第七十一話 居残り
この回からは、尚哉の視点になります。
マンション『イリス』の部屋の前に立ち、カードキーを差し込んで解錠し、玄関のドアを開ける。
廊下の向こうから明かりが漏れていることに気が付き、嫌な予感がして咄嗟に引き返そうかと思った。
しかし、そうしてみたところでその場凌ぎにしかならないと思い直し、通勤鞄からICレコーダーを取り出して録音状態にし、コートのポケットに忍ばせた。
それから、靴を脱いで廊下を進みリビングのドアを開けると、いるはずのない美咲が金色に縁取られた白いソファに座っていた。
「何をしている」
俺が声を掛けると、美咲は一瞬、不快そうに顔を歪めたがすぐに表情を取り繕い、自分の向かい側に座るように右手を差し出し、俺の方から椅子の方へ動かして見せた。
俺は、そんな美咲の態度に内心でいらつきを覚えたが、美咲との距離が開きすぎていてはコートのポケットの中にあるICレコーダーで、美咲との会話を上手く録音できないかも知れないと考えて美咲に近付いた。
「帰って来た時の挨拶は、ただ今帰りました、ではなかったかしら」
「樫山専務は、今日の便で発ったと聞いていたが、一緒に行かなかったのか」
俺が美咲の勧めた椅子に座ったのを見て、満足気な笑みを浮かべ帰宅の挨拶を促した美咲を無視し、俺はなぜ目の前に美咲がいるのかと問い掛けた。
樫山専務夫婦と美咲は、官公庁の御用納めが済んだ後の今日、十二月二十九日から正月休みが明けるまで、ハワイに所有しているコンドミニアムで過ごす予定になっていた。
「お父様の命令よ。尚哉さんがクリスマスに続いて今度もまたすっぽかしたりしないように、一緒に来るようにと言っていたわ」
樫山専務からは、事前に自分たちと一緒に俺もハワイへ行くようにと言われていた。だが、営業職にある者が大晦日を目前にして取引先への対応を疎かにし、休みを取って遊びに行くという話には無理があった。
樫山専務もその辺は分かっていたためか、俺が断りを入れると間髪を容れず、正規の休みに入ったら自分たちを追い掛けて来るようにと厳命していた。
「私は、樫山専務に行かないと告げてある」
今となっては、樫山専務の個人的な理由による厳命は、俺にとって何の効力もなく俺は重ねて断っていた。
「だからよ。向こうではホームパーティを開いて、親交のある人たちを招いたり招かれたりするのよ。そこに私一人で出席するような、みっともない真似はできないわ。尚哉さんだって、自分のパートナーにそんな恥はかいてほしくないでしょ」
「それなら、他の誰かをパートナーにすればいいだけの話だろ。第一、私のパートナーは他にいる」
綺麗に微笑んで自分が俺のパートナーだと言った美咲に、俺のパートナーは梨奈だと即座に否定すると、美咲は腹立たしげに言葉を放った。
「もっと、現実に目を向けたらどうなの。一ヶ月近くも連絡もせず、別の女性と一緒に暮らしている男の帰りを、ずっと待っている女なんて空想の中にしか存在しないわ。あの女だって、今頃は他の男と宜しくやっているに決まってる」
梨奈を貶めるような美咲の発言に、俺の心は氷を丸呑みしたかのようにスーッと冷え込み、美咲との会話を終わらせることにした。
「世の中の全ての女性が、自分と同じ行動をすると決め込むのは、見えている世界が狭いのではないか」
血の通わない凍え切った俺の物言いに、美咲がたじろぎながらも反論しようと口を開きかけた時、俺の携帯電話が鳴り響いた。
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございます。
今月の投稿は、今回で最後になります。
七月から投稿を始めて、約四ヶ月が過ぎました。この物語も途中で途切れることもなく七十回を超えることができ、読んでいただいている方々のお蔭だと感謝しています。
来月からもまた、順調に投稿できるように頑張るつもりですので、よろしくお願いします。




