第02夜:爆炎の大魔導皇
魔法都市国家群・首都パルフェルム中央宮殿内に於いて上級魔術師が叫ぶ。
「レイシャ様が、御戻りになられたぞ!」
緑閃光色に煌々と輝くは、複雑に入り組んだ十六層から成る複層魔法陣。
その中心にある出力基点より、高濃度に圧縮された魔力の瘴気を身に纏って姿を現したのは、世界最高の術者にして最大の魔力を誇る大魔導皇。
繻子織のように滑らかな褐色の肌に、神々に祝福されし類稀な美を放つ容姿。エルフ族最大の特徴である長く尖った耳を持つ。世に国色天香と謳われし絶世の美女。
この者こそ、エイティシア初代皇帝、レイシャ・エイティシアである。
陶然と細く開かれた両眼より、朝露に輝くが如き仄かな光が零れ落ちる。
色香漂う薄化粧に染めた様な頬、艶やかな口唇より甘く切ない吐息をゆっくりと洩らすと、彼女を見慣れている筈の従者や弟子たちですら、その美しさに目を奪われ圧倒す。
全身から溢れ出す麗しき美の極光は、普段よりも鮮烈な輝きを放っていた。
「余は……積年の大願を成就せり……」
尊き御声より紡がれし囁き――この研究に携わった数多くの魔術師たちを、その一言で感動に打ち震わせた。その反応は漣の如し。瞬く間に中央宮殿の魔術試技場は隔壁内に広がった。
レイシャはこの時を以て、長年の宿願である魔法術式最上位を冠する未解決問題、魔力間相転移動的時間魔法、通称「タイム・リープ」を世界で初めて成功へと導いたのだ。
最上級にして至高と呼ばれるこの魔法は、転位対象時空と同時間軸にある自らの肉体と魂を相互に魔力へと変換することにより、高出力の魔力によって一時的に形成した疑似的ワームホールを開放させ、現在と過去への移動を可能にする革新的な魔術理論であった。
かつて『冥界の魔女』と呼ばれた大魔導師エリノアの予言せし魔術理論を解析し、『エリノアの後継者』とも呼び名される帝国の最高顧問・カーリナの助力を得て、凡そ三百年の刻を掛けて遂にレイシャが完成させたのだ。
レイシャは磨き上げた水晶の如き瞳を閉じ――ゆっくりと開く。
じっと天井を見上げると、眩しそうな眼差しで甘く官能的な吐息を漏らした。
「彼の面影は、余を深淵の聖櫃へと導かん」
そう彼女は呟いた――と、後の歴史書は語る。
永久の彼方を見据えたようなやや潤んだ瞳と、薄く開かれた口唇より紡がれし妖艶な御声。そして麗しき姿は、いつにも増して鮮やかな光彩と色香を放つ。
それにしても――これ程までに皇帝陛下の婀娜やか為りし様はない。
その姿を拝謁した宮廷女官たちは、憧れの存在である彼女の、まるで聖堂の聖画像そのままに体現した様な、崇高美溢れる容姿に気圧されて、喪心はおろか卒倒する者まで現れた。
「余は、少々疲れた……暫し休ませて貰うぞ」
高度な術式を魔方陣として敷設し用いて行われるこの魔法には、膨大且つ高濃度の魔力を必要とする。無尽蔵とも噂されるレイシャの魔力も去ることながら、それが有限である以上、魔法の根源となる魔晶石を利した外部からの魔力供給が必要になる。
その量は、凡そ三百名の中級魔術師が三か月間を掛けて創出する魔力に匹敵しよう。
「皇帝陛下は、お疲れであらせられる!」
「自室への回廊を開け! 一切の障害は罷り為らん!」
レイシャ直属にして固い忠義を誓う精鋭部隊、皇帝親衛隊隊長ヒルデガルドが叫ぶ。
彼女ら一団を先頭にして、従者により身に纏った装飾用の外套を颯爽と翻せば、その威風堂々たる行進の往く手を阻む者はなし。誰しもが恭しく道を開ける。
大理石の彫像で惜しげもなく飾り立てられた大回廊を、紅き瀟洒な最高級絨毯を惜しげもなく踏み拉きて足早に闊歩する。四頭立ての馬車を何台も横に並べて通れる程に広い大回廊の、城門の如き大扉が魔力回路の計算通りに次々と開扉されてゆく。
寝室の前にその行き足を止めると、付き従う皇帝親衛隊らの方へ振り返る。
その顧みるご尊顔を仰ぎ見みれば、レイシャの何処かぼんやりとした表情は、幼少の砌と変わることはなかった。どうやら落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
だが皇帝となった今ではそれすらも、神々しき大河の流れが如く泰然とした佇まいに見えてくるから、実に不思議なものである。
「余の安眠を妨げるな。人払いを固く頼むぞ」
「はっ、御意! しかし陛下……」
何事か言い掛けた近侍の親衛隊隊長を、レイシャが右手を翳して制した。
隊長は、その指示を目にして直ちに機微を察したか。偉大なる皇帝の命に逆らうことなく、恭しく頭を下げて回廊を数歩後退する。
自室を封印する巨大扉を開く為、レイシャは開錠の呪文を唱えた。
「アンロック・ロイヤル」
これは対魔術師用に考案された、独創魔術である。
個々特有の魔力を引き金にして、固有の人体認証を完成させる魔法鍵を作り出す。対となる魔法が特殊鍵を掛ける「ガーディアン・ロック」である。
ゆっくりと開き始めた扉の向こうへ、その身を滑り込ませると、レイシャはすぐさま扉を閉める魔法を掛けた。これでもう、誰もこの部屋へは侵入できまい。
