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第五十五話 飛び火

 美咲との実のない電話での会話が連日繰り返され、俺は腹立たしさを通り越し辟易していた。




出世に興味がないわけではなかったが、実力にそぐわない地位に据えられたとしても、俺にはその地位に見合った務めが果たせないことは自分でよく分かっていた。


それに加え、子供の話を持ち出されては魅力を感じるどころか逆に腹の底が冷え込み、美咲にとっては出世をちらつかせることが切り札でもあるのだということが嫌でも分かった。




 日が経つにつれ、自分の思い通りにならない俺に美咲は次第に余裕を失くし、苛立ちを隠そうともしなくなった十月の末、俺は直属の上司である佐伯課長から仕事が終わったら付き合うようにと声を掛けられた。


これまでにも仕事の流れで、佐伯課長から居酒屋に誘われたことは何度かあったが、改まった様子で誘われたのは今回が初めてだった。


俺は、口では『分かりました』と返事をしたものの嫌な予感がし、佐伯課長には申し訳なく思いながらも、気付かれないようにそっとスーツの上着のポケットにICレコーダーを忍ばせて、佐伯課長の後をついて行った。




 佐伯課長に連れられて行ったところは、高級居酒屋といった風情のある『白樺』という名の和風の店だった。


店の中にはミニ庭園風のものが作られ、通路の真ん中には石畳が敷かれて、その両側を黒い小石が隙間なく埋めていた。


客席は長屋形式になっていて、襖で仕切られた個室だけで通路から靴を脱いで上がりかまちに上がり、障子戸を通って中に入るようになっていた。


畳敷きの部屋の中には座卓が置かれていたが、その下が掘り下げられて足を楽にして座れるようになっていた。




 佐伯課長のお勧めの焼酎と数種類の料理を注文して、店員がそれらを座卓の上に並べ、障子戸を閉め切って出て行き二人きりになると、焼酎と料理を口にしながら佐伯課長が話し始めた。


「昨日の夜、樫山専務に料亭の『水鏡』に呼び出されてな。新井を説得するように言われたんだ」


「説得、ですか」


佐伯課長がいつもとは違う重い口調で話し、その口から『樫山専務』の名前が出たことで嫌な予感が的中したことを悟りながら、俺は佐伯課長の話に疑問を覚えて聞き返した。


佐伯課長は軽く頷き、焼酎の入ったジョッキに口を付けて俺の疑問に応じた。


「樫山専務の言った言葉をそのまま伝えるとだな、新井が樫山専務の娘の美咲さんと恋仲になり、結婚の約束をして子供まで作っておきながら、いざとなったら及び腰で責任を取ろうともせず逃げ回っている。娘の美咲さんが連日、新井の説得を試みているが一向に色好い返事が貰えず、娘共々、樫山専務もその妻も困り果てている。本来ならば、子供が生まれる前に結婚式を執り行いたいところだが、この際、結婚式は後回しでも構わないから入籍だけでも一日も早くするように、新井に卑怯な態度は止めて誠実な対応をするようにと説得をしてほしいということだった」




 ここのところ、樫山専務が口を噤み美咲の話を振ってこなかったことで、俺は美咲との結婚を諦めてもらえたのではないかと淡い期待を抱いていた。


それが、あれだけ美咲との結婚を拒否し続け、美咲の子供との関係もきっぱりと否定したにも拘わらず、何も聞いていないような話をしたばかりか美咲の話を脚色し、いつの間にか俺が美咲と結婚の約束をしていたことになっていると知り、怒りを禁じ得なかった。


ここまで読んでいただきまして、ありがとうございます。


来週も楽しんで読んでもらえるように頑張るつもりですので、よろしくお願いします。

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