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夏雨/華雨

作者: 秋月雅哉





夏雨




ちょっと待ってよ


いきなりのさよなら


納得できないよ


どうしても逝ってしまうのなら


僕も連れて逝ってほしかった


それができないなら


せめて


優しくしないで欲しかったよ


My sweet girl…




カメラを構える。


景色とシンクロする。


鼓動にあわせて心を開放する。


世界と心が重なったら、シャッターを切る。


切り取られた一枚は一瞬を永遠に変えるもの。


オレ、河野夏樹はカメラにはまっていた。


散る寸前の桜。


夏の雨。


秋の紅葉。


冬の雪。


暮らしている時は苦しいだけに思える生活も、アルバムをめくれば不思議と綺麗だったから。


――父さんと母さんが、離婚に至るまではとても「綺麗」な夫婦だったのと同じで。


子供の頃は、息子のオレから見ても仲の良い夫婦だった。


けれど些細なことをきっかけに喧嘩をするようになって――…母さんが帰ってこなくなった。


そして、離婚。


仲が良い間、オレたち家族はたくさんの写真をとった。


笑顔の写真ばかりを。


喧嘩が起きるにつれ写真は撮られなくなり、アルバムは忘れ去られた。


母さんに引き取られるオレに、父さんがくれたカメラ。


綺麗な思い出をたくさん切り取ってきた、古いカメラ。


ボタンの掛け違いは修正不可能な傷を生んだらしい。


あの、綺麗な頃に戻れたらいいのに。




緑の新緑から差す木漏れ日を見てシャッターを切る。


帰っても誰もいない部屋は暖かくなってきた今の季節に反するように冬の寒さを残していて。


それを振り切るように外に出て、「綺麗」を探す。


「…っと…遅刻する…っ!」


ケースにカメラをしまって校舎へ走る。


二年に進級してから、親しい人はできたようなできないような。


親の離婚騒ぎがあってからは腫れ物扱い気味だ。


クラスの自分の席につく。


ちょっとしたざわめき。


もういい。


いつものことだ。


昨日現像を頼んで朝受け取ってきた写真のチェックを始める。


オレなりの「綺麗」がそこにあった。


人物は何処にも写っていない。


人を撮る勇気はまだなかったし、移ろっていく景色をファインダーに収めるのが好きだったから。


風景の写真は「綺麗」から変わらないけれど、人間関係は「汚い」に変わるから、かもしれない。


「いい写真だね」


凛とした、けれどどこか儚い、それでいて元気な声。


…矛盾してるようで、この声を聞けばそう表現する以外ないと思わせる、声。


「…あんた、誰…?」


「何、健忘症?幼馴染でしょーが」


形のよい眉を僅かに寄せてその女が机に座る。


…なんだ?


なれなれしい奴だな。


第一…。


「幼馴染…?」


「そうよ。碧。幼稚園に上がる前からの付き合いじゃない」


そうだっけ…?


……………。


「あぁ」


「漸く思い出した?」


「あぁ」


二度目の「あぁ」は肯定の「あぁ」だ。


一度目は思い出した記憶をなぞるような「あぁ」


十年以上の付き合いの幼馴染を忘れるなんて、確かに健忘症もいいところだ。


「夏樹のお父さん、写真好きだったよね」


「…あぁ」


三度目の「あぁ」は昔を懐かしむ色。


「さっきからそればっかり」


碧がクスクスと笑う。


「ね、カメラマン目指してるの?」


「違う」


「へぇ」


そういや、進路のアンケート、机に突っ込んだままだ。


でも好きなだけじゃやっていけない。


それはよく分かってる。


だからカメラマンは目指さない――目指せない。


「桜もあっという間に終わっちゃったねぇ…」


何をいまさら。


あぁ、こいつは超がつくほど自分のペースで生きてる女だからいっても無駄か。


「あ、藤の花?」


近くの公園の藤棚で撮った写真を差して碧が笑う。


…本当に、屈託なく笑う女だ、と思った。


「今が見ごろだと思うぞ。…ガキ共も近くにいないし」


公園と言っても児童公園のように遊具はないし、植物園みたいな場所だから子供はあまり近づかない。


近くに遊具がたくさんある大型の児童公園があるならなおさらだ。


「走って植物を踏んだりするのは禁止。罰金あり」なんてガキには「息をしたら罰金」みたいなものだから親も連れて行かないだろうしな。


小難しい顔の管理人の爺さんがこれまたガキ共にとっては脅威なのだろう。


花を愛さない者はあの公園に入れないんじゃないかと時々思う。


「こっちは小川かぁ…」


水面を魚が跳ねて、光と水飛沫が綺麗だったのを覚えてる。


「夏樹は写真を撮るのが好きなの?」


それこそいまさら――いや、そうでもないか。


写真を撮るようになってからまだそれ程経ってない。


雪の溶けきらない、三月の半ばに両親の離婚が成立して。


苗字もアパートもそのまま、父さんだけがいなくなった。


写真を撮るようになったのはそれからだ。


今は五月の半ば。


バイト代が全て現像費に充てられる位枚数は撮っているが…。


「…好き、なんじゃないの」


酷くあいまいな答えが口からこぼれる。


分かってる。


本当にオレが好きなのは「幸せだった頃の家族」で「写真」はその記憶の要石だからだ。


これが家族で描く絵が要石だったらオレは絵を描き始めていたかもしれないし、音楽だったら音楽を始めていたかもしれない。


ただ、要石が写真だっただけ――…。


「夏樹が気付いてないだけで、夏樹は写真、好きだと思うな」


「なんで」


お前にそんなことがいえるんだ、と含みを持たせた言葉に碧は屈託なく笑う。


「だってこんなに綺麗なんだもの」


綺麗。


『夏樹。世界は綺麗であふれているんだよ』


綺麗。


『たくさんの世界を見て、知って、綺麗なものと出会いなさい』


綺麗。


『それはきっとお前の人生を豊かにしてくれるよ、夏樹』


綺麗。


夜、星空を眺めながらまだ小さかったオレを膝に乗せて父さんが語った「綺麗な世界」


隣には母さんがいて微笑んでいた。


綺麗って何だろう。


必ず壊れてしまうもの?


いつか色褪せてしまうもの?


写真だって日焼けすれば劣化する。


永遠なんて本当は何処にもないのかもしれない――…。


「なーつーきー」


「!?」


「何いきなりブルー入ってるのよ」


「なぁ…」


「何?」


「永遠って…あるのかな」


「…願えば、其処に」


「え?」


「願えば、其処に。願い続ける限り、永遠はあるよ」


白くて細い指がオレの胸を指す。


「夏樹だけの永遠、本当はもう在って、見つけてもらうのを待ってるのかも」


そう…なのか?


自分の胸に問いかける。


答えは当然、返ってこない。


「誰もが忙しい日常の中で永遠をすり抜けちゃうの。願いながら、通り過ぎていく。其処にあるのに。気付ける人はとても少ないの」


「お前には…あるのか?」


「永遠を、育てているところ」


その答えが酷く…羨ましかった。


オレにとっての永遠。


仲のいい家族が、両親が天寿を全うするまで続くと思っていた。


それを願っていた?


いや…当たり前だと、壊れるはずがないと思っていなかったか?


その結果、かりそめの永遠はものの見事に壊れてしまった。


オレがもっと強く願っていたら――世界は変わっていた?


