第六十四話 夢物語
今週もよろしくお願いします。
「そんなこと、認められるわけがないだろ」
俺は短い呼吸を繰り返して痛みをやり過ごし、搾り出すようにして達樹に抗議した。
「ああ。全ては単なる樫山専務の練り上げた筋書きだ。お前が婚姻届の用紙に署名しない限り、現実のものとなることはない夢物語だ」
俺の抗議を達樹は平然と受け流したが、俺は『夢物語』だと言われても安堵することはできなかった。
「落ち着けよ。樫山専務の夢物語は、お前にとって悪いことばかりじゃない」
「どういうことだ」
達樹の物言いに、俺は腑に落ちない思いで聞き返した。
「樫山専務の目的は、自分の娘とお前を入籍させることだ。結婚式を挙げて披露宴まで執り行うなら、お前の両親の同意が必要不可欠となるだろうが、入籍だけならとっくに成人しているお前だけで事足りる。梨奈さんの存在も、樫山専務の夢物語の仕上げには必要だろうしな」
「何が言いたいんだ」
梨奈の名前を聞いて俺の身体は強張り、俺は考えることを放棄した。
「つまりだ。樫山専務が夢物語を現実のものとするためには、お前の両親に入籍を反対されることも、お前が梨奈さんと別れることも望まないはずだ。だから、お前が心配していたように次の標的となることは、今はまだないだろうということだ」
「だがな、達樹。入籍することと結婚することは同じことではないのか」
それまで黙って話を聞いていた達雄先生が、もっともなことを口にした。
「尚哉にとっては、そうなるだろうな。だが、樫山専務にとっては違うんだ。尚哉が子供を自分の子だと認め、樫山専務の娘との結婚を納得して受け入れるのを待っていたら、樫山専務の娘は未婚のまま、父親が誰なのかはっきりしない子供を産んでしまうことになりかねない。そうなっては、体裁を保てなくなる。しかし、尚哉の意思を無視して強引に入籍させてしまえば、尚哉が納得しなくても認めなくても、法が生まれた子供を尚哉の実子と認め、樫山専務の娘も正式な妻として子供を産むことができ、内情はどうであれ体裁は保たれる」
俺は達樹の話を聞き、今はまだ両親と梨奈は大丈夫だと分かっても、どうにもならない怒りが急速に腹の中に溜まっていくのを感じていた。
「不愉快極まりない話だな。だが今は、罵詈雑言を言い募るよりも樫山専務の夢物語を夢のままで終わらせる手立てをする方が先だ。尚哉君は万が一、身動きが取れなくなった時に備えて、父親の賢悟さんに事情を話しておいた方がいい。いざとなった時、賢悟さんが間に入ることで一方的に事を進められなくなるはずだからね。それと、佐伯課長にも今の話をして、もう一度尚哉君に協力してくれるように頼んだ方がいいだろう」
「分かりました。明日、話してみます」
不愉快だと言ったままに眉をひそめて『夢物語を夢で終わらせる』と達雄先生が放った言葉に、持て余しそうになっていた怒りが凝縮されて力となり、俺は
“必ず夢のままで、終わらせてやる”
と心に誓い、了承の返事をした。
樫山専務に呼ばれて訪れていた専務室を後にし、自分のデスクへ戻ると佐伯課長が近寄り短く『大丈夫か』と尋ねてきた。
周りを気にしつつ、『なんとか』と応えると佐伯課長は声を潜めて、『何かあったら、すぐに言えよ。無理はするな』と言って俺から離れた。
あれから佐伯課長は、何かと俺を気に掛けてくれるようになり、頻繁に言葉を掛けてくれていた。俺は心の中でお礼を言い、立ち去る佐伯課長の背中を見送った。
それから、パソコンを立ち上げようとして、ふと、梨奈に送ったメールが頭の中を過ぎった。
だが、梨奈がそれを見たら入るはずの達樹からの連絡がまだないことを思い出し、俺は仕事に取り掛かった。




