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水星人  作者: 宗谷薄暮
第一章
3/3

水星1

 私の頭上の吊り革を観察していると、揺れは次第に大きくなり、やがてその電車に相応しくないほどになった。どうやら列車は段階的に加速しているようだ。窓の外では、代わり映えのない景色だけが移り変わっている。相変わらず幾つもの線路がさも整然と列を成しているのが気持ち悪い。窓に顔を近づけ、線路の行く末を眺めると、それらは例外なく()()()()()()に吸い込まれていた。

 その現象は()()()()()()としか形容できないので困ったものだが、非現実的であるようで、具体的にどこに綻びを誘い込んでいるのかは見当がつかなかった。線路の一本一本は確かに地平線の一歩手前まで存在しているが、あの地平線がそれらを巧みに覆い隠しているようだった。それが普通の地平線と何が異なるのかは分からない。実は等価だと誰かが言うならば、その通りなのかもしれない。しかし、現時点で存在しない誰かよりも、この地平線が線路を無限のままに有限な世界に畳み込んでいるのかもしれないという私に由来する絶望的観測を信用することにした。

 十分か三十分くらい窓の外を見ていたが、やがてすっかり土星人のことを忘れてしまっていたのを思い出した。窓から目を離すと、見回すほどでもなく、土星人は先ほどと同じ場所に立っていた。彼は私が目を合わせることを、事前に全て了承していたかのように微笑み返した。今は話をするべきでないような気がしたので、彼の頭の上に目を移すと、さっきまであれほど揺れていたつり革は平然としていた。あまりにも平然とし過ぎていた。

 私は席を立ち、一番近くにあるつり革を見た。それは完全に静止していた。まるで、夏休み明けの空き教室のように、動きというものを奪われていた。恐る恐るつり革を掴んでみると、それは疑いようもなくつり革で、手を離せば一定の周期で小さく振れた。そのつり革だけが持つ完成された静けさを、私が触れることによって奪われ、低俗な領域に押し下げられてしまったように感じた。

 もしかしたら、この電車は線路との間の関わりを断ち切ったまま並行移動し続けているだけなのではないか。宇宙船が道連れなしに半永久的な宇宙遊泳を続けるよりも確かな、理想上の等速直線移動をしているのではないか。などと考えてはみるが、証拠はどこにもない。しかし、それを反証するかのように、がたんがたんがたんがたん、というあの振動音が、些か不明瞭な装いを纏いつつ、喧しく鳴り続けている。この轟音と、つり革の揺るぎなさという二つの現象はどうも矛盾していた。

 だがこの矛盾も、矛盾にあることでその整合性を保っているようだった。世の中とはそんなものだとか、その手のいい加減さを用意しておくことで、不条理な社会から自己防衛するように。


 それから私はつり革のことを忘れて、目を閉じて考え事をしていた。眠気と呼べるものは一切なく、土星人に話しかけるでもなく、かと言って他にすることもなかった。私はまだ水星人として確立してからまだ一日も経っていないし、解決の糸口が見つからない疑問は山ほどあった。ここは果たして何処なのか、私の知らない水星人の秘密とは何なのか、私の記憶や知識の源泉はどこからか、疑問は山ほどあるが、解決するために必要な材料は僅かだ。パズルのピースは足りず、パズルの完成図も額縁も無い。パズルとは関係ないダミーのピースがあるかもしれない。完成したパズルが意味のある絵画とは限らない。

 しかし、はっきりしていることが全く無い訳ではない。一つは、私が水星人であるということ。そしてもう一つ、あの車内アナウンスが言っていた「はくちょう座 X—1」より先に旅の続きはないということ。車内を見回して得た有益な情報のうちの一つだ。電光掲示板の上に路線図があったが、そこに「はくちょう座 X—1」行以外の路線、「最果て」方面だとか、「中心駅」行だとかがあるのは確認できたが、それぞれの路線は全く繋がっていないため、水星駅からは行くことはできないようだった。そういう訳で、私の抱えている疑問が旅の終わりまでに、私自身、或いは他の誰かの手によって解決されることを祈るしかなかった。

 考え事が一段落すると、疲れたのか段々と思考の連続性を保つのが困難になっていった。あの、がたんがたんがたんがたん、という音は遠くなっていき、土星人の枯れた声が縦横無尽に反響し、飽和した。

「……それ……水星……崩…………記憶……ませ……」

 その曖昧さ故に幻聴かもしれないと目を開けると、私は見知らない小さな診療所にいた。私は、診察室前の狭いスペースの、妙に座り心地の悪い長椅子に座っていて、壁にはその診療所の認定証だとか、季節病予防に関するポスターだとかが貼ってあった。

「絵の具はもう混ざりきってしまった」

 その声は私の喉から発せられた。誰かに話しかけているようだ。

「それでも君は定期券を持っている」

 その誰かがそう答えるが、なぜか声質という情報が欠落してしまい、男か女か、老人か子供か分からない。声の正体を見てやろうと試みるが上手くいかない。私の体の支配権を私は持っていないらしく、首を動かせない。私以外の誰かが体を乗っ取り、好き放題しているようだ。

