヅチで全く泳げなかった上に波に被されて咽る私を、指さしをしながらゲラゲラと大笑いした君のことも、絶対に忘れない。忘れてやらない。許してないんだからね。
君との思い出の場所が、巨大津波に襲われて海岸沿いの街ごと抉り取られて、今はもう、跡形もなくなっていたとしても。ずっと忘れない。
「山に、キャンプに行ったな」
うん、行ったね。どこを見ても必ず緑が視界に入る、自然豊かなキャンプ場に着いて一番にしたことは澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込むこと。空気が美味しいってこういうことを言うんだって感動した。見たこともない植物がたくさんあって、見たこともない花が咲いていて、新しい発見が次から次へとやって来ることに凄くわくわくした。大自然の中でするBBQは一味違っていて、齧り付いた安い肉が滅多に買わない高い肉だと錯覚しそうになるほど美味しかった。私が虫嫌いなことを知っておきながら、両手に虫を持って追いかけ回してきた君に、報復として肉を横取りしたこともいい思い出だ。夜になって見上げた空に、数えきれないくらいたくさんの星が散りばめられているのを見て、思わず感嘆の声を出した。あまりにも綺麗すぎて言葉を失った。君は星や星座の名前を、一つ一つ指しながら丁寧に教えてくれたね。語る君の姿が、空で光る星々よりも輝いて見えた。全部は覚えられなかったけど、君が一番好きな星と星座の名前は頭の中で繰り返し反芻して、頑張って覚えたんだよ。言わないけど。とても綺麗な思い出だよ。
連日の異常なほどの大雨で土砂崩れが起きて、キャンプ場が丸ごと土と泥と岩と倒木に埋まってなくなってしまったとしても。ずっと忘れない。
「高校の体育祭、盛り上がったよなぁ」
うん、凄かった。運動が苦手な私は、なるべくクラスの皆に迷惑をかけないように玉入れと長縄跳びとかで頑張ったっけ。運動が得意だった君は、花形と呼べる競技に引っ張りだこだったね。徒競走ではぶっちぎりの一等を取っちゃうし、応援合戦では団長になっちゃうし。リレーでは、前にいる走者をどんどん抜いて優勝しちゃうし。その運動神経を私に分けてくれと何度心の中で叫んだことか。だけど、そんな君の姿をカッコいいと思ったことも、事実なんだ。スタートラインに並んだ時の緊張感を滲ませた表情も、走っている時の真剣な姿勢も、一等を勝ち取った時の弾けるような笑顔も。見ているこっちが嬉しくなっちゃうほど、全身で喜びを表す君が、凄く眩しかった。大声を張り上げて、キレのあるダンスをして、全力で応援するする君が、一番輝いて見えた。逆転不可能と思われるくらいに広がった距離を、まるで野生の獣のような速さでぐんぐん縮めていって、ゴール手前の数メートルのところで、奇跡の大逆転と実況担当の放送委員が歓喜の雄叫びを上げてしまうほどの劇的なレース展開に、今まで味わったことのないくらいの興奮を感じた。友だちにもみくちゃにされながらも私を見つけて、満面の笑みでVサインをしてきたことに、胸が跳ねた。お返しに「おめでとう」と叫んだのだけれど、君に届いたのかな。君の勇姿を目に焼き付けた、君が一番の主役だったと言える思い出だよ。
たとえ、あの日君を取り囲んで勝利に沸いて騒いだクラスの皆の殆どが、未知のウイルス感染に罹ってたった数日で死んでしまったとしても。私も、きっと皆も、ずっと忘れない。
「クリスマスは毎年豪華だった」
うん、びっくりするくらいの豪華さだった。私たちが生まれる前から交流のあった私の家族と君の家族は、毎年クリスマスを盛大に祝っていた。誰の誕生日でもない日なのに、料理とお金と手間暇をかけて、ケーキも手作りしちゃうくらい、一言でいえば浮かれていた。一日かけて部屋中を飾り付けしちゃって、大人も混じってプレゼント交換しちゃって、テーブルにところ狭しと並べられた料理をたらふく食べて、クリスマスソングなんて歌っちゃって。最後は笑顔で集合写真撮って。その日だけは燥いでいいよっていう日だった。お父さんたちはお酒で顔を真っ赤にして、お母さんたちは談笑して、君の弟たちは疲れて眠っちゃって。端から見たらカオスな状態だって言えるけど、幸せだなって感じる思い出だよ。
私たちの家族は仲が良くて、仲が良すぎて、世界が終わると知って絶望して、密室で一緒に練炭を囲って集団自殺をしてしまっても。私の家族のことも君の家族のことも、家族で過ごした時間のことも、ずっと忘れない。
「なあ、美織」
