第2話 クッキー
鼻に掠めたその匂いの名前を直生はよく知らない。おおよそ、直生の生活空間には似つかわしくない匂いであることは理解できる。良い匂いではあるのだが、どこか居心地が悪くなるようなその匂いの正体はおおかた化粧品、あるいは香水なのだろう。
10代後半から20代前半ほどであろう女性の集団とすれ違って、直生は思わず彼女たちを目で追ってしまった。
「ねぇ、比較文学論のレポート書いた?」
「えー、まだ」
「というか、ドイツ語の小テストの方がやばい」
会話の内容から察するに彼女たちは大学生であろう。直生の通う真天朗学園の一駅隣に午後ノ御茶女子大学がある。つまり、この辺一帯は彼女たちの行動範囲となる。駅直結の商業施設はもちろん、ひとたび路地に入れば美味しい隠れ家的カフェや古着屋さんもある。女子大生がこの辺りを歩いていることは何ら珍しいことではない。見かけたところで今までは何とも思わなかったのだが……今は少し違う。
女子大生を見ると、彼ら4人を思い出すようになった。普段、彼女たちに教鞭を振るっているであろう桜城、美澄、草壁、夏吉の4人を。
授業をしている4人はどんな感じなのだろうか。そもそも、4人が教えている教科についてもよく知らない。
聞いたら教えてくれるだろうか。
そんなことを思いながら、直生は帰路についたのだった。
家に帰ってリビングに入ると、キッチンには桜城がいた。普段、きっちりと上げている前髪がふわりと下がっている。風呂上がりなのだろう。外の桜城しか知らない人からすれば、少しばかりドキッとしてしまう姿である。今の桜城は実に隙だらけだ。
そんな彼に近付いて恐る恐る口を開いた。まだ自分から話しかけるにはちょっと勇気がいる。迷惑でないか、鬱陶しがられないか不安になるのだ。
「……もうお風呂に入ったんですか?」
「あぁ、花粉を落としたかったのだ。せっかくの一番風呂を頂いてすまない」
「いえ……別にいいですけど」
自然と視線が下がり、桜城が持っているミックスジュースに目が行く。
桜城はキッチンにていつものようにミックスジュースを飲んでいた。ジューサーが置いてあるから、今飲んでいるものもやはりお手製なのだろう。直生の視線に気が付いた彼は、ジューサーの中にある余ったジュースを新しいコップに注いだ。
「直生くんも飲むといい。今日はニンジンを入れてみた」
その発言に直生は少しだけ眉根を寄せる。口の中が一気にニンジンの味になってしまった。
「それ、野菜ジュースになっちゃいませんか?」
「確かにそれもそうだな。いつもとは違う味を楽しみたかっただけなんだが……。でも、混ざっていれば何でも良いんだ。当たり前などない方が良い。それは何事においても……学問においても同じだ」
「あ……」
そこで直生は聞きたかったことを思い出した。
「あの……桜城さんが普段どんなことを教えているのか知りたいです。……日本語学って何ですか?」
「ほう、嬉しい質問だ」
桜城は直生にニンジン入りのミックスジュースを渡しながら、目をキラリと輝かせた。
「まずは何から話そうか」
「えっと……何もかも分からないんですけど」
日本語学って国語の延長線みたいなものなのか?でも全く想像がつかない。
「日本語学とは日本語という言語の仕組みを科学的、論理的に調べる学問だ」
「はぁ……」
「たとえば……そうだな。なぜ、箸と橋を音だけで区別できるのか。なぜ、雨“が”降るは自然で雨“は”降るに違和感があるのか。なぜ、『すみません』という言葉は状況の変化で意味が変わるのか。なぜ、『やばい』という言葉は時代を経て意味が変わったのか。……などなど挙げると切りがないのだが、そのようなことを研究しているんだ」
「へぇ……」
そう聞くと興味深い。当たり前に使っている日本語だけれど、確かに疑問が多いな。
「……つまらないだろうか」
「そんなこと!」
桜城さんが俺の曖昧な返事にシュンとしてしまった……
直生はブンブンと首を横に振る。それを見て、桜城はフッと笑ってくれた。
難しそうだけれど、つまらなさそうとは思わない。
「ありがとう。でも日本語学が他の教科と比べて不人気なことは事実なんだ」