朝のホームルームを告げるチャイムが鳴って碧が席に戻っていく。


オレは教会の写真を見たまま考え込んでいた。


確か…キリスト教では善良な魂には死後、永遠が得られるとかいう教えがあったような気がする。


来るべき審判の日の後に。


あいにくうちは特定の宗教を信仰していない。


だから仏の導きも神の教えもよく分からない。


『夏樹は写真を撮るのが好きなの?』


写真を撮ることで平静を装っていたオレの脆弱な心は、その一言で凪から波紋を生み出した。


水面に石を投じたように。


広がる、波紋。


でも。


それでも。


オレには、写真しか、ないんだ。




学校の屋上。


フェンス越しに沈む夕日を撮る。


太陽は毎日…生まれて死ぬんだっけ。


…いい写真、撮れないな。


景色はこんなに「綺麗」なのに。


朝碧が投げていった小石がまだ小波を起こしている。


…家…帰りたくないな…。


仕事を始めた母さんの帰りは遅い。


それを寂しいとか、駄々をこねられる年じゃないけれど。


温かい家庭が父さんと一緒に失ったものは、とても大きい気がした。


オレが写真を撮ると母さんはちょっと悲しそうな顔をする。


でも同じくらい、ちょっと嬉しそうな顔をする。


どうして離婚してしまったんだろう。


そんなに父さんが嫌いになった?


分からない、分からない。


進路に関するプリントはまだ白紙のまま。


提出期限…いつだっけ?


フェンスに寄りかかる。


ギシっときしむ音がした。


それは本当にフェンスがきしんだ音だったのか。


それともオレの心がきしんだ音だったのか。


分からない、分からない。


世界は「綺麗」なだけじゃない。


分からないこと、理不尽なことだらけだ。


オレはもしかすると生まれてからずっと…世界から目をそらして生きてきたのかもしれない。


綺麗なところだけを見て、全部が綺麗なんだと思い込んでいたのかもしれない。


だって気付けなかったんだ。


父さんと母さんが拗れて、オレの前で喧嘩をするようになったときも。


哀しいとは思ったけど、それが頻度を増しても。


壊れるなんて、思いもしなかった。


オレはどうしようもない位子供だ。


こうやって自虐することで罪から逃れようとしてる。


父さんと母さんが喧嘩するなら、その原因を知るべきだったんだ。


永遠を…続けていくためには。


『願えば、其処に。願い続ける限り、永遠はあるよ』


…本当に?


たとえば――オレが死んでも残る永遠なんて、あるのか?


世界は主観と客観でできている。


オレから見た主観の世界が喪われても…残る永遠なんて、あるのか?


なぁ、碧。


お前が育ててる永遠って、どんな景色なんだ?


色は?


香りは?


どんな風が吹く?


感触はどうだ?


それも――お前の胸にしかない、幻なのか?


それを永遠と言っていいのか?


分からないよ、碧。


「辛気臭い顔」


「!?」


「あ、また吃驚してる」


ドアの開く音…したか?


碧はにこりと笑う。


「どうしたの?」


「…なんでも、ない」


「そう?」


朝…足音、したか?


――ナンセンスだ。


朝も今も、考え事に没頭していて音が聞こえなかっただけに決まってる。


「隣、いい?」


「…あぁ」


碧の前ではほとんどの返事がこうなる。


碧もそれに気付いているのだろう。


また、朝のようにくすくすと笑った。


「綺麗な夕焼けだね」


「そうだな」


あぁ、以外の返事を探して、出てきたのは似たり寄ったりの言葉だった。


「写真、撮った?」


「撮った…けど、多分上手く撮れてない」


「そっか」


意外に長い髪がふわりとなびく。


紺色のブレザーに灰色を基調にしたチェックのスカート。


見慣れているはずの女子用制服が、やけに遠くに感じられた。


白い肌が夕日に赤く染まる。


見目は、多分いいんだと思う。


町を歩けばナンパされるだろうな、と予測がつく程度には。


女子にしては高い身長は、けれどそれを感じさせないすんなりと華奢な印象で。


あぁ、こいつの声と同じだ。


凛としていて、儚くて、元気。


元気…はちょっと違うかな。


あぁ、でも朝は溌剌としていた。


今、オレが沈みがちだから碧まで沈んでいるように見えるんだろうか。


視線を感じていないはずはないのに、碧はフェンスの向こうを見ている。


こいつも何か思うところあるんだろうか。


「人ってさ」


「?」


「毎晩、寝るでしょ?」


「普通はな」


「それって、死ぬ練習なんだって」


「何だそりゃ」


「夜は死の時間なの。その時間に眠って、死ぬことに慣れていく…」


本当かどうかは、しらないけどね。


そういってこっちを見た、瞬間の顔。


なんだか泣きそうに見えた。


思わず瞬く。


その間に、嘘のように笑顔に変わった碧の顔。


目の…錯覚か?


「太陽も…」


「うん?」


「太陽も、沈むたびに死んで、昇るたびに蘇ってるんだってな」


「あぁ、聞いたことある」


じゃあオレたちは太陽の死に際を目にしてるのかな。


太陽は、ずるい。


死ぬ瞬間まで、こんなにも鮮やかで。


こんなにも、綺麗だなんて。


「また、悩んでる?」


ちょっと体を折って尋ねてくる。


別にオレの方が身長が低いわけではない。


こちらをよく見るため、なのだろう。


「……悩んでるかどうかも、分からない」


「そっか」


簡素な、けれどどこか温かな言葉。


「なぁ」


「なぁに?」


子供のような返事。


「お前の育ててる永遠って、どんなの?」


「…そうだなぁ…」


少しの、沈黙。


「多分、もう少しで見せてあげられるよ」


見られる?


…永遠が?


「まさか母親になるとかいわないよな?」


「違うよ。うーん…でも似てるかも」


「…叔母さんになる?」


「高校生に向かってそれは失礼だよ」


「じゃあ、なんだよ」


「だから、もうすぐ分かるってば」


答えをはぐらかすのは本当は永遠なんてないからじゃないか。


そんな思いが顔に出たのか碧は眉を寄せた。


「永遠は、本当にあるんだよ」


「オレたちが死んでも?」


「思いは、残るから」


まっすぐオレを見る、目。


…信じていいのか?


永遠は、望めば手に入るって。


手を伸ばせば届くのか?


「写真、撮ってみたら」


「え?」


「さっきより、いい顔してるから」


それは多分…あいまいながらも、希望を与えられたから。


凪を乱したのが碧なら、凪に戻そうとしてくれるのも碧だった。


そしてその乱し方は…悪戯で、或いは悪意を持って乱すのではなく、オレに大切な何かを教えるために乱しているようだった。


…それがなんなのか、まだ分からないけれど。


夕焼け色の町並みをレンズに写す。


…あぁ。


さっきより、「綺麗」だ。


これなら、いい写真が撮れるかもしれない。


オレは不思議に満ち足りた気分でシャッターを切った。


パズルのピースは、静かに埋められていく。


それをそれと気付かせないままに。




馴染みの写真屋にフィルムの現像を頼んですっかり日の落ちた町を歩く。


碧とは学校の校門で別れた。


…あいつの家、何処だっけ…?


幼馴染なんだから知っているはず。


でも思い出せない。


――どうして、だろう。


傍にいると確かに気の置けない空気を感じる。


リラックスできる。


けれど同時に、どこかで緊張している。


どうして、どうして。


心地よい温度の羊水に浸っているような。


いつか目覚める夢を見ているような。


そんな、不思議な感覚。


女性として意識している?


そんな事は全くない…と思う。


性別を超えて大切な存在、だとは思う。


でも。


どこか、得体が知れない。


「…ただいま」


誰もいないアパートはやっぱり寒い。


それでも誰かの返事を求めて帰宅の挨拶をしてしまうのは…長年の癖だろうか。


小学生の頃、家に帰って「ただいま」というとお菓子を焼くいい匂いがしたのを思い出す。


中学校の頃は甘いものをそれ程好まなくなったからその匂いも減った。


…思えばその時からゆがみは生じていたのかもしれない。


本当に、最後の最後、限界までオレは何も気付いちゃいなかったんだな。


気付いた時にはもう全てが手遅れだったんだ。


…幸せが壊れていく音に気付けなかったのか。


内心気付いていて、必死で耳をふさいでいたのか。


それすら、分からない。


最近は分からないことばかりだ。


両親のこと。


進路のこと。


カメラのこと。


碧のこと。


どこかよそよそしいクラスメートたち。


ボタンを最初に掛け違えたのはいつ?