二回目。私を呼ぶ君の瞳が、微かに揺れていることに気づく。長いことずっと一緒にいた私には、その理由はすぐに判る。だけど私は何も言わない。君が話したいと思っているから。君が、君の言葉で私に言いたいと思っているから。少しだけ目元を緩めて、言葉を促す。
「これからも一緒にいてくれるか…?」
そんな不安そうにならないで。瞳を揺らし、声を震わせ、窺うように訊かないで。答えは決まっているから。ずっとずっと前から、一つしかないから。
「お前だけは、何があっても、一緒に、いてくれるか?」
ガラスのように光る双眸から、涙が一筋伝った。瞬きもせず、その瞳に私だけを閉じ込めて、自分が泣いていることすら気づかずに、静かに涙を落とす。きめ細かな肌の上を流れるその雫を見て、宝石のようだと場違いにも思う。綺麗で、尊くて、泣いてほしくないけどキラリと光る雫の宝石をずっと見ていたい。
「………父さんが死んだ。母さんも死んだ。弟たちも、友だちも皆死んだ。俺の周りにいた奴らが、どんどん死んでいくんだ。思い出を共有した人たちが、いなくなっていくんだ。叫んでも、縋っても、皆俺を置いて逝くんだ」
慟哭とは言えないけど、それに似た何かを含んだ言葉たちに耳を澄ます。紡がれる言葉たちは、君の心の叫び。
家族が絶望に染まり自殺するところを見て、友だちが自分の腕の中で息を引き取るところを見て、喪失感を覚え、心に傷を負った君の言葉。独り取り残される孤独感を味わった君の、心の底に眠る本音。逝かないでと泣いて、どうしてと叫んで、死なないでと縋って、幾つもの別れを経験して積み重なった哀しみ。
君は我慢強いから、いつもギリギリまで耐えて忍んで飲み込んで、吐き出す方法も相手もわからなくなって。感情が溢れる時は、君が狂気に呑まれる直前。それは防衛本能と言えるだろう。狂ってしまわないように、壊れてしまわないように。無意識に作動する、崩壊へと続く道を遮断するシャッター。
「世界が終わるって、信じられなくて、ずっと続いていくと、思っていた、日常が、壊れるなんて、思わなくて。さっきまで笑っていた奴が、次の瞬間に、血を吐いて倒れた。さっきまで話してた奴が、急に苦しんで、倒れた。何回も名前を呼んだ、何度も揺すった。声が枯れるまで、死ぬなって、叫んだ。でも、誰も、助からなくて。皆、冷たくなって、死んだ。今も、まだ、残っているんだ……どんどん、身体が冷えて、呼吸が弱くなって。最期は、瞳から、光が消えるんだ」
両の目から流れる涙と同じように、唇の間から零れる言葉。その言葉の一つ一つを聞き逃すまいと、全身で、割れ物を扱うようにそっと受け取る。君が経験したことも、君が感じたことも。君の思いを言葉に変えて、世界に放つ姿も。全てを受け止める。だから、話すことを止めないで。溜め込んだ君の全てを受け止めてみせるから。決して君から目を逸らさない。全部聞く。
「…………怖いんだ、独りになるのが」
ぽつりと呟かれた、心の声。君の本当の気持ち。明かすことのできなかった、君自身。
「独りになりたくない……独りは嫌だ。残されるのが嫌だ。置いていかれるのが嫌だ。俺も一緒に連れていってほしい。一緒に逝きたい」
君の願い。
「……もう、お前しかいない」
くしゃりと歪められた顔。ぎゅっと寄せられた眉。細かく震える身体。私より頭一つ分高い君が、その身体を小さくして怖がっている。親しい人に置いていかれることに、取り残されることに、手の届かないところに行ってしまうことに、恐怖している。
「なあ、お前だけは、俺を独りにしないでくれ。俺を置いて、どこかへ行ってしまわないでくれ。どこかへ行くなら、俺も連れていってくれ……」
懇願する君。だけど、それでも私は声をかけない。視線を送るだけ。
……私が欲しい言葉を、君が口にするまで。
「…美織、俺と、一緒にいてくれ」
世界が赤い光に包まれる。海が荒れ狂う。大地が揺れる。疾風が木々の間を走り抜ける。それはまるで、泣いているようだった。
世界が終焉を謳っている。荒波が陸地を襲う。地鳴りが地を裂く。鋭い風が自然を切り裂く。
世界が、終わろうとしている。
「蒼斗」
君の名前を、口に乗せる。
空も、海も、大地も赤く照らすその光に目をとられていた君が、緩慢な動きで私を向く。涙は既に止まり、涙の跡が赤くなっている。呆然とした表情の君を真っ直ぐ見つめて、私は柔らかく笑った。
「キスして」
私の突然の言葉に、君の瞳が見開かれる。何を言われたのか、ちょっとだけ思考放棄している証拠に、声にはならなかったが「は?」と口が動いたのを見た。言葉の意味を理解するまで、私は大人しく待っている。
「何…言って……?」
「だから、キスしてください」