「そうなんですね……」
「日本語学の魅力をもっと多くの人に伝えたい」
そう言う彼の声には確かな熱があった。
「喋ることが上手であるとか、文章を書くことが上手であるとか、そんな必要は全くないんだ。日本語は一番身近であり、当たり前のようにみなが使える言語。だからこそ、学べば奥も深い。きっと……当たり前だと思っていた世界が二度と同じに見えなくなる。そんな学問なんだ」
直生は少しだけ目を見開いた。
桜城さんって意外とこういうことを熱く語る人なんだな。
「教えてくれてありがとうございました」
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
直生はちらりと桜城を見て小さく笑った。それから、ぐびっとミックスジュースを飲む。
ウッ……
「……ミックスジュースにニンジンはいらないかもしれません」
「す、すまない」
ミックスジュースを飲み終えた桜城が自室に戻った後、直生はリビングで宿題に取り掛かった。昔からの習慣で、勉強は自分の部屋ではなくリビングで行なうことが常だった。
英語は明日小テストがあるから念入りに。数学の先生はとくに怖いから予習しておいた方が良いだろう。いきなり指されでもして答えられなかったら嫌だ。
直生がそんなことを考えながら教科書とにらめっこしていると、玄関先でガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえた。
「ただいま〜」
美澄がそう言ってリビングに入ってくる。
「おかえりなさい」
「勉強中、ごめんね。すぐ自分の部屋行くから」
美澄はそう言ってくれるが、直生は今日美澄に聞きたいことがある。
前にも少しだけ話してくれたが、日本美術の話が聞きたい。でも、美澄もこう言ってくれているし、変に引き留めない方が自然かもしれない。いやでも、今日を逃したらずっと聞けないようなそんな気もした。
「直生くん」
「……ぇ、あ、はい」
そんなことを考えてもだもだしていたとき、美澄の方から声をかけられたものだから、声が裏返ってしまった。彼はフッと笑う。
「なんか話したそうだね」
「え……」
「俺も直生くんといっぱいお話したいから、何でも聞いていいよ」
こ、この人……エスパー?なんて爽やかな笑みなんだ。俺には一生こんな気の回し方なんてできない。こういうことをいっぱいしてきたんだろうな。モテそう……
「じゃ、じゃあ……美澄さんが思う日本美術の良さって何ですか?」
葛飾北斎ぐらいしか知らない俺からしてみれば、日本美術は未知の世界に等しい。美術史なんて中学じゃまだ習わないし……
「あー、なるほど」
美澄は直生の言葉を聞くと嬉しそうな笑みを浮かべ、ポケットからスマホを取り出した。そうしてロックを解除して直生に見せたのはホーム画面の壁紙だった。
「これ、可愛くない?」
見せられたのは、筆でテキトーに走り描きしたような落書きだった。絵?絵なの、これ?犬のようにも見えるし、豚のようにも見える生き物がお腹を糸(?)でくくられている。
「なんですかこれ……」
「禅画。これが俺の専門。いちばん好きな日本美術」
「へぇ……」
ぜんが。よく分からない……。落書きに見えるけどこれも美術なんだ……
「禅画っていうのはね、禅宗のお坊さんが描いた絵のこと。つまりは絵のプロじゃなくて、素人が描いた絵なんだよね。禅の教えを民衆に考えさせるために描かれたものなんだけど……なんだかゆるくて可愛くて笑っちゃうでしょ?」
「はい……」
「でも、それが良いんだ」
美澄はその絵をまるで慈しむように見てから、こちらに微笑んだ。
「これ以外にもね、日本美術って完成された美を追い求めてないところがある。顔と手のバランスがおかしかったり、明らかに遠近法が取れてなくてパースが狂ってたり……それでもね、そんな絵だとしても現代にこうして語り継がれている。そこが日本美術の良いところだと俺は思ってる」
完成されていない美……
その美しさを感じ取れて好きだと言える美澄さんがすごいと思う。素直に尊敬する。