考えても時は戻らない。


けれど同じ喪失感は、二度と味わいたくない。


父さん…どうしてるかな。


父さんが残していったアルバムをめくる。


笑顔のオレと、笑顔の母さんと、ちょっと慌てた顔の父さん。


あぁ、タイマーが上手くセットできなくて駆け込んできた時だ。


こんなにも鮮やかに、幸せな記録は残っているのに。


もう二度と戻らないのか。


思い返せば楽しいことばかりだった気がする。


母さんに叱られた頃が懐かしい。


今は一緒に食事を取ることも稀だ。


身体…壊したりしなきゃいいけど。


ずっと働いている母さん。


カメラで被写体を追うオレを、哀しそうに、嬉しそうに見つめる母さん。


なぁ、どうして家に帰ってこなくなったんだ?


その問いは、オレと母さんの絆すら壊しそうで。


喉まで上がってくるのに、どうしても声にならない。


本当は恋人がいるんじゃないかって。


本当はオレも邪魔なんじゃないかって。


聞きたいけど、聞いたら最後な気がして。


二度と喪いたくないから、臆病になる。


それじゃ駄目だって分かってるのに。


自由になっていいって、言えない。


どうして母さんがオレを引き取ることになったのかすら、聞けていない今は。


経済的にも性別的にも父さんが引き取るほうが自然だったはずなのに。


父さんはアパートを買い取って慰謝料と一緒に母さんに渡したらしい。


それから、オレの学費も。


意外と裕福だったのだと、その時知った。


広くも狭くもないアパート。


人の体温を感じられる、箱庭。


だけどそれは裏を返せば人がいないとそれだけ虚が目立つってことで。


…父さんは、寂しかったのかな。


母さんも、もしかしたら寂しかったのかもしれない。


そして今、オレも寂しさを感じている。


ばらばらになってしまった家族に。


…ファザコンでマザコンだったんだな、オレ。


夜景をファインダー越しに見る。


いい写真が撮れる気はしなかったけれど、何かしないと寂しさに負けそうだった。


シャッターを切った後、なんとなく「家」を撮って回る。


部屋数はそう多くないから、その分アングルを変えて、何度も何度も。


この寂しさもいつか「綺麗」だと思えるように。


そんな願いを込めてシャッターを切る。


その日、母さんはいつもどおり日付が変わる頃帰ってきた。


疲れているのがよく分かる。


無理に笑わせたくなくて、オレは自室に引っ込んだ。


リビングから、寂しそうなため息が聞こえた…気がした。




進路のアンケートにはまだ何を書いていいか分からない。


寂しそうな母さんを、どう慰めていいかも分からない。


父さんと連絡を取っていいのか分からない。


クラスメートと元通り馬鹿騒ぎする方法が分からない。


碧の事がわからない。


分からないことがありすぎて、この世にオレがわかることなんてなかったんじゃないかと思ってしまう。


それ位、たくさんのことを、今まで知らずに過ごしてきた。


今オレは転機を迎えているのかもしれない。


変わるか、変われないかの。


変わりたいと思う。


変わり方が分からない。


気付けばまた一日が終わろうとしていて、今日もオレは屋上に来ていた。


先客――髪の長い、女子生徒。


碧だ。


「元気、ないね」


お前もな。


「何か、悩みごと?」


「分からないことばっかりなんだ」


「分からないこと…か」


フェンスに寄りかかる碧と、フェンスを掴んでぼんやり夕日を見るオレ。


隣にいるのに、視線は交わらない。


「無理に答えを求めなくて、いいんじゃないかな」


「…そうか?」


「うん」


「でも…」


「答えを知りたいけど、答えを知って絶望するのが怖いんでしょう?」


どうして、分かるんだろう。


「分かるよ。ずっと見てきたんだもん」


でもオレにはお前との思い出がないんだ。


「そうだろうね」


どうして。


「どうしてかな」


どうしてオレが思っていることが言葉に出さないのにお前に通じるんだ!?


「私が、私だから」


「何を…言っている?」


「永遠、ね」


オレの問いに碧は答えない。


フェンスに寄りかかったまま、どこか遠くを見ている。


「少しずつ、大きくなってる。もうじき見せてあげられる」


「碧。オレは…」


永遠が欲しいんじゃない。


家族の絆を取り戻したいんだ。


それが永遠に続くと信じていた頃に、戻りたいんだ。


「でも時は戻せないから…その願いは叶わないよ」


「どうして、考えていることが分かるんだ…?」


「それも、もうすぐ分かること…」


碧の顔を見ようと向きを変える。


長い髪があおられて顔を隠した。


「まだ何も始まってない。それ故に…何も、終わってない」


厳かな託宣のような台詞を残して。


碧は足音を立てずに去っていった。


オレはただ立ち尽くす。


木偶の坊のように。




梅雨時の空は暗鬱としている。


静かに、けれどはっきりと、時間は流れていく。


六月。


合服から夏服に生徒の変わっていく姿を見ながら、オレはまだ悩んでいた。


悩んでいる割に写真はいいものが撮れて、貯金で買った真新しいアルバムを埋めていく。


そうすることで欠けた何かを埋めようとするように、がむしゃらに写真を撮った。


碧との対話も時折続いている。


経験はないが禅問答のようだ、とたまに思う。


何を言っても明確な形にならず、返って来る言葉も取り方はいくらでもある。


本来の会話とはそういうものなのだろうか。


会うのは、学校でだけ。


高校になった異性の幼馴染同士としてそれは適切な距離なのか、親密なのか、ドライなのか。


他に比較対象がいないからよくわからない。


「今日も雨か…」


紫陽花が綺麗だろうな、とぼんやり思った。


幸い靴は防水だし、カメラに雨粒が落ちないことだけ気をつけて今日は紫陽花を撮ってみよう。


雨に濡れた緑をとってもいいかもしれない。


みどり…。


同じ響きの、幼馴染。


彼女の育てる永遠の正体は、まだ教えてもらえていない。


最近は、聞くのが怖い気もしている。


聞いた途端、何かよくないことが起こるような。


そんな、予感のような確信のようなあいまいな不安。


「夏樹」


「…碧」


碧がオレに話しかけてくるのは、大概オレが「揺らいで」いる時だ。


自覚しているかしていないかはその時によって違う。


自覚している時は碧はオレの心に凪をもたらしてくれるし、自覚していない時は自覚していない揺らぎを自覚させてくれる。


いつからかオレはその行為に酷く安心するようになっていた。


前は…先月は、碧と話すのが怖かった。


凪いでいた水面に石を投げられるのが、怖かった。


夕焼けの空の下、オレの心を的確に読む碧が怖かった。


今は…不思議と怖くない。


「今日は何を撮るの?」


「紫陽花と…緑」


「そう。いい写真、取れるといいね」


「あぁ…」


「もうすぐ、夏樹の誕生日だね」


「そういえば、そうだな」


「夏樹、夏に大きな木の下で陣痛が始まったから夏樹って名前になったんでしょう?」


「そこまでは聞いたことないな」


「本当だよ」


「そっか」


木の下で陣痛とか…母さん、焦っただろうな。


「早産だったんだってね」


「あぁ、確か」


「お母さん、吃驚しただろうね」


「…だろうな」


二人でちょっとだけ笑う。


「ちゃんと生まれてこれて、よかったね」


「あぁ」


俺を生んでくれた母さんと、母さんを愛した父さんは離れ離れになってしまったけれど。


二人が愛しあっていた時期もあったと、オレの存在が証明している。


「誕生日プレゼント、楽しみにしててね」


「いらねぇよ、別に。気ぃつかうな」


「贈りたいから贈るんだよ」


「…そっか」


誕生日、か…。


「じゃあ、席に戻るね」


「あぁ」


オレの横を通り過ぎていく。


碧の席は一番後ろなのだ。


ふわり、と。


どこかで嗅いだ、懐かしい匂いがした。




五月に藤棚を撮った公園に入って紫陽花を撮る。


咲く時期からか、紫陽花ほど雨が似合う花をオレは知らない。


「…紫陽花の八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ、か」


万葉集だっただろうか。


昔習った紫陽花を詠んだ句を何となく口にする。


オレもいつか…こんな歌を誰かに贈れる日が来るだろうか。


いつまでも思っている、と胸を張っていえるだろうか。


碧の後姿が脳裏をよぎる。


…あいつ、好きな奴はいるのかな。


そんなことを自然に考えている自分に動揺した。


それは碧に対する思慕からではなく…もっと別の何か。


碧にそういう感情を抱くことは、無意識のうちでのタブーだった。


何故かは分からない。


そういう感情は抱けないし、抱こうと思わないし、抱いてはいけない。


そんな気がする。


娘に恋人ができたら、こんな気分だろうか。


…碧が娘?