パチリと一つ瞬きする君に、もう一度言う。今度は丁寧に頼む。「キス…」と一言呟き、その意味を完全に理解した君は、みるみる顔を真っ赤に染め上げた。世界を照らす真紅の光の中でもはっきりわかるくらい、湯気が出そうなくらい耳まで赤らめた君が新鮮で、ちょっと楽しい。パクパクと口を開いては閉じてを繰り返す君に、私は笑顔を送る。
「きっと、もうすぐ世界が終わる。全部が終わるんだ」
私の言葉に、さっと顔色を変える。若干青褪めた君に手を伸ばし、その大きな掌をぎゅっと握る。ピクリと反応する、私より一回り大きな男の子の手。
「私たちも、きっと終わる。世界と一緒に消えるんだ。カウントダウンは、すぐそこまで迫っているんじゃないかな」
世界の赤が、強くなる一方で。視界の殆どが赤くなって、廻りの景色が見えなくなる。だけど、不思議なことに君の姿は見えたまま。顔の輪郭も、パーツも、くるりと揺れる瞳も、全部が丸見え。なんでだろうね。
「このままこうしていれば、私は蒼斗の願いを叶えられるよ」
そう言ってにっこり笑えば、君ははっとする。息を飲む様子が感じられる。握った手が微かに震えているのが、わかる。
「………ねえ、蒼斗」
君が私を呼んだように、私も君を呼ぶ。目を逸らすことを忘れた君が、息をするのを忘れたようにして、私の言葉を待つ。耳を傾けてくれる姿が嬉しくて、思わず口端が上がる。今、君の視線を一身に受けて、君を独り占めにしている感覚が嬉しくて、頬が緩む。
ああ、もう、本当に。どうしようもない。
「好き」
するりと口を滑り落ちたたった二文字の言葉は、私の素直な気持ち。ずっと前から抱えていた、気づかぬ振りもできないほど膨れ上がった、私の大切な感情。
一度口にしたら、もう止まらない。
「美織……」
「だから、蒼斗」
戸惑いに揺れる瞳を放さない。君に伝えたい言葉があるから。君に届けたい言葉があるから。聴いてほしい、私の願い。
「私と、ずっと一緒にいてください。この世界が消える、その瞬間まで」
赤い世界の中で、君と見つめ合うこの時間が、永遠に続くように感じられた。このまま時が止まってしまえばいいのにと、願わずにはいられない。
だけど、時間は流れて行くものだから。止まることはなく、止めることもできず、過去から未来へと進んで行くものだから。この世界でも、「終焉」という未来に向かって、今なお、少しずつ崩れていっているのだ。
どれくらい視線を合わせていただろう。時間の感覚なんて正確に計ることはできないから、数秒だったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。永遠を願った時間は、一層激しくなった紅の光と、端々から迫ってくるような崩壊の音によって、終わりを告げた。
もう時間がない。だけど君は何も言ってくれない。
できることなら、世界が、この命が消える前に───。
「美織」
不意に君の手が持ち上げられ、触れて壊してしまわないようにというようにそっと頬に添えられる。触れられた部分からほんのりと温かさを感じ、ピクリと身体が身じろぐ。小さな頃から見慣れたはずの綺麗な顔が迫ってくるのを認識したのは、意識から外れたところだ。吸い込まれそうなほどの黒い瞳から目が離せない。形の良い唇が薄く開くのを視界の端に捉える。そこから、私の好きな声が発せられる。
「俺も…俺も、好きだよ。一緒にいよう、美織」
その時感じたものは、幸福だった。どんな言葉にも言い表せないくらいに、幸せがじわじわと胸に広がる。その感情が、目頭の裏にまでやってきて、目の縁からじわりと滲み出た。それを見た君は、今まで見たことのないほど優しい笑みを浮かべて、長い指で拭ってくれた。
嬉しすぎて言葉が出ない。喉が引き攣って、小さな嗚咽だけが零れた。
───夢のようだ。
「ほんと…?」
「ああ、嘘じゃない。大好きだよ」
嘘じゃない。夢じゃない。……これは現実だ。
「だから、美織」
君の瞳がそっと伏せられる。鼻先が触れてしまいそうなくらいの近さで、君の吐息を感じられるくらいの距離で、最後の言葉が落とされる。
「俺と一緒に、逝ってくれ」
私の返事は、君の中に消えた。
最期に感じた感覚は、終焉の闇に引き摺り込まんとする崩壊の音でも、視界に映る全ての景色を奪い去らんとする赤い光でもなく、最初で最後の、君の唇の感触だった。
それを堪能できたのは、ほんの僅か。唇と唇が触れ合ってから、三秒後。
海も、大地も、山も、川も、草木も、建物も、人も、動物も。この世界に残っていた、生命が息づいていた最後の証たちを呑み込んで。
やっと心を通わせ抱き締め合った、一つの想いを呑み込んで。
世界は、終焉に消えた。