原稿団地の少年
1人、3人、1人、と。お客様が帰っていく。時刻にして3時半、バーから最後のお客様が帰っていき、がらんとなった店に、自分のため息だけが目立つ。決して疲れや、経営に頭を抱えてのため息ではなかった。やっと1人になれた、のため息。バーのマスター小野大吉は、カウンターに回りノートパソコンを開く。今日こそは完成させたいなぁ、なんて、開店直後から思っていたことを口に出した。
小野は文章を書くことが趣味だった。そこには小説家になって本を出したいだとか、文章で食べていきたいだとか、そういう欲はそこにはなく、ただただ文章を書くのが好きで趣味だった。今回だって誰かに見せるわけでもなく、無期限の締切日を目指して、完成した文章が見たい一心で、小野は書いている。
ふと、行き詰まり、気分転換に珈琲を淹れようと席を立った。今回書いているのは、少年が主人公の小説。小野は自身がどんな少年だったか、何を見て、何で笑い、何で泣いたか、少し考えようと思い、すぐ、やめた、 どうせ人並み以下な少年時代で、今だってそうだろうと、自虐的になった。物心ついたときから団地に住み、団地を見て育ってきた。少年は個性のない自分の家、町に退屈していて、そこから本、文章、に辿り着いたのが小野少年で、今の小野大吉。退屈そうな少年が、淹れた珈琲の湯気に映って見えた。
からん、と店のドアが開き、小野は慌ててノートパソコンを閉じる。
「い、いらっしゃいませ」
こんな時間に来店があること、原稿に集中していたことで小野の声がひきつった。来たのはリクルートスーツに身を包んだ、若い女性。
「まだやってますよね?」
「やって…るけど、もう少しでラストオーダーの時間だよ」
「いいんです、始発まで過ごせれば」
女性は、そう言ってカウンターに座る。ノートパソコンも珈琲も出しっぱなしだ。
「あ、コーヒーあるんですか?」
「メニューにはないけど、いいよ、コーヒーでも」
こんな朝方から飲酒をしそうな雰囲気はなく、そう見えたのはリクルートスーツのせいもあるのだろう。女性は嬉々として珈琲を頼んだ。
珈琲を淹れながら、なぜバーに来たのかと悶々とした。朝方、リクルートスーツ、若い女性、バー来店、これら全ての組み合わせがイレギュラーだと、小野はわかる。淹れた珈琲を女性に出した。
「マグカップ…ピカチュウの絵、可愛いですね」
「メニューにコーヒーはないからね、悪いけどそれは僕の趣味のマグカップだ」
女性はまじまじとマグカップと小野を交互に見た。すぐに珈琲に口をつけないのは、猫舌なのか、それともマグカップのマスコットキャラクターが受けているのか。女性が口をつける代わりに、口を開く。
「あの、お店の名前素敵ですね」
「『原稿団地』?」
「そうです、原稿団地。もしかして、そういう文学関係のバーなのかなぁ…って思ったんですけど、違うんですか?」
答えが出た、どうやらこの女性、文壇バーかなにかだと思ったらしい。
「うーんそういう仲間も集まるけど、どちらかと言えば地域に愛された、地域密着系のバー、だと思うよ。」
「でも、そういう人も集まるんですね。仲間ということは、マスターも原稿をやられてるんですか?」
女性がそこで、やっと珈琲に口をつけた。
「うーん、うん、書いてる、趣味で、あとマスターじゃなくて、小野、でいいよ。小野大吉っていいますよろしく」
「やっぱり。あ、松坂唯っていいます。よろしくお願いします」
仲間を見つけた、と喜んでいる顔だった。
「松坂さんも、物書き?」
「そうなんですよ、目指してるってわけじゃないんですけど、文章を書くのが好きで、締め切りがあるわけでもないのに、毎日書いてたり…」
仲間を見つけた、と小野も思った。そこで少し、会話が途切れる。基本的に、小野は、バー空間での、各々の時間を尊重する。話しかけられたら答えるが、基本的には各々、この空間に浸って欲しいからだ。しかしこの松坂唯は、少し気まずそうだ、きっと、良い人なのだろう。
「あの、えっと、なんで『原稿団地』なんですか?」
それは何回も質問されたことで、そのたびに言うことは決まっていた。
「原稿と団地が、好きだからだよ」
小野少年は、団地が退屈で仕方がなかった。同じような棟がいくつもあり、特に個性もない居住区。友達の家みたいに一軒家に住みたい、個性のある家に住みたい、個性のない町に住んでる自分は個性がないみたい、そんな風に考えていた。無という冷たさから逃げるように、文学の世界に入門した小野は気づく。
「わかります。団地、良いですよねぇ…」
「おお、わかってくれる? あの同じ棟がいくつもあるのが、いいんだよなぁ」
同じ顔をしていても、位置も住んでる人とで、些細に変わってくる。それは様々なストーリーが入った箱が、ジャンルごとに、無造作にたくさん置いてあるようで、そこらの住宅街より密で質がある。
「私、今『団地』の概念について書いているんですよ」
「似たようなの、僕も書いているよ、団地に住む少年の話」
夜が明け、あの原稿団地で、少年が目覚める時間がやってくる。