馬鹿馬鹿しい。


あいつとオレは、同い年の幼馴染だ。


恋愛事情に首を突っ込んでいい間柄じゃない。


それに…何となく。


あいつは恋人を作らないような気がした。


思いを寄せられても、断りそうな。


それこそどうしてそう思うのかなんて分からない。


あぁ、本当に。


分からないこと、だらけだ。


気がつけば雨は上がっていて、オレは空に現れた虹に向かってシャッターを切った。




夢を見ている。


胎児に逆行した夢を。


温かな羊水。


重なる心音。


――母さん?


いや、もう一人分…?


これは、いったい。


誰の 心音だ…?




目が覚めたとき、感じたのは息が切れているということ。


何かとてつもなく重大なことを夢に見た気がする。


けれどそれがなんなのか分からない。


思い出せない。


夢は、単なる夢だ。


そう必死になって言い聞かせる。


どうしてオレはこんなに必死になっているんだろう?


――怖いから、か?


夢を怖がるなんて、そんな。


子供じゃ…あるまいに。


子供。


何かが引っかかる。


子供に関する、夢だったのだろうか。


子供の頃の記憶で、悪夢につながるようなものはないはずなのに。


なぜか酷く、胸騒ぎがして。


なぜか酷く、不安になった。


何かがまた、オレの知らないところできしんで壊れていくような。


それに気付けないまま喪うような。


そんな嫌な、予感。


何を喪うって言うんだ?


母さん?


それとも父さん?


――碧?


ぎり…と心臓が捩れた気がした。


ナンセンスだ。


いつかのように呟く。


半ば以上、その言葉が「そうであって欲しい」という思いから出た言葉だという事に…気付かない振りをした。


喪ったりしない。


そう言い聞かせていなければ。


ほんとうに、うしなってしまうから。


「!?」


誰かの思考が流れ込んできたような錯覚。


怖い。


日常に戻ろう。


怖い。


軽くシャワーを浴びて。


怖い。


朝食を取って学校に行こう。


怖い。


碧に会えば。


怖い。


不安は消えるはずだ。




「お疲れモード?」


昨日と何も変わらない碧の様子。


それにかなり救われた気分になる。


「覚えてないけど…夢見が悪かったみたいだ」


「そっか」


「お前は、どんな夢を見ることが多い?」


「夏樹と遊んでる夢が多いかな」


「そうなのか?」


「今の時期なら…プールとか海とか」


水。


…羊水。


母さんの胎内で聞いた、自分と母さん以外の心音。


「…思い出した…」


「え?」


「なんか、よくわかんないけど。胎児の頃の夢を見たんだ…」


「……そう」


「碧?」


どうしてそんな――哀しそうな、顔を?


「なんでもないよ。…明後日だね、誕生日」


「あぁ…もう、そんな時期か」


夏休みに入るのも、もう少しだ。


黒板の横の行事表を見ると丁度夏休み初日が誕生日。


…やばい。終業式のこと、忘れてた。


ここのところテストやら球技大会やら色々あったからな…。


けど普通忘れるか?


自分で自分に突っ込みを入れる。


大丈夫、日常は此処にある。


そんなことを、確かめるように。


今思い返すとその日はいつも以上に笑うことに気をつけていた気がする。


がむしゃらに前だけみていた。


後ろを見たら飲み込まれると――知っていたんだろうか。




終業式が終わり、長い夏休みが始まる――……。




夏休み初日。


初っ端から夕立に遭遇した。


カメラ、大丈夫かな。


傘が役に立たないくらいの豪雨。


夕立ならすぐ止むだろうと商店街の軒先とコンビニで買った傘でしのいでいたが中々止まない。


そうこうしているうちに夜の気配が近くなってきた。


家まで徒歩で十分強。


…仕方ない、家に帰ったら即風呂に入ることにして濡れ鼠になろう。


ケースを鞄にしまって、一歩足を踏み出す。


耳障りなブレーキ音が雨の中聞こえた。


なんだ … ? 体が 熱くて、冷たい…?


   流れているのは…雨、だよな…?


じゃあなんで… 赤いんだ…?


「夏樹…大丈夫?」


「みど…り…?」


一体いつ、オレに覆いかぶさって…?


悲鳴がどこか遠くで聞こえた。


「だい…じょう、ぶ…?」


声と一緒に大量の血が碧の口から吐き出されて。


ひっきりなしに降っている雨に赤いものが混じっていることに頭を殴られたような衝撃を受けて。


オレに覆いかぶさった碧の体から、力が抜けていって。


雨に打たれた白い肌が、白いを通り越して青褪めていて。


オレをかばって、車に轢かれた…?


でも、いつ、どうやって?


視界は悪かったけどオレは一歩しか踏み出していない。


「えいえん…あげる、ね…」


「馬鹿!喋るな!!」


「ね、写真、撮ってよ」


お願い、と笑う顔に生気がない。


「…最期の…わがまま…聞いて?」


「最期なんていうな!」


碧を繋ぎとめておきたくて。


オレはカメラを手にして初めて人に向かってシャッターを切った。


雨で壊れるかもしれないなんてその時は頭になかった。


ただ、彼女を繋ぎ止めなくては。


そんな思いだけが、在った。


「夏樹の傍にも…永遠は、ちゃんとある、よ…」


「碧!いいから!喋るな!!」


「気付いてないだけ…本当は、ずっと昔から…傍、に…」


すぅっと目が閉ざされる。


そして――…。


碧の体が、徐々に薄くなっていく。


半透明になって、空が透けて見えるようになって。


雨を、通すようになって。


最後には…消えて、しまった。


「みどり…?」


血の一滴も残さずに。


幻のように。


夏の雨に、溶けて消えた。


大丈夫か、と誰かの声がする。


大丈夫じゃない。


碧がいなくなってしまった。


消えてしまった。


「何処に行ったんだ…みどり…みどり…」


オレを呼び止めるたくさんの人の声がしたけれど、それを無視してふらふらと歩き出す。


碧の苗字はなんだった?


あいつの家は何処だった?


あいつがクラスメートと話しているのを見たか?


出席を取る時あいつの名前は呼ばれていたか?


そもそも――あいつの席は、あったか?


渦巻く疑問。


               碧は、この世の人間だったのか?


足音を立てず、ドアを開けた音も聞かせずオレの前に現れた碧。


最初、あいつのことを覚えていなかったのはどうしてだ?

はじめから、いなかったからじゃないのか?


恐ろしい、結論。


じゃあオレは誰と話していたんだ?


誰がオレを導いてくれたんだ?


碧だ。


碧って誰だ?


幼馴染だ。


本当に?それならどうして覚えていなかった?


それは、それは、それは――…!


永遠ってなんなんだよ、碧。


教えてくれよ。


お前は誰で、何処に住んでいて、どうして消えてしまったんだ?


実は奇術師なんです、なんてふざけた答えでもいいから、教えてくれよ。


お前は、何処にいるんだ――?


