第七十話 母の思い
「もう。困った娘ねえ。梨奈は」
半ば呆れたような母の言葉に、自分でもどうしようもないと思いながら私は口を開いた。
「分からないの。私は、どうすればいいのか……。どんなに考えても分からない……」
「答えなら、とっくに出ているでしょ」
「えっ」
「こんな厄介な問題に巻き込まれた男なんて『捨ててやるっ』と思ったのなら、今頃は別れて清々しているんじゃない」
茶目っ気交じりの母の台詞に俯いていた顔を上げると、母は私の目と目を合わせ私に言い聞かせるように言葉を続けた。
「梨奈が、そんな風に悩んでいるのは、尚哉さんと一緒にいたいと思っているからなんでしょ」
母に言われた言葉が、すとんと私の中に落ちた。
“ああ、そうか。私は、尚哉と一緒にいたかったんだ……”
自分の気持ちがはっきりと分かったことで、私はやっと出口の見えない長いトンネルから抜け出せたような気がした。それと同時に、母はどう思っているのだろうかと不安も感じた。
「お母さんは、尚哉と別れなさいとは、言わないの」
「それは……、難しい問題ね」
そう言うと、母はもう一度ひざの上に置いたパソコンを操作して、何かを探すように尚哉からのメールを流し見た後で話を続けた。
「子供を持つ母親としては、尚哉さんを引き留めている美咲さんの行動は、容認できないわ」
「お母さん……」
私を見ながら話す母の瞳に怒りの色が現れていることに気が付き、私は戸惑いを感じた。
「尚哉さんからのメールでは、美咲さんが尚哉さんのことをどう思っているのか触れていないけれど、いくら好きになった相手が自分に振り向いてくれないからと言って、子供を盾に取る遣り方は好きになれないわ。これでは、子供を自分にとって、都合の良い道具として扱っているも同じことでしょ」
母の言ったことと、同じことを私も感じていた。頷いた私を見て、母はさらに話し出す。
「それにね。この先ずっと一緒にいたいと思える相手との間に授かった大事な赤ちゃんを、こんな風に粗末に扱える人の気持ちなんて理解しようとも思わないわ」
そこで小さく息を吐き出し、母は尚哉のパソコンをひざの上からローテーブルの上に移した。
それから、身体ごと私の方を向き、私の手を取って優しく撫でながら口調を変えて言葉を紡いだ。
「メールを読んで、尚哉さんが本当に梨奈のことを大事に思ってくれていることは、お母さんにも分かったわ。こんな問題が起こらなければ、きっとお母さんは二人のことを応援していたと思う。でも、今は頑張りなさいとは言えないわ」
母の言葉に、私は気持ちが塞ぎ、目線を下に向けて母に取れている手を見つめた。
「だけどね、梨奈が尚哉さんの帰りを待っていたいと言うのなら、反対はしないわ」
頭の上から聞こえてきた母の声に、思わず母の顔を見て恐る恐る尋ねた。
「……いいの……」
「梨奈が、体調を崩すほど思っている相手だものね」
全てを見透かされているような母の言い分に、視線が逸れそうになる。けれど、母の瞳が私を捉え口調に厳しさを混ぜて告げた。
「梨奈。これだけは約束して。一人で頑張りすぎないこと。それと、一人で苦しまないこと。いい」
母の思いが心に染み込み、視界が霞んで母の顔がぼやけ出し、母の胸に抱きついて『ありがとう』と言った言葉は、嗚咽に紛れてしまっていた。