「今度さ、何か日本美術の展示があるとき一緒に美術館行こうよ。俺が楽しいとこ教えてあげる」
「ありがとうございます」
美術館に行くことが楽しみと言えるほど良い子ではないけれど、美澄さんと一緒に行くのは楽しそうだ。
THEモテ男すぎてなんか悔しいけど。
草壁の自室の扉をコンコンッとノックする。宿題をしていた途中で思い出した。読み終わった文庫本を返したいと思っていたのだ。
帰ってきたとき、玄関に草壁さんの靴は既にあったから多分いると思うのだが……
直生がジッと扉の前で待っていると、思いの外その扉は簡単に開いた。
「……直生くんか。どうしたんだい?」
「本、読み終わりました。また違うのを借りたいと思って……」
「そうか。好きな本を持っていくといい。どうぞ」
彼は部屋の扉を大きく開け、直生を中へと招いた。
は、入っていいのか……?と逡巡しながらも素直に部屋に入ることにする。
部屋の壁は一面本で埋め尽くされていた。本のインクの匂いがする。この匂いって独特だよな。ちょっと甘い。そんなことを言ったら笑われるだろうか。
無論そんなことを言うつもりはなく、直生は桜城と美澄に聞いたように学問についての質問を草壁にすることにした。
「……あの」
「なんだい?」
「どうして、草壁さんは日本文学史の教授に?」
「活字中毒者だから」
「え……」
それだけの理由で果たして教授にまでなれるのだろうか。きっと彼の言う活字中毒の度合いは直生の想像を軽く凌駕するのだろう。思えば、朝は必ず新聞を隅から隅まで読んでいるし、袋麺やら洗剤やら何かしらのパッケージを買うとき、開けるときには必ず裏面に記載されている文字を読んでいた。
「とにかく本を読んだんだ。とにかく本を読んで、論文を書いて、本を読んで、論文を書いて……その結果がこれ」
「そう、なんですね……」
簡単に言っているが絶対に簡単ではないことは分かる。直生は部屋中にある本を見渡して目を細めた。
これ全部読んでるんだもんな……
「何を読めばいいか分からない?」
「あ、はい……」
その通りだ。この中から好きなものを選べと言われても何が何だか分からない。綺麗に並べられた背表紙たちから、どこかプレッシャーを感じる。そんな直生を余所に草壁はその背表紙たちに触れながら、ポツポツと呟き始めた。
「うーん。次は王道をおすすめしようかな。宮沢賢治、夏目漱石……。いや、小川未明、国木田独歩も捨てがたいな。正岡子規、室生犀星……うーん」
次から次へと出てくる。やっぱり好きなんだな……
そこで直生は思い切って聞いてみることにした。どうせ読むならそれが一番良いと判断したから。
草壁さんもその方が選びやすいに違いない。よし……
「あの……」
「なんだい?」
「……草壁さんが一番好きな作品を読みたいんですけど」
「え?」
草壁の反応は直生が思っていたものとは違った。彼は目を丸くした後、ふいっと直生から視線を外したのだ。
な、なんでそんな反応するんだろ……。相当変な話だったりするのか……?
「あの……気になります……」
「あー……そうだね。まぁ、いいか。君に嘘はつきたくないから」
なんだそりゃ。
理由はともかく教えてくれるようだ。
「僕が一番好きな作品は『葉桜と魔笛』だ」
「聞いたことない……」
「太宰治なんだ」
なぜ、草壁さんが複雑そうな顔をしているのか分からない。
「へぇ……どうしてその作品が一番なんですか?」
直生の質問に草壁はどこか観念したように笑って言った。
「……腹の奥からせり上がってくるような深い悲しみを味わったからかな。温度感も好きだな。湿度が高いというか。『人間失格』、『走れメロス』、『斜陽』……有名な作品はたくさんあるけれど、僕は『葉桜と魔笛』に出てくる彼女たちが好きなんだ」
「彼女たち……」
「……後はまぁ、『葉桜と魔笛』が好きだと言える自分自身が好きな節もある。太宰のことは好きだけど、『人間失格』や『斜陽』とは答えたくない変な意地があるんだ。はは、生徒の前じゃこんなことは言えないな」
どうやら草壁さんと太宰治の間には何か複雑なものが絡み合ってるみたいだけれど、俺にはそんなことあまり関係ない。だから、
「『葉桜と魔笛』読みたいです。貸してください」
