兎は,歌った。
旧山村の方まで足を運ぶと、中学生の姿など見当たらない。そのことに私は、ちょっとほっとしていた。私も、彼も旧山村に家があるので、学校まで距離があるのだ。駅の方とは違って、雲の流れもゆっくりな気がした。
塩の匂いが、強くなる。海に囲まれた街だから、塩の匂いは当たり前だけど海に近づくとそれが強くなる。心地の良い波の音は、聞くものをリラックスさせる自然の生み出した音楽。
「ふゆみん。曲リクエストしてよ」
彼は、手に提げていた黒いケースの中からクラリネットを取り出すと、私にそう言った。彼は、吹奏楽部に入部していた。昔から、楽器や音楽の授業が好きだった彼らしい部活だと思った。
「“クラリネット壊れちゃった”」
私のリクエストに彼は、カラカラと声を上げて笑った。青い空と広い海をバックにして心の底から笑う彼は、綺麗だった。いつも雲一つない空のような笑い方をすればいいのに……もったいないと思う。
「あはは。初っ端から、楽器を壊すのか。さすがは、“クラッシャー”の異名を持つだけあるな」
「なっ、その呼び名、やめてよ!もしかして、広めた犯人ユウちゃんだったの!」
確かに、シャーペンとかキーチェーンとか、物をよく壊してしまうことはあるけどそんな呼び方は恥ずかしかった。セーラー服のスカートが砂に汚れることを気にしないで私は、砂浜に座った。
「まさか。ウチは、広めてないって。そうだ、ふゆみん。歌ってよ。ふゆみん、歌うことが、好きだろ」
ふわりと海からの風が、二つに結んだ私の長い髪をさらう。
「まぁね。でも、音痴らしいよ。私」
「?そうかなぁ。ウチは気にならないけど。ふゆみんは気持ちよく歌うからウチ的には、好きなんだけどな」
彼は、なれた動作で、クラリネットを構える。
「まぁ、だれもいないからいいよ。観客は、カモメくらいだもん」
海を悠々と飛ぶカモメを見て、承諾する。
「それじゃあ、いくよ」
彼は、クラリネットに口づけ息を吹き込む。軽やかに踊るように指が動き始める。凄いと思うと同時によく指が釣つらないよなとぁ感心してしまう。私は、曲が始まってしまったので、しぶしぶ歌いやすい姿勢に体を直して口を開く。
「パパからもらったクラ~リネット、とっても大事にしてたのに~」
初めはお腹から全然声が出ていない、か細い歌声だった。だけど、途中からどうしようもなく楽しくなってきてしまった。いつの間にか私は、大きく口を開けて歌い始めていた。
「ど~しよ、ど~しよ」
お腹から声を出して、歌うのは久しぶりな気がした。最近の音楽の授業では、音を外さないようにはみ出さないように歌うのを意識して楽しくなかったのだ。
彼が、こっちを見つめて笑いかける。偽物じゃない本物の笑顔。それが、すごくうれしかった。
一曲歌い終えると、次は彼が音楽を好きになったきっかけの音楽を奏で始める。
「シング・シング・シング」
「うん。小学校の頃みんなで演奏して、すごく楽しかったんだよね。だから、吹奏楽部に入った。もう一回、あの楽しさを味わいたかったから」
曲を止めてそう口にする。わたしもあの時は楽しかった。でも、みんなの足を引っ張っていたんだろうことは今の私にはわかる。だからその思い出は、少し気恥ずかしくって申し訳ないような気持になる。
「私、足引っ張ってたよね。今ならわかる。でも、楽しかった」
「いまごろ?まぁ、いいや。結果よければすべてよしっていうしね。誰にでも向き不向きがあるから、ぐちぐち考えるなよ」
それだけ言うと、また演奏し始める。
たらら~ら たららら たーたー たたたった たららら~ら たらら~ら
リズムに合わせて手拍子を入れる。海に打ち寄せられた木片を使って、見えない楽器を演奏する。
嫌な気持ちが全て、音にのって広くて大きい蒼い海と高い空に吸い込まれていく。
空が茜らむまで、私と彼は音を楽しんだ。観客は、空と海とカモメ。心からの笑みとともに歌おう。奏でよう。
だれの目も耳も気にしないで……。