フィンブルの春 -FimbulSpring- 獣と化す
黒い空から水の粒が落ちてくる。重力に従い落下する水滴たちの下に少年が倒れている。うつぶせの体をぬかるんだ土にわずかにめり込ませ、頭を横に向けギリギリのところで呼吸を確保している。振り続ける雨の音にまぎれるように、少年の周囲ではわずかな発砲音が鳴っていた。少年の意識はほとんどないのと一緒だった。僅かに開かれた瞳の送る情報は、虚脱感と雨水で歪み、耳は、周りで何が響いていても穴に雨水がたまろうと、反応することができなかった。虚脱感は雨のせいか、雨による体温の低下のせいか、それとも、アレのせいか、少年にはわからなかった。もはや混乱するほどの力も残っていなかった。
銃声がやんでから数分後、泥と水を踏み弾く音が、近づいてきた。少年の目は、暗い雨粒も見えない空間から雨の存在を際立たせる光が近づいてくることだけがわかった。そして周りを探るように照らしていたそれは、倒れた少年の上を一度通過したあと、再び少年に向けられた。僅かに黄色を混ぜ込んだ光を向けているのは銃を持ち、雨合羽に身を包んだ巨漢の男だ。少年も反応をしようとしたが体が一切動かない。近づいてきた男が少年の呼吸があることを確認すると何かを叫ぶ。するとあとからも数人、銃を持った男たちが駆けつけてきた。巨漢の男は少年を指さしながら追従してきた男たちに指示を飛ばす。すると男たちの内の一人が、少年をおぶり、来た道を戻っていく。入れ違うように、少年を運ぶ男に比べかなり小さい雨合羽を着た人物が後から巨漢の男に追従して走っていった。
雨の中をひた走る男の背で、少年はほとんどない感覚が伝える、おんぶの揺れを感じながら、完全に意識を空へ放り棄てた。
「え? 帰ってこられなくなった?」
液晶画面と一体化した携帯電話を左耳に当てながらラテン系の褐色肌をした少女は焦げ茶色の髪の毛に覆われた頭をガリガリと掻いた。掻いた手を眺め、フッと息を吐き着いた髪の毛を吹き飛ばす。
『しょうがないでしょう。まさか人狼化した一般人がいた上逃げるなんて誰も思ってないんだから』
電話越しでもわかるほどげんなりとため息をシルファが吐いた。
「じゃあ、シルファ。帰ってきたら一緒にご飯食べよう?」
猫の甘えるような声を電話の相手、シルファに出すと、フフッと微笑みが見えてきそうな声が聞こえた。
『いいよ。カノン、一緒に作ってくれる?』
「私だけで作るよ!」
間髪入れずにカノンが言い返す。シルファは残念そうに「そう……」と言うと別れの挨拶を言って電話を切った。
電話が切れたのを確認したカノンは外へと繰り出すことにした。前回の以来から拠点にしている広々としたホテルも馴染んできた。
ポケットにお金を突っ込んで背伸びをする。
しかし、フロントの女の人はいまだにカノンやシルファの顔をみようとしない。そして出かけるため鍵を渡しに来た今もそれは変わらない。見ようとしないのは二人の背後にいる機関の配慮でもあるのだが、カノンとしてはこっちを見てほしいと思っていた。こちらだけ顔なじみというのも嫌なのである。フロントの女性をじーっと見るが伏せ目のままこちらを見ない。三分近くそれを続けていたが、後ろに三人ほど、フロントに用事のありそうな人が居るのにカノンは気づいた。さすがの図太い精神を持っているカノンも無理だと悟って、カードキーを急いで渡し、お願いしますと言うと足早に無駄に豪華さを感じさせる銀の美麗な装飾を施された自動ドアを抜けてロビーから脱出する。
「とりあえずー材料でも買っておこうかなぁ」
カノンがホテルを出て歩を進めるのは市場だ。シルファからの話で、少し行ったところの川沿いで市がやっていると聞いていたのでそれに期待して移動をしている。ただしカノンはこれが朝市ですでに撤収してしまっていることを知らない。すでに日は高い位置に昇り、朝の肌寒さはすでに消え、暖かい陽気となっている。道行く人々も半袖が多い。アスファルトで固められた道を軽快に進むカノンも軽装だ。数キロの道のりを道一本分ずれながらも三十分で踏破し、川沿いに出る。
昔の時代では汚水と悪臭に溢れ、病気の温床だった川も、二十一世紀のこの時代では多数の船舶が浮かび、川に隣接する公園は憩いの場になっている。カノンが出たのはロンドンの有名な橋が右手に見えるちょっとした広場だった。川沿いは堤防があり、街側は高い防風林が緑色を醸し出している。その先からは街らしく車や人などの雑音の混ざった音が届く。
