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第三十話 待ち人

 八月十四日の夜。


俺は、樫山専務が指定した都内のホテルへ車を走らせていた。




 昨日から梨奈は一週間のお盆休みに入り、昨日のうちに両親の待つ地元へ帰って行った。


明日戻って来る予定で、今夜は留守にしていた。


梨奈が戻って来たら、翌日から近場ではあったが、俺たちは二泊三日の旅行へ行く予定を立てていた。




 樫山専務と話した後、俺は真剣に梨奈との結婚について考えた。


梨奈と一緒に暮らした一年余りの日々は、俺にとってこれまでにないほど満ち足りたものだった。


大学に入学した時に家を出て、それから約十年も一人で暮らしていたというのに、今ではどうやって暮らしていたのか思い出せないほど、梨奈との毎日に俺は馴染んでいた。




もし、樫山専務の希望通り、美咲と結婚することになったとしたら、俺は梨奈と一緒に歩む未来を失い、今の梨奈との生活を捨て去ることになる。


それが現実のものとなったら、俺には耐えられないだろう。




日々の生活の中で、梨奈は俺の中にしっかりと根を張り、とっくに俺の生涯のパートナーとなっていた。


それを揺ぎ無い形にするために、俺は旅行に出掛けて環境を変え、梨奈とじっくり話し合おうと計画をしていた。




 ホテルの駐車場に車を止めて車内のデジタル時計で時間を確認すると、二十一時二十分と表示されていた。


樫山専務から指定された時間は二十一時だったが、俺はわざと遅く着くようにマンション『ベルフラワー』の自室から出発した。




 お嬢様育ちの美咲なら周りにちやほやされることに慣れて、他人を待たせることは平気でも待つことは苦手なのではないかと考え、俺の到着を待てずに帰ってくれればという淡い期待を抱いていた。


後日、樫山専務から時間に遅れたことをなじられたとしても、命令に背いたわけでなければ何とか言い逃れることができるだろうという計算も働いていた。




 しかし、ホテルのエントランスを抜けてフロントに向かって歩いていた俺を、美咲が見つけ呼び掛けた。


「尚哉さん」


すぐ近くで美咲の声が聞こえ、振り向くと左腕に重みを感じた。


「ずいぶん遅かったのね。待ちくたびれてしまったわ」


美咲の姿を認めた俺の左腕を抱き込み、鼻に抜けるような甘えた話し方をしながら、美咲は俺を睨むような仕草をした。




「すみません。予想していた以上に、車の流れが悪かったものですから」


俺は期待を裏切られたことに内心でがっかりしながら、口先だけのお詫びの言葉を告げた。




「ねえ、知ってた。この上に夜景の見える素敵なバーがあるの。行きましょ」


「もう遅いですし、車で来ているのでご自宅までお送りしますよ」


俺のお詫びの言葉を無視し、左腕に身体を預けて歩き出そうとした美咲からさりげなく身体を離し『送る』と言った俺に、美咲はあからさまに態度を変えた。


「帰ることは認めないわ。付き合いなさい。これは命令よ」




有無を言わせない美咲の姿は、父である樫山専務に良く似ていた。


俺は半ばあきらめの心境で、美咲に連れられてホテルのバーへ行った。


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