「そうだ、写真…!」


消える前の碧を、オレは確かに写真に収めた。


現像すれば碧がいたという証明になる!


オレは急いで写真屋に駆け込んだ。




結果から言うと…オレの期待は呆気なく裏切られた。


確かにピントを合わせて撮ったはずだった。


それなのに碧を撮った写真だけがピンボケで、何か淡い光のようなものが映っているだけだった。


現像を担当した写真屋の人には何を撮ろうとしたのか聞かれたけれど、何も答えられなかった。


碧がいたという証が全て消えてしまった。


クラスメートに探りを入れても碧を知っている人はいなかった。


まるで初めからいなかったように。


まるでオレの妄想だったように。


何処にも「碧」を見つけられず夏休みをただ漠然と過ごしていたオレに。


碧は意外な形でその正体を告げたのだった。




気分転換になれば、とその日オレは朝から家を掃除して回っていた。


たくさんのアルバムの、その下。


「それ」はひっそりとそこにあった。


母子手帳。


なぜか、二冊。


何かに導かれるように手を伸ばす。


「河野夏樹」


オレの名前と。


「河野碧」


捜し求めていた、名前があった。


碧と書かれた方の母子手帳をめくる。


飛び込んできた、死産の二文字。


母子手帳の発行日はオレと同じ。


双子の姉か、妹…?


碧が?


死んでいた、兄妹?


「やっとみつけてくれた」


「みど、り…」


半透明に透けた体で、碧がいた。


「私は碧。河野碧。貴方の姉か、妹になるはずだった」


凛とした、儚くて、でも元気な声。


少しだけ、母さんの声に似ていることにどうして気付かなかったんだろう。


母さんの面影があることに、どうして気付かなかったんだろう。


「でも私は生まれてくる事ができなかった。その代わり、ずっと貴方たちを見ていた」


アパートを見る碧の目は優しい。


「母さんの腕に抱かれてみたかった。父さんの写真に写ってみたかった。……貴方と…話してみたかった。その思いが永遠となって、今の私を作ったの」


えいえん。


「この世に未練があったから、私は此処にとどまるしかなかった。でもそれはそれで幸せだったの。気付いてもらえなかったけれど、貴方と同じ場所で、同じ時を刻めたから」


本当に?


誰にも名前を呼んでもらえない。


誰にも知覚してもらえない。


そんな時間が、本当に幸せだったのか?


「父さんが写真を撮ろうとしたのは、心霊写真でもいいから私に会いたいからだって母さんに言ってるのを聞いた時、嬉しかったの。


お墓参りには二人でひっそり、夜中に来てくれるだけだったけど…それでもよかったの」


聞けば聞くほど何も知らなかった自分がいかに幸福だったかを思い知らされる。


碧は、ずっと一人だったのに。


暖かな家の中、誰にも気付かれずに一人でいたのに。


「ごめんね。父さんと母さんが離婚したの、私のせいなの。


夏樹に私のことを打ち明けるかどうかで喧嘩して、哀しさが強く出すぎた私の意識を、父さんがカメラに写してしまったの」


「碧のせいじゃない…」


「ううん、私のせいだわ。父さんが私を探して写真を撮って回ったのも、母さんが子供を生めなくなったのも…。


写ってしまわなければ、私がいなければ、貴方たちは本当に幸せな家族になれたのに。父さんも母さんも私を忘れなかったから、歪んでしまった」


碧が両手で胸を押さえる。


「それでも…一瞬、嬉しいと思ってしまった。忘れられていないことを、思ってもらっていることを、愛されていることを。


私は父さんや母さんに触れられないけれど、私がいるって知ってもらえたことを…何も考えずに、嬉しいと感じてしまった。それは私の、罪」


そんなこと。


思うのは当たり前だ。


オレだって逆の立場だったら同じことを願う。


「母さん、霊媒師のところに通いつめるようになった。霊媒師の人は、私が見えてなかったみたい。


それでも…多分金蔓だと思ったのね。家から離れるのはよくないって。これからも自分が助言をするからアパートを手放しちゃ駄目だって言ってた」


この世界は、なんて汚い。


「父さんはそんな母さんを見て写真を撮れなくなった。それがまた喧嘩の火種になった。…二人を離婚させたのは、私」


どうしてこんなに綺麗な魂が。


世間のせいで罪の意識を感じなくてはいけないんだろう。


「父さんと母さんの罪悪感と、貴方の悩みを糧にして私は実体を得たの。でも貴方以外の目には映らなかった…。


だから、幼馴染の振りをして、少し記憶をいじったの。…ごめんなさい」


碧を知らなかったのは父さんと母さんがそれを隠していたから。


でもオレはどこかで感じていた。


そう、夢で。


自分以外の心音が聞こえる羊水に浸った夢を…。


あぁ。


「…悪い夢を見たって言ったとき…だから哀しそうだったのか」


「そんなこともあったね。五月に夏樹と『会って』それから毎日楽しかった」


「オレも…楽しかったよ」


碧は嬉しそうに笑う。


透けてることが、嘘みたいに。


「夏樹、何かを探すように人のいない風景を撮ってて。まるで私を探してくれてるみたいで…それも嬉しかった」


そう、頑なに人を撮ろうとしなかったオレ。


確かに何かを探してた。


「夏樹が結婚して、子供ができて、おじいちゃんになって死ぬまで見届けたかった。


でも…あの日、夏樹の誕生日。死相が夏樹の顔に浮かんでた。助けなきゃって思った。


暖かい家を奪ったお詫びになるなら…消えていいと思った」


「どうして、そんなっ…!」


「だって貴方は生きているから」


綺麗な笑顔で。


「私には未来がないけど、貴方にはあるから」


優しい姉は、可哀想な妹は。


「だから私が夏樹を守らなきゃって思ったの」


厳かに告げる。


「あの日、私は天の国に昇っていった。でも夏樹が苦しんでいるのが見えた。


だから、今だけ降りてくる許可をもらったの」


優しい碧。哀しい碧。


「私の分まで生きて、夏樹。貴方が天の国に来る日がきたら、そのときは。たくさん、お話しましょう?」


輪郭が朧になっていく。


待って待って逝かないで。


お礼も詫びの言葉もまだまだいい足りない。


何から口にすればいいのか分からない。


「貴方に会えてよかった。夏樹。さよなら」


「碧!」


伸ばした手は、虚空を掻いただけだった。




夜遅くに帰ってきた母さんに碧の母子手帳を見せる。


泣き崩れるその肩を抱いて、五月から今日までのことをたどたどしく話した。


母さんは何も言わずに聞いていた。


ただ…碧が生きて生まれてきて、年を重ねたらこんな顔だっただろうか、と思える顔にとめどなく涙を伝わせて。


母さんは声もなく泣いていた。




それからオレたちは三人で碧の墓を訪ねた。


碧の姿は見えなかったし、声も聞こえなかった。


天の国にいるのだろうか。


オレたちを見ているだろうか。


碧がくれた永遠。


父さんと母さんが、もう一度結婚する。


父さんは写真を撮るのをやめたし、母さんは霊媒師の元へ通うのをやめた。


碧のための仏壇がアパートの一室に置かれるようになった。


今までとは、少し違う。


けれど温もりは戻ってきた。


碧を引き換えに。


あれからアルバムには新しい写真は増えていない。


探しものは、もうこの世にいないから。


最後に残ったのは、ピンボケの写真。


その写真がある限りオレは覚えているんだろう。


長い髪を。


深い思慮をたたえた眼差しを。


凛として、儚くて、けれど元気な声を。


白い肌を。


赤い唇を。


最後に見せた、穏やかな笑顔を。


今でも胸がツンとする。


オレと、碧と、父さんと母さん。


漸く家族がそろって。


永遠が、始まった。


アルバムは、閉じたまま。


もう二度と…開くことはない。


だから少年は、アルバムの中に自分と似た面差しの少女の笑顔があることに、気づかない。








華雨




童話の世界から抜け出して


貴方を見ていたわ


優しくしたわけじゃないの


嫌われたくなかった私のエゴ


もう一人で立てるでしょう?


