第八十七話 堪忍袋
俺が美咲との電話を強引に終わらせた直後から美咲は何度も電話を掛けてきていたが、乗り込む飛行機の都合もあり、翌日には美咲も俺を連れて行くことを諦めてハワイへ旅立ったものと思っていた。
そのため、イギリスから帰国してマンション『イリス』の部屋に帰った時、部屋の中に美咲はいなかったが特に気に留めなかった。
俺がそのことを告げると、樫山専務は青筋を立てて声を張り上げた。
「君には、情というものはないのかね」
「私は初めから、ハワイには行かないと何度も申し上げました」
樫山専務の剣幕にこのままでは不味い状況になるのではないかと感じ、俺は敢えて何事もない風に装いできるだけ事務的に応じた。
「美咲が、君とのハワイ行きを楽しみにしていたことは、君も知っていたはずだ。それを、一人で置き去りにされてどれ程に傷ついたか、君には思い至ることができないのかね」
「私には、私の都合があります」
ここがどこなのか忘れてしまっているのではないかと思えるほどに、樫山専務は憎々しげに言葉を吐いた。
だが、会社の専務室で言い争いをして騒ぎを起こすことを極力避けたかった俺は、端的に言いたいことだけを口にした。
そんな俺の態度が、許せなかったらしい樫山専務は命令を下した。
「美咲は君のせいで心に深い傷を負い、今はうちで休んでいる。君にはその責任を取ってもらう。今日からは、君も美咲と共にうちに住み、私の監視の下で美咲の傷が癒えるよう最大限に努めてもらう。これは命令だ」
「お断りします」
「君には、断る権利はない。そんなことをしたらどうなるか、分かっているはずだ」
あまりにも身勝手な要求に怒りで思考が飛び、頭の中が真っ白になりかけた。
だが、それより一瞬早く、反射的に口が断り文句を紡ぐ。
しかし、樫山専務は勝ち誇ったように俺には『権利』がないと言い放った。
俺は、我慢の限界を迎えようとしていた。そんな俺に、俺の警戒心が『梨奈の下へ帰れなくなるぞ』と警告を発した。
瞬時に冷えた頭の中の記憶から、達樹の忠告が引き出される。
『いいか。相手に無理難題を吹っ掛けられたら、弁護士に相談すると言って速やかにその場から離れろ。決して、その場でなんとかしようと思うなよ』
「弁護士と相談の上で、対応を決めます。失礼します」
達樹の忠告に従い俺はその場での返事を保留にし、即座に専務室を出て樫山専務が次に何か言うのを押し留めた。
「何かあったのか」
足早に自分のデスクに戻った俺に隣の席の山内が怪訝な顔をして問い掛けてきたが、今にも荒れ狂いそうになる感情を押さえ込むだけで手一杯だった俺は、その場を取り繕う心の余裕がなく『今日は、これで帰ることにした』と告げて、急いでデスクの上を片付けて外へ出た。
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございます。
来週もよろしくお願いします。




