第三十五話 幻の約束
十一時を知らせるメロディが部屋の中で鳴り響き、余韻が薄れてどのくらい経ったのだろう。
もうすぐ、今日が終わってしまう。
『尚哉は、帰ってこない』
確信めいた思いが頭の片隅にあった。でも、今日が終わるその時までは、尚哉は帰って来ると信じていたかった。
そんな私の思いを嘲笑うように、振り払っても振り払ってもあの時の沙織との会話が頭の中でリピートされ、その度に鋭さが増し私の心に突き刺さる。
尚哉と連絡が取れないまま帰ってこなくなっても、今日の日の約束があったから耐えてこられた。
今日を迎えれば、一人ぼっちの辛い時間も終わると信じ込んでいた。
尚哉さえいてくれれば、どんな問題が起こっていても二人で一緒に乗り越えられると思っていた。
尚哉のいない部屋の中を見渡すと、尚哉との思い出が溢れていた。
今はもう空っぽの面影がすっかりなくなった部屋の中には、尚哉と相談しながら一つまた一つと揃えていった物があちらこちらに置かれていた。
それらは尚哉がいた時と少しも変わらずそこにあって、ただ尚哉の姿だけが欠けていた。
“お願い。尚哉、帰って来て。お願いだから……”
からくり時計の小窓が開く『カタッ』という音が響き渡った。
“ああ、今日が終わってしまう……。尚哉っ……”
今日の終わりを告げるメロディが奏でられる。
“尚哉……。どうして……”
『パタン』と小窓を閉じる音がした。
意識を集中して玄関の音を拾おうと息を詰めた。
けれど、静まり返ったまま物音一つせず、尚哉が帰って来る気配はなかった。
私は弾かれたようにソファから立ち上がるとキッチンへ行き、真新しいゴミ袋を手に取った。
そして、テーブルの上に並べられていた今日の日のために用意したご馳走を、次々にその中へ放り込んでいった。
花瓶に生けてあったバラの花も捨てた。
それから、冷蔵庫の扉を開けケーキを取り出して、ろうそくと共にゴミ袋の中に押し込んだ。
『ポタッ』
ゴミ袋を掴んでいた左手の甲に雫が落ちた。
『ポタッ、ポタポタ』
後を追うように続けて数滴の雫が零れ落ちる。
ゴミ袋を掴んでいた左手が小刻みに震え、唇を噛み締めた。
日増しに大きくなる不安も、尚哉との約束を信じて気付かない振りをし遣り過してきた。
でも、今日は終わってしまった。
一度零れてしまった涙は、堰を切ったように後から後から流れ出て、左手の甲を伝いフローリングの床にしみを作り出していく。
「うっ……、くっ……、うぅ……」
噛み締めた唇から堪え切れない嗚咽が漏れ、寝室へと駆け込みベッドの中に潜り込んだ。
「尚哉……。尚や……。なおや……」
今まで押さえ付けていたものが噴出し、私は壊れた人形のように尚哉の名前を繰り返して泣き続けた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今週も予定通り投稿することができて、ホッとしています。
来週も楽しんで読んでもらえるように頑張るつもりですので、よろしくお願いします。