願うことを許してくれるなら


私を忘れないで


My sweet boy…





「私」になった夢を胎児が見ているのか。


「胎児」になった夢を私が見ているのか。


それはまるで胡蝶の夢。


夢は現に現は夢に。


行き着く先のエンドマークが記すのは…?




私、河野碧。


御伽噺の世界に迷い込んだかりそめの命。


本当の私はまだ母さんの中にいるの。


そしてこの世界の夢を見ている…。


きっと父さんが読んでくれる童話がモチーフね。


だってこの世界の父さんは靴下で、この世界の母さんは猫。


双子の兄か弟になるはずの夏樹は私より十歳ばかり年上の姿だ。


此処は何でもありのワンダーランド。


暮れない空の下、いつまでも遊んでいられるの。


あぁ…でも早く。


外に出てみたいな。


そして本当の父さんと母さんにこの世界のことを話すの。


母さんのおなかの中で、不思議な夢を見たのよって。




「碧。出かけようか」


夏樹が自転車の後ろにつけた子供用の椅子を示す。


「うん」


この世界での「私」は多分六歳か七歳。


「出かけるのかい」


灰色の靴下に細い手と、小さな丸メガネと、ちょっと眠そうな目と、優しい笑みを浮かべる口をくっつけた父さんが新聞を見ながら言った。


「気をつけていくんだよ」


明るい茶色…オレンジに近い毛と白い毛の猫の姿のお母さんが陽だまりで丸くなってる。


傷つけるものなんて何もない。


だって此処は優しさだけで作られた世界。


人は人を慈しみ、人以外の生き物がたくさんいる。


私と夏樹はその世界の客人だ。


夏樹と私が双子だって事、夏樹は知らないみたいだけれど。


それも当たり前かな。


だって此処は「私の夢の世界」だから。


双子でも、体が別々の本当の夏樹はこの世界に入ってこれない。


私だけの世界。


私だけの箱庭。


いつか出て行くその日には。


きっとみんな、祝福してくれるだろう。


この世界では七年生きているから、言葉はある程度知ってる。


でもこの世界が終わったら忘れてしまうのかしら?


もう一度勉強しなおすのも…悪くない。


だってそこには夏樹がいるから。


私が作ったかりそめの夏樹ではなく、本物の夏樹。


早く会いたいな。


「行こう、碧」


高くも低くもない声。


ちょっと長いふわふわの髪。


優しい目は父さんに似てるかも?


小さな私を抱き上げて自転車に乗せる。


「しっかりつかまっているんだよ」


「うん」


夏樹がサドルにまたがって自転車をこぎ始める。


流れていく景色は、いつ見ても不思議。


鮮やかな色のきのこのパラソルを広げた屋外喫茶。


雲に乗ったお城。


妖精や、天使たち。


父さんが聞かせてくれるいろんな童話や子供向けに訳された神話が矛盾なく入り混じったこの世界は、本当に優しさであふれている。


永遠に一番近い国。


私が生まれてもこの世界を忘れなかったら。


また訪ねてこれたら。


本当の「永遠の国」になるのかもしれない。




空気は花の香りを含んで清々しい。


優しい音楽が、微かに何処からか聞こえてくる。


「夏樹!碧ちゃんも一緒か」


坊主頭に黒い服の夏樹の友達が笑って手を振る。


夏樹は自転車を止めた。


「………」


「どうした、碧ちゃん?」


「夏樹の髪…分けてあげたらいいのに」


「…………」


「ぶはっ」


「…オレ、はげてるわけじゃないんだけど…」


「くくっ…まじめに答えるお前が好きだよ」


「夏樹ー……」


おかしなことを言ってしまったかしら?


「ごめんなさい。寒いかと思ったの」


「平気だよ。此処は一年中穏やかな気候だから」


夏樹の言葉に友達が首を振る。


「そうでもないかもしれない」


「え?」


「どういう意味だ?」


「北で雪が降ったらしい」


「雪?」


この暖かな世界に?


「目も開けていられないほどの吹雪が毎日吹いてるって話だ」


「………」


「そんな不安そうな顔するなよ、碧ちゃん」


飢えも貧富の差も差別もない夢の国。


その世界に、雪?


心がスゥッと冷えて夏樹の足にしがみつく。


「大丈夫だよ、碧」


「そうだよ。すぐに止むさ」


「…うん」


そうだといいな。


北には人が住んでいないと聞くけれど…寒波が此処に押し寄せてこなければいい。


暖かな気候に慣れた人達に、寒波に対抗するすべはないのだから。


「あ、そうだ。千年桜を見に行かないか」


「そうだな。…碧、行くか?」


「うん」


千年桜は千年間咲き続けている桜の木の事。


花びらが舞っても花が尽きることはない。


千年桜の周りは特に暖かく柔らかな空気で満たされているから、きっとこの胸のしこりも消えてくれるだろう。




淡いピンク…白に近い花びらが風に舞う。


立ち並ぶ木々は千年咲き続けたというだけあってとても立派だ。


はらり。はらり。


「碧ちゃん、風に舞う花びらを掴んでごらん」


「…え?」


「風に舞う千年桜の花びらを掴んで、押し花にすると何より強いお守りになるんだってさ」


「うん、みんなで試そう?」


「じゃあ誰が最初につかめるか競争だ」


「お前には負けない」


ふふ、夏樹ったら子供みたい。


十七歳だからまだ子供かな?