朝市に昼に来れば当然市がやっているわけもなく、最初こそ場所を間違えたのかと周辺をうろうろしていたカノンも、川沿いの堤防に腰を下ろし、川を滑っていく船を眺める。きれいな景色は時間を忘れさせるには十分でしばらくの間カノンはそれを楽しんだ
一言もしゃべることなく風景を眺め、日が傾き始めてきたころ、カノンの耳が町の音とは違う背後の物音を捉えた。瞬間的に振り向いたカノンの翠の瞳に映ったには、肩を震わせる少年だった。
「……? どうしたの君?」
カノンもさすがに質問するしかなかった。少年は青みを帯びた淡い緑色のワンピースのようなものを着ていた。腰の所を蝶結びの紐で固定されていて、どちらかと言えば薄手の長いコートのようなものだとカノンは気が付いた。どこから来たのか靴は履いていないし眼は充血しているし肩を弱弱しく震わせているしで、カノンの眼には捨てられた子犬のようにも感じられた。視線を少年に向けたまま体もお尻を堤防にこするように少年の方に回転させるとパッと立ち上がる。
どこから現れたのかもわからない少年にカノンがゆっくりと近づく。一歩ごとに少年が体を大きく震わせ、少しずつ後ずさっていく。近づくとわかるが、少年はカノンよりも小さい体をしていた。
少年が下がるより早くにカノンが手の届くところまで近づくと手を伸ばした。
バチンッとカノンののばした右腕が弾かれた。弾いた少年も驚いた顔をしている。気にすることなくカノンは弾かれた腕をもう一度少年へ近づける。少年は手を凝視していたが今度は弾かれなかった。震える頬に手を触れる。とても冷たい。カノンはそう感じた。
「警察よぼうか?」
この言葉に少年は全力で首を横に振った。あまりに強く降りすぎて少しふらりとしている。ろれつが回らない様子で何かを言おうとしている。
「あ、あの、ぼく、ぼくは」
「うちくる?」
「え、?」
少年の疑問符を無視しカノンは話を続ける。
「丁度友達が居なくて寂しかったんだよね。家出なら私の家に来ればいいよ。家というかホテールだけど」
そういうと返答も待たずにヒョイッと少年を持ち上げた。とても軽い。改めて服を見回すとますます珍しい服装だとカノンは思った。
「というか中に下着以外何も着てないの? だめだよこんな格好で飛び出してきちゃ、寒いし、変態ってことで捕まっちゃうよ?」
それに対して少年は困惑しているようだ。つっかえながらもごめんなさいと返してくるだけだった。
シルファもまあ、家出少年位は許してくれるだろう。次の仕事まで時間があるだろうし、仕事になるまでにはこの子も帰れるようになっているだろう。と言うのがカノンの考えだった。
そうと決まればと持ち上げた少年を横抱きに持ち直すと、全速力でホテルへと戻る。この時ばかりはこちらを見ないフロントの女性もありがたいとカードキーをさっさと受け取り急いでエレベーターに乗る。豪華な内装や外から見た大きなホテルの外見が珍しかったのか少年はあたりをきょろきょろと見回した。赤色でふわふわとしたカーペット上を走り、電子施錠をカードで解除する。中に入ると少年をポンとベットへ投げる。
ひゃああと情けない悲鳴を上げながらベッドの上でぼよんぼよんと跳ねる少年をみながらカノンは笑った。
「取りあえずルームサービス頼んで何か食べようか! うんそうしよう!」
そう言ってカノンが電話をし、部屋に運ばれてきたのはパスタ。
うひゃーと言いながらパスタを持って座敷へ移動。縁に座ってパスタを食べだすカノン。音は立てないが口周りは汚すほど勢いよく食べだす。パスタを渡された少年はぽかんとしてしまっているのに気が付いて自分の左隣をポンポンと叩いて少年を座らせた。少年はおどおどしながら
しばらくして食事の終わった少年が口を開く。
「あの、お姉さんは」
カノンでいいよ、と喋り出しに割り込んだ。少年が黙ってしまったのでカノンは若干しまったと思った。喋り出すのにまた一分ほど沈黙が部屋を支配した。
「……あの、カノンさんは、どうして僕なんかを連れてきてくれたんですか?」
喋り出したことにちょっとホッとしつつカノンは犬が唸るような風にうねった。
「そうだね。まあ、第一に君が家出少年だと思ったからなんだけど、あと怪我してるからかな。腕に痣はあるしよく見ると包帯巻いてるし。それで、まあ家の人に暴力振るわれて逃げてきたんじゃないかと思ったの」
私もそういうのあったからさーと明るい口調で話すカノンに逆に聞いた少年がごめんなさいと謝ってしまった。
「いいよいいよ気にしないで。じゃあ今度は私からね? 少年君は何て名前なの?」
「あっ」
そういえば名乗ってなかったと少年が名乗ろうとする。口を開けて言葉を発そうとするがそこで止まる。
