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水星人  作者: 宗谷薄暮
第一章
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第一夜

 見知らない場所に居た。コンクリートの上だ。見下ろすと錆びた線路が見える。何処かの駅のホームだろうか。私以外誰も見当たらない。風の音すら聞こえないので、自分の呼吸すら喧しく聞こえる。

 私はいつからここに居たのだろう。気がつくとここに居た。何処だろう。その前は何処に居たのだろう。私は誰だったかな。

 それらの疑問に対する正解は記憶にない。しかしどうだろう。私が誰かという問いに回答があるのだろうか。私は今生まれたのではないだろうか。私の意識はこの瞬間に芽生えたのではないだろうか。奇妙な考えだが、不思議と受け入れてしまう。

 そうだ、私が誰なのかなんてどうでも良いのだ。それより、このまま突っ立っていても仕方ないじゃないか。

 ふと自分がどんな声をしているのか気になったので、小さく「ああ……」と呟く。想像と反し、どことなく中性的な調子の声。小さな声は、まるでトンネルの中で叫ぶかのように反響し、緩やかに減衰する。一層無音の空間が広がる。

 周囲を調べてるために一歩前に出ると、足裏に痛みを感じた。どうしたことだろうか、靴を履いていない。手で体に触れてみると違和感がする。どうしたことだろうか、服すら身に着けていない。それらを意識した途端、肌にツンとした寒さを覚える。何だってこんな格好をしているんだろう。

 しかし羞恥心と呼べる感情は依然として湧かない。思考は曇りガラス通して世界を見るようにボンヤリとしている。

 何となく後ろを振り返ると、いかにも場違いな長椅子が置かれていた。それは小さな公園にある方が相応しいようなベンチで、その上に真白な服と靴が置かれてある。誰の所有物なのだろう、和服のようにも見えるが、紺色で染められた模様から受ける印象は日本的ではない。まあ何だって構わないさ。その服を手に持つと、あまりにも軽くて驚き、更に見事な肌触りに感心した。着てみるとやはり心地良いし、とても暖かかった。


 ホームを隅々まで見渡してみる。ホームは線路を挟むように幾つも隣に並んで、先が目視できないくらい遠くまで続いている。同様に線路も何十本あるのだろうか、ホームに並列に敷かれている無機質な集合体をじっと眺めていると、ゲシュタルト崩壊を起こして眩暈を覚える。

 線路から目を逸らそうにも、辺り一帯線路だらけだ。どうも耐えきれなくなって、空を見上げる。雲一つない青い空が広がっているが、どこか薄暗い。

 ああ、太陽がないのか。

 空には太陽の代わりに昼の満月が浮かんでいる。太陽のない青空がこれほど空虚なものだとは。思わず身が竦む。昼の満月とは反対の方角に、白い星が一つだけポツリと孤独に光っている。しばらく非常識な空を見上げていたら、宙をも飲み込むような深い欠伸をしていた。


 駅のホームを端から端まで歩き回ってみた。隣のホームへの通路は用意されていない。改札なんかも見た限りでは無さそうだ。跨線橋は確かに私の頭の上にあるが、何処にも繋がらずにホーム上空を横断している。ここから他のホームに移動するには、一度線路を横切るしかないようだ。

 ここは一体何なのだろうか。日本にこんな駅があるなんて聞いたことがない。この駅は何処かと繋がっているのだろうか。この無数にあるホームの何番線に私はいるのだろうか。

 そういえば、駅名標は無いのか?

 不意に閃いて天井の方を見上げると、さっきまで一度も視界に存在していなかった駅名標が確かに存在していた。


 水星[Mercury]


 行き先も隣駅の標示もなく、「水星」とだけ書いてある。水星とは何だ? まさか太陽系第一惑星のことではないだろう。灼熱の星。極寒の星。一日が一年より長い星。太陽に最も近い星。水星。だがここは水星ではないだろう。どう見ても地球だし、しかもわざわざ日本語で書かれている。

 私が駅名標の示す水星の謎についての思考を巡らせていると、私の口はなぜか私の思考を介せずにこう呟いていた。


「水星人」


 口を衝いて出たそのフレーズは、妖しくも深遠な響きを持っていた。


「私の名前は水星人だ」


 そう宣言すると、それ以前何者でもなかった私という固有の現象が水星人の私として確立した。

 私は水星人としてこの水星駅、N番線ホームにただ一人立っている。たった今、とある水星人がここに誕生した。

 なるほど、私のアイデンティティは私が創出してやるのだ。水星人という言葉は私と共に、立体的に構成され、相乗的な干渉を生み出すのだ。水星人は密やかな情緒の浸って、僅かに口角を持ち上げていた。