花びらをつかめたのは夏樹だけだった。


「後で押し花にして碧にあげるよ」


「ううん。夏樹が持ってて」


「…けど」


「夏樹が、持ってて」


「分かった」


夏樹が持っているなら時々見せて貰えばいい。


この幸運は、夏樹のもの。


奪っちゃいけない。


青空にまん丸のお月様が昇る。


この世界の「夜」だ。


「じゃあそろそろ帰るか」


「また明日な」


「またね」


行きよりちょっと急いで夏樹が自転車をこぐ。


日は暮れないけれど夕ご飯の時間は過ぎてしまった。


父さんも母さんも待ってるだろう。


「遊びすぎちゃったな」


私が花びらを取れるように待っていてくれたんだろう。


「ありがとう、夏樹」


「ん?何か言ったか?」


「なんでもないよ」


優しい夏樹。


大好きな夏樹。


例えかりそめでも。


貴方がこの世界にいてくれて嬉しい。





「遅かったねぇ。心配したよ」


「ごめんなさい」


「ごめん」


「今日は何処に行っていたの?」


「千年桜を見てきた。お守りにする押し花を作るんだ」


「あらあら、よかったわねぇ」


今日の夕ご飯は何だろう。


「お隣さんが雲を分けてくれたの。果物には雲のシャーベットが合うから助かるわ」


食べ物のなる木、というものがある。


いくらもいでもすぐ実をつけるその木はこの世界の人々の共通の食事。


そして空を飛べる人達は、もう浮いているのが疲れた、という雲を食卓へ連れて来る。


雲は私たちの体の一部になって生まれ変わる。


でも浮いているのに疲れてしまう雲はあまりいないから、雲はご馳走。


シャーベットにするとふんわり口の中で溶けて、微かな甘みが残る。


「じゃあ食べようか」


四人でいただきますをいって果物と雲のシャーベットを食べる。


果物――名前はないから皆がこう呼ぶ――は果汁たっぷりで喉の渇きも潤してくれる。


真っ赤で、丸くて、種はなくて、柔らかだ。


雲のシャーベットは真っ白。


凍っても浮いていた時のふわふわ感は消えてない。


「美味しい」


「碧はあまり雲を食べたことがなかったか?」


「うん、これが二度目」


「そうか。味わって食べなさい。雲にも果物にも感謝を忘れないように」


「うん」


これは父さんに聞いた昔話。


ずっと昔、まだ食べ物のなる木がなくて食べ物にみんなが困っていた。


友達や、友達の友達を食べるわけにはいかないからとみんなが食べることを我慢していた。


生き物はみんなやせ細り、立ち上がることができなくなった。


天から降りてきた神様が食べ物のなる木を植えてくれた。


「この木は食べられることに意味がある。遠慮せずに食べなさい」


神様はそう言って一人一人に果物を渡して歩いた。


そして神様の乗ってきた雲が言った。


「神様。私たち雲は長い時間がたつと浮いていることに疲れてしまいます。


疲れた者は地上に降りて食べ物になることをお許しください」


神様は頷いて疲れた、と言った最初の雲もシャーベットにして人々に配った。


食べ物のなる木と雲のおかげで、みんなは元気を取り戻し、天に帰った神様と、自分を差し出してくれた雲と、神様が植えてくれた食べ物のなる木に感謝するようになった。


その時から果物は私たちと共に在る。


「さぁ、食べたら眠りましょうね。明日がいいものになるように素敵な夢をたくさん見なさいな」


「食後の祈りも忘れるんじゃないぞ」


神様と、木と、雲に感謝の祈りをささげる。


「明日もとびっきりの一日になりますように。おやすみなさい」


「お休み」


「いい夢を」




柔らかなベッドはお日様の匂い。


そして私は「私」に戻る。




「あ、ねぇ、今おなかを蹴ったわ」


「夏樹と碧、どっちだろう?」


「強かったから夏樹かしら?」


温かな羊水の中。


母さんの心音と、私の心音と、夏樹の心音が重なる。


蹴ったのは夏樹。


母さん、凄いね。


少し篭ったような声に聞こえるのは胎内にいるからだろう。


出たいよ、会いたいよ、と思いを込めて私も蹴ってみる。


「予定日まで後二週間ね…楽しみ」


二週間…。


二週間したら会えるの?


楽しみ!


だけど…「もう一人の私」はどうなるのかな。




最初桜の花びらが舞っているのかと思った。


でも頬に触れたとき違和感があった。


「え…冷たい…?」


「…雪だ…」


父さんが驚いたように空を見ている。


「!?」


いつも青空の空が、灰色に染まっていて。


白い白い雪が降ってくる。


まるですべてを白く埋め尽くすように。


「そんな、どうして…?」


「碧、夏樹。逃げなさい」


「父さんと母さんは!?」


「この世界が逝くのなら、私たちも逝くのが定めよ」


「嫌だよ!オレだって!」


「貴方と碧はこの世界の客人。一緒に滅んではいけない」


「母さん!?」


悲痛な夏樹の声。


あぁ、夏樹はやっぱり知らなかったんだ。


でも…。


「世界が…逝く…?」


「本当の世界の私たちによろしくね」


母さんが笑って。


父さんが頭を撫でて。


意識は夢の世界から乖離していった。




「っ!」


「おい、大丈夫か!?」


「赤ちゃん、が…」


「今救急車を呼ぶから!」


夏樹。碧。


お願い。


無事に生まれてきて――!




――碧、大丈夫か?


――ごめんね、夏樹。


――碧?


――一緒に生まれるの、楽しみだったんだけど…無理、みたい。


――碧!?何言ってるんだよ…!?オレたち、これからだろう!?


――夏樹は、生きて。


――碧も一緒じゃなくちゃ嫌だ!


――約束する。傍にいる。


――…みどり…?


――ごめん、ね。もう…限界…。


――碧、先に…!


――ううん。どうせもう…心臓が止まる、もの。夏樹が先に生まれて。


――碧、碧!


――私たち、一緒に生きていくのよ。私は、夏樹の中で。


「おぎゃぁぁぁぁ!」


生まれてきた男の子は。


おなかで一緒に育った片翼の死を嘆くように盛大に。


初めての、産声を上げた。




「迎えに来ましたよ、碧サン」


「貴方、は…」


夢の世界での、夏樹の友達。でも口調が違う?


坊主頭じゃなく、伸ばしっぱなしにしたような少し長めの黒髪になっていたけれど、顔は同じ。


浮かべている表情は、笑っているような、困っているような、楽しんでいるような、嘆いているような。不思議な表情で。


「アタシは当代地獄の番犬。貴方の親御さんと少々縁のある妖怪です」


「妖怪……?」


「えぇ。貴方のお父サンも元は妖怪ですよ。今は記憶をなくして体組織も人間のものになっていますがネ」


「千年桜の、お守り…」


「あれは、生まれてこれるかどうかの…試練なんです。碧サンはつかめなかったから、生まれてこれなかった」


そう。


じゃあ、やっぱり。


夏樹に持っててもらって、よかった。


そう呟くと妖怪だという夏樹の友達は困ったように笑う。


「本当は碧サンにもつかんで欲しかったんですけど…力を使うのは、禁じられているもんで。すみませんね」


「ううん。いいの」


「ところで碧サン。妖怪になってみませんか?貴方のお父サン…先代夢守がいなくなってから夢守の仕事もこちらに回ってきましてね。人手不足なんですよ」


「夏樹が一人で立てるようになるまで、見守ったら、だめ?」


「うーん…実体はもてませんよ?貴方は生まれてこれなかったのだから」


「それでもいい。一緒って約束したもの」


夏樹の友達で、父さんの家族だったという妖怪は困ったように頬をかく。


「夏樹や、父さんや、母さんの傍にいたい。みんなの傷が癒えるまで」


「君は誰にも認知されませんよ?祝福もされない」


「それでもいい」


だって一緒って約束したもの。


「待つのは長い長い孤独ですよ?」


「かまわない。夏樹と一緒に時間を過ごすのは孤独じゃない」


妖怪になって生きることができても、夏樹がいなかったら意味がない。


「此処に残る…」


「しょうがないですねぇ」


上には話を通しておきましょう、とあきらめ交じりの嘆息。


「ありがとう」


「ただし条件がひとつ。夏樹サンたちが壁を乗り越えたら当代夢守を担っていただきます」


「わかった。……夢守って、何をするの?」


「妖怪と関って恐ろしい目にあった人の記憶や、妖怪を迫害しようとする人の記憶を操作して夢に仕立て上げるんです」


「見守り終わったら、夢守になります。見届けさせて」


「許されているのは見守ることだけ。条理を曲げないよう、忠告はしましたよ」


「うん、またね」




お葬式が過ぎても、喪が明けても。


私は現世にとどまっていた。


当代地獄の番犬と名乗った妖怪は時々やってきて夏樹たちを一緒に見守ってくれる。


一度家族と呼んだ相手の生きる道を見守るために、そして私が孤独に溺れないように。


そんな時は事前講習として夢守の仕事について習うこともあった。


靴下の父さん。


猫の母さん。


優しい夏樹。


あの世界にいた、たくさんの優しい命。


思い出は、たくさんもらった。


こちら側の父さんは写真をたくさん撮っている。


生まれてこれなかった私の、残滓を探すため。


こちら側の母さんは生まれてこれなかった私の分まで夏樹を愛している。


その顔に私の面影を探すように。


お墓には、二人だけが来てくれる。


夏樹には伝えられない、ごめんって謝って。


ううん、いいんだよ。


夏樹だって覚えてないなら知らないままのほうがいい。


貴方たちを傷つけてごめんなさい。


生まれてこれなくてごめんなさい。


でもね、お墓にはいないの。


貴方たちの隣にいるの。


気付いてもらえなくていいと思っていたけど。


やっぱりちょっと、寂しいね。




私が欠けたことで、家は温もりを増した。


欠けた分を補うように家族が家族を愛した。


これでいい。


このままでいい。


あたたかないえをみていられるのなら。


わたしもあたたかいきもちになれるから。


子供のようにたどたどしく言い聞かせる。


壊しちゃ駄目。


夏樹の家だもの。


私の家になるはずだった場所だもの。


どうか貴方たちは。


綺麗なままでいて。


私を忘れないでと願う。


私を忘れてと願う。


どちらも叶わない願いかもしれない。


少なくとも両立は絶対しない。


切ない、ね。


母さんと父さんがお墓に行く時は私もついていく。


お墓のそばには勿忘草が咲いている。


花言葉は「私を忘れないで」


そう言えたらいいのに。


でも。


そう言えなくて、よかった。


言ったら傷つけてしまうから。


温かな家を、壊してしまうから。


父さん、疲れてない?