「ぼ、ぼくの名前は……」
出てきそうで出てこないそもそも名前が出てこないというのはおかしい。というよりカノンと出会うまでどこで何をしていたのか思い出せない。少年の記憶には靄がかかっていた。
「何……ッっぁ!?」
突然、頭を締め付けるような頭痛が少年を襲った。痛む頭を両手で抱え、座敷の縁から転げ落ちるように床に倒れる。
「どうしたの!? ってあっつい!!」
驚いたカノンが少年の額を触ると灼熱の様に厚くなっていた。汗も吹き出していてカノンの手が濡れる。
少年の体が燃えるように熱い。カノンは急いでベッドに少年を運んで寝かせる。鍵を持って廊下に出るとエレベーターを待ちきれず階段を駆け下りる。
ロビー脇の売店に飛びつき急いで飲み物を買う。そのままの勢いでカノンはフロントで桶とタオルも借りた。
例のフロントの人も血相変えて走ってきたカノンにはさすがに驚いてついに目が合ったのだが相当焦っていたカノンはそれ気が付かずチップを渡して全速力で階段を上った。
若干息を切らせながら部屋前に戻るとカードキーロックにもどかしさを感じながら扉を開ける。
少年が立ち上がっていた。
「駄目だよ! 熱があるんだから起きちゃ……!?」
カノンは怖気を感じた。寒気の原因は少年だ。化け物と戦う彼女が怖気を感じるのは尋常なことではない。
ベットの脇に直立する少年は窓の外を見ていた。高熱がある子供が無理をして立っている様には見えない。
カノンの声に気が付いたのか顔をゆっくりとこちらに向けてくる。
カノンが息を呑んだ。髪の毛から頬が見え、瞳が見える寸前、ばたりと操り人形の糸が切れたように少年は倒れた。
「だ、大丈夫かい!?」
怖気で立ちすくんでいたカノンだが、その怖気が消失したため体が動いた。少年は部屋を出る前と同じく高熱でぐったりとしている。
ただ、汗はかいていなかった。
「と、とりあえずもう一回ベットに入れてと」
少年をベットにいれ毛布を掛ける。飲み物は飲める状況ではないので脇に置いておき、洗面台から桶に水をくむとそれで濡らしたタオルを少年の額に乗せた。
「この状況じゃ病院連れて行きたいけれど…民間はいっつもパンパンだしなあ」
むうう、と唸りながら少年の寝るベットの周りを往復する。
機関の病院は基本的に人狼被害者以外は収容禁止となっている。ひどいとはいえ機関に頼んでも断られてしまうだろう。
カノンの思考は解決策の浮かばない病院よりも先ほどの少年の状態について考えていた。
なぜ弱っていた少年に怖気を感じたのか。
あの怖気はなんだったのか。
そもそもどうして立ち上がれたのか。
この考えが脳内を往復しているせいで体がそれを反映して先ほどからベット周りを往復している。
少年の額のタオルを変えては往復して変えては往復してをもう数十回、一時間以上続けていると、不意にドアが三回ノックされた。
往復の途中だったカノンは体を跳ね上げて驚いた。
少しの間硬直していたが、跳ねるように急いでドア前に移動しのぞき穴から廊下を見ると、カノンの顔が明るくなった。
エキゾチックで美しい黒髪と可愛らしい顔立ち、疲れているのか眠いのか瞼が少し重そうにしているが、その瞼の下には宝石のような碧い瞳がドアを眺めている。
ドアは自動施錠なのでカギを持っているか内側から開けなければいけなかった。
「おっかえり! シルファ!」
カノンは勢いよく扉を引いた。シルファが身構える。
「ささ、入って入って」
「……何かあったの?」
いつもなら抱き着いてくるカノンが抱き着いてこないので、シルファは何かあったと察した。答えるようにカノンも口を開く。
「実は、迷子を拾ったんだけれど…」
カノンが左前側で話をしながらシルファがそれを聞きながら、左目でベットに横たわる少年を捉えた。
「それで……さっきなんだけどね」
少年を両目でとらえるためにシルファが首を回す。髪の毛がふわりと遠心力でなびく。
右目が少年の姿を捉えた。
瞬間、シルファの纏う空気が変質した。
あまりにも突然なことでカノンは反応が遅れた。シルファが右手を腰に回す。引き抜かれたそれは9×19mmパラベラム弾の装填された拳銃だ。狙いは少年の頭。引き金を引く。撃鉄が後退し、雷管を叩くために高速で動き出そうとしていた。カノンはこのタイミングでようやく動くことができた。
それでも短すぎる時間の中ではシルファの拳銃の照準を腕を押してずらすことが精いっぱいだった。発砲音と共に少年の頭の下、羽毛の枕に弾丸が命中する。
「何するのさシルファ!!