 ……がたんがたんがたんがたん……

 どこか遠くから、音がする。

 ……がたんがたんがたんがたん……

 私以外の音がする。

 ……がたんがたんがたんがたん……

 少しずつこちらに。

 ……がたんがたんがたんがたん……

 音のする方を見やると、真っ白な電車が、私のいるホームに向かって来ていた。幾つもの多様な白のペンキを手作業で塗りたくったような車体の側面には、私の服に描かれているのと同じような不思議な紺色の模様が描かれている。

 ……がたんがたんがたんがたん……

 私の目の前を何両もの車両が通り過ぎていく。乗客のいる気配はしない。徐々に減速していって、遂に十四両目、四番目のドアが私を迎える。


 プシュー、グウウ……


 十四両目、四番目のドアだけが開く。どうしようか、これは乗るべきだろうか。確かにここにいてもどうしようも無さそうだし、悩んでも仕方のない気がする。私の目の前のこのドアだけが開いた。私に乗れと言っているようなものだ。

 しかしだから乗れというのは癪に障る。私は水星人だ。入力に対して無条件に出力を返すような機械ではない。ここで何の思慮もなく乗ってしまうのは短絡的すぎる。

「ではご乗車にならないのですか?」

「そうは言ってない。え?」

 そこには声の主らしき黒いスーツ姿の老年の男が、ドアを隔てて車中に立っていた。

「誰? いつからそこに?」

「私のことをお聞きになりますか? その必要がお有りでしょうか?」

 男はニコリと穏やかな表情でそう答えた。

「私が知っているって?」

 何を言ってるんだろうこの男は。

「私が知っているのは、私が誰かということただ一つだ」

 男は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐにまたニコリとしてこう続けた。

「ならば私のこともご存知のはずですよ」

 カチンと来た。どうして私がこの男なんかを知ってなくちゃならないんだ? 私は何処から来たかも、何故ここにいるかも知らないというのに。

「あまり変なこと言ってると……」

 私の言葉を遮って男は言った。

「ああ、水星人様とお呼びした方がよろしいでしょうか?」

「どうして!」

 この男は私のことを知っているのか。男の表情は相変わらずニコニコしている。私以外知らないはずの私の名を知っている。この男に対する不安感で鼓動が早まるのを感じる。

「何処で私が水星人だと知ったんだ、土星人?」

「ええ、水星人様と同じように」

 だからこの男は何を言ってるんだ? 逃げ出してしまうべきか? いや、でも何処へ? さらに心臓がバクバクと脈打つのが感じられる。額に冷んやりとした汗が滲む。

「土星人と私をお呼びになったでしょう?」

「え?」

「水星人様は確かに私のことをご存知でしたね」

 私は先ほどこの男に対して土星人と呼んでいたことを、それを指摘されるまで全く気がついていなかった。それよりも、何故私はこの男を知っていたんだ? いや、知っていたというより自然に言葉になったという方が近い。私の無意識的な何かが関係しているのか? 私が今ここにいることと関係があるのか? 水星人には秘密があるのか?

「それはさておき、差し支えなければご乗車頂けますか?」

 私が土星人と呼び、自らもそう名乗るこの男は何者なのだろう。しかしこの男が土星人だということには妙に確信がある。その証拠だろうか、さっきまでどんどん心拍数が上がっていたのが、嘘のように平静としている。

 ふううと一度深く息を吐き、それと同じくらい酸素を取り込む。もう大丈夫だ。

「じゃあ乗ろうかな」

 土星人は依然として微笑む。

 車内の床と駅のホームの間の小さな溝を意識して跨ぐ。結論から言えば、私は私が誰だかを知ってはいるが、他のことは何も知らない。だからこの電車に乗って、先に進もう。私の知らない水星人の秘密を暴くのだ。


 グウウ、プシュー、グッ……

 ……たァらァラァラぁラぁたぁラァラァラー……


 ドアが閉まると、発車メロディが鳴り響く。何の曲だろう。少しだけ調律が外れていて不快だ。いつかどこかで耳にしたという記憶はあるが、どうしても名前が思い出せない。確か元はピアノの曲だったかな。

 その電子音を聴きながら、窓の外の景色が動き始めるのを待つ。行先に、線路とホーム以外の景色はあるのだろうか。

 なんて思っていると、ガタンと一度揺れて電車が動き出して、思わずバランスを崩し、とっさに手すりに捕まる。土星人はというと、感心するほど見事な直立不動だ。体勢を立て直し、ドア横の座席にさっと座った。

 すると、録音された女声のアナウンスがどこかのスピーカーから聞こえてきた。


「この列車は、各駅停車、はくちょう座 X-1行」

「次は金星、金星…………

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