第七十五話 父の願い
美咲が暴挙に出なければ今頃は梨奈との結婚式の準備に追われ、仕事の忙しさも相俟って『忙しすぎて目が回りそうだ』と、達樹に幸せな愚痴の一つも零していたかもしれないと思うと、悔しさと怒りと梨奈に対する愛情が千々に入り乱れて、大声を上げて怒鳴り散らしたい欲求が沸き、言葉が喉を通り抜けそうになり俺は唇を固く引き結んだ。
「お前の言いたいことは分かった。だがな、問題が解決したら、必ず梨奈さんを紹介しろよ」
「……父さん……」
父が雰囲気を和らげいつもの口調で話しかけられた俺は、耳に言葉は入ったものの頭が別のことに気を取られ、それを理解するまで時間が掛かった。
「今でも、梨奈さんと結婚したいと思う気持ちに変わりはないんだろう。それとも、諦めたのか」
父の『諦めたのか』と言った言葉にハッとした。
「何で諦めなきゃいけないんだ。俺は、梨奈を裏切るようなことは一度たりともしていないんだ」
裏切っていないと言葉にしながら美咲との忌まわしい行為が思い出され、俺の心情ではあの出来事は梨奈を裏切る行為には値しなかったが、子供の存在が重石となり美咲への憎しみが弥が上にも増した。
「だけど、何でお前だったんだ。他にも男はいろいろいただろう」
俺の気を散らすように投げ掛けられた父の疑問は、俺にとっても今もまだ答えを見つけられない問題でもあった。
「俺もそれは気になって一度樫山専務に聞いたことがあったんだ。その時、樫山専務は容姿とか学歴とかを挙げていたけど、俺は樫山専務の娘に対して憎しみしか感じられない。そんな奴と娘を結婚させて何がしたいのか、さっぱり分からないんだ」
ジョッキの中に残っていた焼酎を飲みながら、俺の話に頷いた父が話を引き継いだ。
「それ以前に、他に結婚したいと思う女性がいて、その女性と一緒に暮らしている男と自分の娘を是が非でも結婚させたいと思う親も、なかなかいないんじゃないか」
「達雄先生と達樹は、体裁を気にしているんじゃないかと言っていたけどな……」
冷静に話そうとしている父の姿を見て感情が波立っていた俺は、殆ど手付かずのまま湯気が立たなくなった自分のジョッキに口を付けて一息に半分ほど飲み、気持ちを落ち着けて達雄先生や達樹とした会話を思い返した。
「なあ、尚哉。今が潮時なんじゃないか。ある程度は社会経験も積めただろう。弁護士を目指して新たな道へ進んだらどうなんだ」
大学院を出た後、四葉環境株式会社へ入社するか弁護士としての道を目指すか、悩みに悩んで進路を決めかねていた俺の背中を押したのは父だった。
『一度社会に出て、教科書には載っていない世の中の仕組みを知った上で弁護士として務めても遅くはないんじゃないか』
自分に弁護士は務まるのかと迷っていた俺に、父の言った言葉は説得力を持って響いた。
「そのことは俺も考えたんだ。樫山専務の意に添えないままでは、いずれ会社にも居づらくなるだろうし……。でも、達雄先生に弁護士を目指していることを樫山専務に知られたら、余計に執着される可能性があると言われて止められたんだ」
「そうか。達雄先生がそう言うのなら、今は間が悪いということなんだろう。なんとか、年内中には片をつけるようにしないとな」
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