母さん、私を生めなかったこと、悲しんでる?


夏樹、貴方は元気に育ってね?


毎日毎日月に祈りをささげる。


この世界の夜は暗い。


この世界は痛いことも苦しいことも哀しいこともあって夢の世界のように優しいだけじゃない。


でも、だから。


――綺麗なんだね。


夏樹が赤ちゃん言葉で喋るようになった。


その目には何が映っているのかな。


その耳には父さんと母さんの言葉、届いてるよね。


千年桜のお守りはどこかに行ってしまったんだろうけれど、その加護がずっと続きますように。


夏樹が幼稚園に入った。


母さんは家事の傍ら私を呼ぶことが多くなった。


父さんは前にも増して写真をたくさん撮った。


夏樹を心配させないために笑顔で。


私が見つかった時に見せられるように笑顔で。


アルバムの数が増えていく。


成長して行く夏樹。


そこに私はいない。


確かにそこには孤独があった。


温かな家の何処にも私の居場所はなかった。


認識してもらえなかった。


でも、この未来を知っていても、それでもやっぱり…同じ選択をしたと思う。


例え気付いてもらえなくても、傍にいられる今を大切に思っているから……。




夏樹が歯を食いしばって父さんの背中を見ている。


今日、父さんと母さんが離婚した。


私の、せいで。


この世界に幽霊として存在するようになって初めて、私はこの選択を後悔している。


私がおとなしく妖怪として生きていたら、生きる世界が違う父さんと母さんが離婚することはなかったかもしれないのに。


夏樹が自分を責めて、涙をこらえることも、なかったかもしれないのに。


ごめんね。


ごめんね、父さん。


ごめんね、母さん。


ごめんね、夏樹…。


全部私のせいだね。


「…ごめんね…」


今まで何度も声を出そうとして、出せなかったのが嘘のように肉声が出た。


ちょっとだけ、母さんに似た声。


「…体が…ある…?」


夏樹の通ってる高校の女子用制服を着ている。


今は冬服の時期だから、紺のブレザーに灰色を基調にしたチェックのスカート。


嘘、どうして?


三人の強い感情が、私を作った?


そんな。


写真に写ってしまっただけじゃなく、姿まで作らせてしまうなんて。


どうしよう。


どうしよう。


家にはいられない。


母さんをこれ以上苦しめたくない。


学校……。


学校、は?


夏樹は私を知らない。


漠然とした「力」を感じる。


人の精神に干渉する力。これは…夢守の力?


これを使えば…夏樹と話せる?


――干渉してはいけませんよ。


分かってる。


でも。


夏樹が、苦しんでる。


私のせいで、夏樹が苦しんでる。


だったら、私に与えられる歪みなら。


後でいくらだって引き受けるから。


夏樹と、話したい。


光が満ちて。


私は気付いたら朝の教室にいた。




「いい写真だね」


罪の意識を抱えながら、話しかける。


――ごめんなさい。


夏樹の記憶をいじる。


話せて嬉しい。


そんなこと、思っちゃいけないのに。


夏樹以外の人に私の姿は見えないみたい。


空間に揺らぎのようなものができて、二人の世界が作られる。


夏樹のクラスメートたち。


生きて生まれていたら、私のクラスメートになっていたかもしれない人たち。


お願い、夏樹と仲良くして。


これ以上彼を追い詰めないで。




夏樹が立ち直ったら消えるつもりだった。


でも夏樹が私を見るとちょっと嬉しそうな顔になるのが嬉しくて。


予定より随分長く、夏樹の傍にいてしまった。


そして見てしまった。


彼の顔に浮かぶ、死相を。


私が招いてしまったの?


止めなくちゃ、止めなくちゃ。


夏樹がいなくなったら父さんも母さんもまた悲しむ。


また…苦しむ。


もうそんなのは見たくない。


「碧サン…これ以上は、駄目ですよ」


「ごめんなさい。その言葉は、聞けない」


「……強情なのは親譲りですかねぇ……」


「…許されなくたっていい。夏樹が無事に生き延びてくれるなら、どんな罰だって受ける」


「やれやれ…」


「夏樹が生きていてくれるなら、私はどうなっても構わない!!」


大切な片翼。


これ以上誰にも。


貴方を傷つけさせない。


私が護る。




車に轢かれる夏樹と車の間に割り込んで突き飛ばす。


吹き飛ばされた私の身体は奇しくも夏樹に覆いかぶさる形になった。


――よかった、怪我はしてない。


泣きそうな夏樹の顔。


それに混じる、驚愕の色。


「だい…じょう、ぶ…?」


泣かないで。


泣かないで。


貴方が泣いたら。


私がいる意味がない。


「えいえん…あげる、ね…」


「馬鹿!喋るな!!」


「ね、写真、撮ってよ」


泣かないで。


私を忘れないで。


――生きて。


「…最期の…わがまま…聞いて?」


「最期なんていうな!」


ごめんね、夏樹。


本当は…生まれる前から終わってたの。


私の人生に始まりなんてなかったの。


だから最期じゃ…ないんだ。


『大好き…』


その言葉、届いたかな。


シャッターを切った夏樹の前で、私は笑えていたかな。


わがままばかり言っててごめんなさい、神様。


夏樹が私に気付いたら。


もう一度だけ、会わせて下さい。


そしたら地獄でも何処にでも行くから。


どんな罰でも受けるから。


もう…わがまま、言わないから。




夏樹に全てを告白する。


とても辛かったし苦しかったけれど、私がしなくてはいけないことだから。


父さん、戻ってくるといいね。


私の永遠、受け取ってね。




夏樹。


夏樹。


愛しい兄、或いは弟。


夢で見た夏樹と同じ姿だった。


ちょっと長いふわふわの髪。


世界が変わっても優しい目はやっぱり父さんに似てた。


高くも低くもない声。


耳に心地よかった。


夏樹。


夏樹。


私の片翼。


貴方は、飛んで。


自由に、生きて。


そして――罪深い私を、どうか忘れないで。




「出会った」のは新緑の季節だった。


千年桜。


桜は、咲いただろうか。


華の雨は、降っているだろうか。


夏樹の心を、暖めて、癒してくれる、花吹雪は、吹いているだろうか…?


夏樹…。




華の雨は慈愛の証


華の雨は嘆きの証


はらり


はらり


舞い散る桜の中で


少年は空を見上げる


ひらり


ひらり


束の間の邂逅を果たした片翼に思いをはせて


ふわり


ふわり


かつてあった世界


壊れてしまった世界


千年桜のお守りは


今何処で咲いているのか


夏の雨は懺悔の証


崩してしまった日常を悔いて


父は家を去る


崩れてしまった日常を惜しんで


母は偽りにすがる


ぽつり


ぽつり


一粒 また一粒


雨粒が天から降る


涙のように


雨に打たれて花が散る。


風に吹かれて花が舞う。


夏の雨。


華の雨。


二つが 重なった。




――いい写真、撮れた?夏樹――


――碧に会えたら、撮ろうと思ってた――


――そっか。探して、くれたんだ――


――当たり前だろ――


――ありがとう、ね――


――此方こそ――


「いい夢は、見れましたか?」


当代地獄の番犬の呼びかけに少女は目を開く。


花がこぼれるように笑い、うなずいて。


少女は当代夢守の道を歩き出した。

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