「……邪魔しないでカノン」
人狼を憎んで止まない心がシルファを突き動かしている。それに加え、カノンに危険が及ぶかもしれなかったと考えると撃たずにはいられなかった。
「こいつは、人狼。いえ、私が朝電話で言ったでしょう……人狼化して逃げだした奴がいるって」
確かに言っていた。カノンが少年を見る。相変わらず熱にうなされている。とても人狼の様には見えなかった。
「今は小康状態だけれど、そのうち完全に人狼になる。思考も人格も完全に変質して、私たち人間を襲う獣に成り下がる! カノン、それまでに殺してあげるのが情けだと私は思うの」
時折、感情がこもる言葉に対して、シルファの眼は冷え切っている。人狼を殺すという激情と冷酷が混ぜ合わさった鋭い瞳だ。カノンに向けられる普段の眼とは一転半周、五百四十度違う瞳だ。
「でも…でも…! 人狼化の防止措置をすればまだ!」
カノンの反論をシルファは切り捨てようとする。
「無駄よ。機関病院の奴等のミスだけれど、人狼化の症状が出る前に措置ができなかった時点で意味をなさないわ」
「だけど、この子だって人なんだよ!?」
「人じゃない。すでに獣よ!」
カノンのまっすぐな深い翠の目線とシルファの冷えた碧い目線が交差する。
シルファがフッとほほ笑んだ。敵わないといった様子だ。
「いいわ、万に一つだけれど、やってみましょう」
シルファが銃をおろし、カノンが笑顔になる。
取り合えず警戒はしなければいけないとシルファが背負っていたギターケースを降ろし、中から突撃銃を取り出そうとする。
その様子を見つつカノンはもしかしたら直せるかもという報告をしようと少年の方へ笑顔で向き直った。
少年が居なかった。毛布と、穴の開いた枕だけが残されていた。
えっ、と言う小さい声にシルファが気付く。天井に張り付くようになっている少年だったものが、カノンめがけ突進した。
爪が一瞬で刃物のように伸び、命を刈り取ろうとする。
「カノン!!」
シルファの声で呆然としていたカノンの意識が回帰する。迫りくる少年の、真っ黒でうつろな瞳と目が合う。
シルファがコッキングと共にとっさに発砲。狙う余裕もなく腰だめで撃った。高初速のライフル弾が数発少年の体に吸い込まれる。命中し。体を貫通した弾丸と共に外れた弾も天井に突き刺さる。僅かに突進の勢いが死に、刃物のような爪はカノンの左腕、二の腕外側を掠るだけで済んだ。
とっさに躱したおかげでバランスを崩し、壁に衝突する。
掠るだけで済んだとはいっても一センチほどの深さで切られれば血が出る。飛び散った血がシルファの頬に着く。
碧い瞳が一瞬大きく見開かれる。それは獄炎の灼熱を宿した怒りの眼。そしてすぐさま絶対零度の殺意が瞳を塗り替える。
至近距離から弾を撃ちこもうとする。四発だけ弾が発射された。撃ち尽くしてしまったのだ。すべてが少年の胴体に叩き込まれたが致命傷になっていない。次はシルファに向け、とびかかってこようとしてきた。再装填をする暇はない。たとえ拳銃を抜いたとしても人の質量を止めるほどのストッピングパワーはない。
ならばどうするか、普通の突撃銃であれば銃床がある。それは鈍器として人を殺傷できるほどのものだ。この状況でも使えただろう。しかし、シルファの銃は携帯性を重視したワイヤー伸縮式の銃床では不可能だ。ワイヤーがひん曲がるだけだろう。
シルファの選択はそのどちらでもないものだった。銃の下のレールに取り付けられた物。三十年代に置いても世界最優秀と言われる信頼性を持つ『万能の鍵』そのソードオフショットガンだ。
カシャンとショットガンの下、リロードをするためのポンプを引き、薬室へ弾を送り込む。