「三十七手先で詰みさ」

 ()は呆れたような声で呟く。

「君が諦めたら僕はどうなってしまう?」

 悲痛な声で私を咎める。私の体はその声に応じて、何もかも拒絶するように頭を抱えた。それから数ミリ秒の、しかし確かな沈黙が生まれ、声によって崩壊した。

「すまない」

 脈絡のない感情の波に攫われ、大粒の涙が目尻に溜まっては垂直に落下した。その粒は薄い萌葱色の床に吸い込まれ、それから床全体が湿り始めた。やがて足の親指の爪の溝の辺りまで、床から染み出してきた水の境界が形成された。この悲しいという感情が、私自身のものか、それとも()の方の感情に当てられて湧いたものなのか、分からなかった。私の体が支配されているならば、脳も同様に支配されていると然るべきだし、一方で私は()とは別に意識を持っているはずだった。どちらにせよ悲しいという感情がそこにあるのは確かだった。

 涙が枯れきった頃には、私ではない一人はもう何処にもいないようだった。

 ……がたんがたんがたんがたん……


「水星人様にお尋ねしたいことが一つあります」

 その呼びかけの意味を理解できず、最初は韓国語か何かで捲し立てられているのかと勘違いした。それから暫く経ち、やっと電車の中に居るということに気が付いた。ほんの数分前にこの場所にいたというのに、その記憶はすっかり頭の片隅に追いやられていたようで、思い出すという行為を必要とした。

「あ、ああ」

 土星人の質問は何だったか、と考えたがその質問はこれからされるものだ。土星人の声で一瞬気を取られたが、あれは何だったのだろう。夢ならば単純な話だが、感覚があり、その記憶は明瞭で、この世界と一続きだった。しかし土星人の問いかける声により、思惟は中断された。

「なぜあの駅が水星駅であったのか、貴方に疑問を投げかけざるを得ないのです」

「はあ」

 ただでさえ事態が把握できていない私に何を求めているのだろう。

「それというのも、水星人様が敢えて水星駅を選んだというのは偶然にしては出来すぎであるように思うのです。いや、実際は選んだという訳ではありませんが、水星人様の要件に水星駅が上手く合致した。本来ならば交わることのない二つの独立な現象の邂逅。これだけでも驚くべきことでありますが、更に水星人様は、水星駅であの水星をご覧になった。ここまで状況証拠が揃っております。私どもとしては、何らかの関連性を明らかにしておく必要があるのです」

 土星人の語りは、それまでの冷静沈着な印象をそれだけで損なってしまうほどの不可視な凄みを持っていた。しかし私は、その語りの前提すら把握していなかった。私が理解できたのは、私と水星駅と、そして水星には繋がりがあるのかを尋ねているということだけだ。

 水星人と水星駅は分かるが、水星とは何だ? 思い当たる順に調べるべく窓の外、薄ら青い空を見上げると、あの駅で見た昼の満月は、未だそこに居座っている。あれは水星とやらでは無さそうだ。確か、反対側に白い星が光っていたはずだ。だが、反対側の窓から空を見ても白い星はない。見間違いかもしれないと空の隅々まで目を走らせるが、黒い星がぽつんと光っているぐらいだ。しかし黒い星に用はない。あの駅で見た白い星は何処かに消えてしまっていた。察するに、あれが土星人の言う水星なのだろう。しかし、だからと言って白い星と関わり合いになる筋合いはない。水星人と水星。同じ「水星」という単語で呼ばれるという以上の関連性があるようには思えない。

 さて、私は土星人にどう返してやれば良いのだろう。土星人はさっきから粛々と私の答えを期待しているように見受けられるが、素直に知らないと言えばそれで済むものなのか。土星人は私が答えられると信じ切っているようだ。確かに、私はそれを知らないと断言できるほど、私の物事に対する無知性を深く知っているとは断言できない。

 そういえば。あの時は、自然に私の口から土星人という言葉が出てきた。そう、一切思考というプロセスを介せずに言葉を紡ぎ、しかもそこに正解があった。今回も同様の手法が使えるならば、それは土星人の質問に答えられるだけでなく、私の知らない水星人の秘密に近づけるのではないだろうか。何も話さなければ言葉は生まれない。単純な話だ。

「水星というのはよく分からないが、水星駅と水星人の関係は簡単だよ。水星人は水星駅から生まれたのだから」

「いえ、水星人様は水星人でございます。水星駅という存在とは全く無関係に」

「だけど、私は水星人という名前を、あの駅名標の水星という単語からとった。それまでは誰でもなかったけど、水星駅があって初めて私が確立した。だから列車が来たんだろう? 無関係ではないさ」

 そう言い切ると、土星人の顔が次第に強張り始め、スルメみたいに豹変した。

「それは、尚更におかしな話です。私どもの土星人という呼称と、水星人様の水星人という概念は、本質が異なるのです。有り得ません。全ては水星人という偶像から派生しております。水星駅や水星はそれらとは別個に体系を持っておりますが、それでもはじめに水星人があったのでございます。それより前に言葉はないのです」

「それはどういうことだ? 私が神だとでも言いたいのか?」

「神は水星人の要素のうちの一つと言えるでしょう。そして、水星人様だけが水星人ではありません」

 何だかどんどん話が大きくなってないか? 終いにはこの世界が水星人だとか言いかねない。

「ならば何故私のことを水星人と呼ぶ?」

「それは確かに水星人様が水星人だからでございます。他に水星人の名前を持つ者はおりません」

「つまり、水星人という名前と、水星人という存在は別で、私は水星人という名前を持つ水星人だということか?」

「左様でございます」

 なるほど、水星人とは何かは依然として不明瞭だが、それでも問題の分離に成功したようだ。それならばもう一つ。

「ならば土星人は水星人か?」

「いいえ、私はただの土星人でございます」

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