強固に閉ざされた扉を確認すると、レイシャは小さく拳を握りしめて呟いた。
「やった……やった……!」
スキップしてしまいそうな気分をぐっと押さえ込み、自分のベッドへと急ぐ。
いつもであれば身に着けた衣服を全て脱ぎ棄て、瑛斗に貰った『黒き精霊の首輪』ひとつでベッドへ潜り込むところだ。だが今日はそれすらも時間が惜しい。
走り込んでベッドへダイブすると、手近なクッションを思いっきり抱きしめた。
「ああ、やっと逢えた! 逢いたかった! 逢いたかった……エート!」
レイシャ自室の天蓋付きの豪華なベッドは、通常のダブルベッドで優に十倍以上の広さを持つ。幾らはしゃいで転がろうが、飛び回ろうが、決して転がり落ちることはない。
今のレイシャは、思う存分転がり尽くしても足りないくらいの気持ちであった。
「ああんっ、エート! エート! エートぉっ!!」
枕に顔を深く埋めて声を押し殺すと、積年の思いの丈を思う存分吐き出した。
「好き……好き好き大好き……だいしゅきー……っ!!」
足をばたつかせて、瑛斗代わりのクッションをくしゃくしゃに抱きしめる。
「ええと、あの、お楽しみ中のようですわね」
そんな折、不意にベッドの端からよく知った声が聞こえてきた。
彼女とは彼是二百年近い付き合いになろうか。ひょっこりとベッドサイドから出してきた顔は、やはりよく見知っていた。
「……居たのか、貴様」
「はい。居りましてよ、お姉さま」
レイシャはそれ以上何も云わず、スッと優美にベッドの端に座る。
ゆっくりと居住まいを整えると、何食わぬ澄まし顔で答えた。
「して何用か、ヴァンフリーデ」
「お姉さま、それは無理が御座います」
ああ、ついにやってしまった……いつぞやの某ハイエルフの奇行。余は最早、笑うことが適わぬではなかろうか。
雪氷さながら冷厳な表情の裏で、レイシャの背中に滝の様な汗が流れる。
「貴様、何処に居た」
「もちろん、ベッドの下で御座いますわ」
もちろんとか言われても、それはちょっと同意しかねる。
「何故そんなところに居たのだ。害虫か何かか」
「嗚呼、お姉さま。あなたについた悪い虫になりたい」
「いちいち気色悪いことを申すな」
「はっ、御意」
そうわざとらしく一礼するこの美女の名を、ヴァンフリーデと云う。
彼女は『爆炎の大魔導皇』の『右腕』と呼ばれる程の実力を持つ、ダークエルフにして優秀な魔術師である。
レイシャと同じ褐色の肌に尖った長い耳。涼やかにして切れ長の瞳に、銀の片眼鏡を掛けた光彩奪目とは斯くやの美女――であるが、レイシャのことを溺愛し過ぎた所為で、大好きで大好きで大好きが昂じて、どこかおかしい。
有り余る情熱と知性を無駄遣いする変態さんであり、大変有能な残念系美少女である。
そういえば皇帝親衛隊隊長のヒルデガルドが、何事か言い掛けていたっけ。もしやコイツのことではあるまいか、とレイシャは思い起こす。
「さて……まずは貴様を詰問しようか」
「はい、お姉さま」
羞恥心を棚に上げ「コホン」と咳払いすると、ヴァンフリーデが恭しく一礼する。
「今日に限ってどうして余を見守った」
レイシャだってそれくらいは知りたい。何故これ程までに余を見守ったのか。
いつもであればヴァンフリーデは、レイシャの姿を見るや否や、甘え声で飛び掛かって抱き付こうとする。そこで爆炎の魔術をぶっ飛ばして追い払うのが、世の常である。
「いつでも私のお姉さまならば、パパッと全裸になってベッドへ潜り込みます」
「そうだな」
「だから、ちょっと珍しいなって」
「余に対して、無駄な洞察力を発揮したな」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてないから、そういうのは止めて欲しい」
「はっ、御意」
ヴァンフリーデは、わざとらしく一礼する。
「しかし、我慢して正解でした」
「なにがだ」
「おかげで、もっと珍しいお姿が見られました」
「余に対して、無駄な忍耐力を駆使したな」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてないから、そういうのは止めて欲しい」
「はっ、御意」
またしてもヴァンフリーデは、わざとらしく一礼する。
「して貴様、いつから侵入した」
「はい、前日からですわ、お姉さま」
前日からベッドの下に潜り込んでいたのか、この害虫は。
「何処から侵入った」
「もちろん窓からですわ、お姉さま」
もちろんとか言われても、それはちょっと同意しかねる。
ちなみに此処は、地上百メートルはあろうかという城砦の最上階である。
しかも扉から窓に至るまで、特殊鍵魔法が施されている。
「施錠は、第八階層からなる複合式多重結界鍵だぞ」
「解除までに、凡そ一昼夜。十八時間ほど掛かりました」
貴様、もしやと思ってはいたが、やはりストーカーの類いか。
「本当に心の底から、そういうのは止めて欲しい」
「はっ、御意」
そんな芸当が出来るのは、今世に数名しかおるまい。
残念ながら、その内のひとりが、この変態さんである。