そして発射される弾丸は、12ゲージバックショット弾。そして火薬の瞬間的燃焼と共に銃身を飛び出したるは、銀で構成された九粒の弾だ。そのすべてが少年であった人狼の胴体へ命中。少年を後ろに吹き飛ばすとともに、胴体を二つに分断した。
ほぼ一瞬の出来事だった。カノンが後ろを見たときにはもうすべてが終わっていた。
「カノン……」
シルファが荒い吐息で肩を揺らしながら声を発する。カノンに背を向け、少年の方を見たままだ。再びポンプを引く。空となったプラスチック薬莢が排出され、床でコポンという軽い音を立てた。次弾が薬室に送り込まれ射撃準備が完了する。
少年は見るも無残な姿となっていた。
分断された下半身はすでに火を噴き、灰へと変わろうとしている。
残された上半身はまだ生きているものの、穴だらけになった緑のワンピース、シルファから見ればそれは手術着だったものが赤く血に染まっている。、人ならばすぐに死ぬ出血量だ。
しかしこの少年はすでに人ではない。人狼だ。故に死なない。頭か心臓をつぶさなければ死なない。
「ごめんね」
シルファが少年の頭に狙いを定める。
「まって!!」
カノンが声を上げる。
引き金に指が掛けられる。
「私が、私がやる!!」
指が止まった。
シルファはゆっくりとカノンの方を見た。
手に持っているのはカノンの使うセミオートの狙撃銃だ。
この室内では過剰だとシルファは思ったが、あえて何も言わなかった。
シルファと入れ替わるようにカノンが少年の前に立つ。
少年だったものは恨めしそうに瞳をこちらに向け、小さく呼吸をしているだけだ。
「出会ってすぐだけど、君のことよく知らないけど……ごめん!」
ドンッとシルファの銃より少し力強い音が一度だけ室内に響き浸透した。
音の後、静寂に残されたのは灰へと還る少年の火の音だけだった。
「ここも、もう使えないね」
「そうね」
カノンの腕の切り傷をシルファが応急処置する。この後部屋の処置をするのも機関の手配でやってくれるし、病院も機関が準備してくれる。二人にしてみれば機関様様だった。
「……助けたかったなぁ」
「……そうね」
「落ち込まないでカノン。仕方なかったの」
「……そうだね」
処置を終えてシルファが立ち上がる。
「彼みたいなのがもう生まれないように……私たちは人狼を倒さないといけない。そうでしょう?」
「……そうだね」
「それに前にカノン、言ってたじゃない」
立ち上がったシルファを翠の瞳が見上げる。それを受け止めるのは優しげな青空のような碧の瞳だ。
「七転びやバク転ってね」
シルファがにこりと微笑む。手を差し伸べ、それをカノンが取る。
「そうだね…そうだよ! 七転びやバク転! がんばらないとね!」
「それじゃさっそくその腕の傷、縫ってもらいに行きましょう?」
「えぇ……縫うの怖い……」
それより怖いのと戦ってるのに何を言っているんだとシルファは思いながら部屋を出た。手に持つのは着替えを入れたキャリーバッグ、背に背負うのは秘密の武器を入れた楽器ケースだ。
顔を見てくれない受付に秘密の言葉を告げる。
「お元気で」
受け付けはこの時だけ、少しだけ目線を上げた。二人の顔は見えないが、目線を上げたのだった。
「うんまたね!」
「そちらこそ」
そう言うと二人はホテルを出た。
外は夜の暗闇と電気の光の世界だ。
闇にまぎれ、人を喰らう獣を狩る物にはお似合いの世界だった。
二人は道に出ると人ごみに紛れ、すぐに見えなくなった。
「縫うの嫌だー!」
「ハイハイ暴れないでくださいー麻酔してますよ」
「カノン…傷のこっちゃうから暴れないで…」
結局看護師の人たちに雁字搦めにされカノンは四針縫った。