こう言っても許されるだろう。
「あー……僕の口から太宰を勧めたくなかった。生徒は良いけど、直生くんにはなぁ」
「なんでですか。別に太宰くらい読めますよ」
確かになんか暗いイメージはあるけれど、『走れメロス』だってもう教科書で習っているんだ。子ども扱いはしないでほしい。
「分かったよ。あと、感想は言わないでいい」
「日本文学史教授の言うことであってるんですかそれ」
生徒には絶対感想を求めるだろうに。それが職業だろうに。
終始、気恥ずかしそうにする草壁がよく分からなかったが、直生は無事『葉桜と魔笛』が収録されている文庫本『新樹の言葉』を手にして、草壁の部屋を出たのだった。
草壁の部屋を出てリビングに戻ると、夏吉が帰宅していた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
気怠そうに挨拶を返す夏吉のこのテンションを直生は気に入っている。彼を見るとテンションというものは無理に上げなくてもいいものなんだなと思えるから好きなのだ。
夏吉に軽く会釈をした後、直生の視線は彼が持っているエコバッグに移った。
「何を買ってきたんですか?」
「ネギと白菜と豆腐」
「今夜はお鍋ですか」
「そ。もう春だけど」
「まだセーフじゃないですか?」
「俺もそう思う」
夏吉はへらりと笑い、冷蔵庫へ向かう。その背を見ながら、直生は夏吉に他の教授と同様の質問をするタイミングを伺った。
夏吉が食材を冷蔵庫に仕舞い終えたタイミングで、「あの……」と恐る恐る口を開く。
「夏吉さんは普段どんな風に教授をやってるんですか?」
正直、教壇に立っている姿も女子大生の中心にいる姿も想像できない。いや、案外この人面倒見良いし、顔もかっこいいからモテるかも……?
直生の質問に、夏吉は片眉を上げた。
「どんな風ってなぁ。こんな風だけどよ」
「はぁ……」
「作ったスライド生徒に見せて喋って……」
そこで夏吉は一度言葉を切って、その後すぐに「あぁ、でも」と続けた。
「古文書読解の授業は通常授業より力入ってんぞ」
「古文書読解……」
「分かる?」
「何となく……」
「昔の手紙とか読むことな」
すごい雑に説明された……
「ちなみに女子大生ウケはすげぇ悪い」
「へぇ……」
確かにちょっと地味かも?日本美術や日本文学と比べたら難しそうだし……
「それでもな、」
夏吉は軽く笑って言った。
「古文書読解は今も続く俺の青春。ガキの頃、親父が蔵から古文書を発見してな。それを見たときから俺はもう古文書にどっぷりだった。中学んとき、授業もろくに聞きやしねぇで勝手に古文書のコピー広げて読んでたら、お前の父ちゃんにアホほど怒られた」
「怒られたんだ……」
俺の父は怖い、らしい。教師をやってる姿なんて見たことはないけど、みんなそう言う。
「怖かったですか?」
「まぁな。でも、あのときの俺は全然気にしてなかった」
「え」
「それぐらい古文書読解が好きだった」
はは、と夏吉は笑う。呆れを含んだその笑い声は昔を懐かしむような温かなものだった。
「その延長線で今も生きてる。悪い大人だよ、俺ァ」
「……そう、なんですね」
夏吉のことを悪い大人だなんて思わない。むしろ、それほどまでに情熱を注ぐことができるものがあるって羨ましい。
俺にとって、それは何になるのだろうか。
好きなもの……好きなものか……
小学4年生くらいまでは、よく母とお菓子作りをしていた。それが好きだったのを覚えている。でも、高学年に上がってからの母は「勉強しなさい」一辺倒でお菓子作りなんてさせてくれなかった。それがすごく寂しかった。
母は俺に教師になってほしいとずっと言っていた。そんなの無理だ。俺が教師に向いているとは思えない。俺は父さんにはなれない。むしろ俺は……俺は……
あーあ……こんなこと思い出して本当に良かったのかな。
目の前で鍋がグツグツ煮立っている。ガスコンロの上に乗ったそれはキムチ鍋だった。そのキムチ鍋の辛そうな匂いにウッと怯んだが、食べてみると案外いけた。直生は辛いものがそう得意な方では無いのだが、これは辛さの中に旨味がある。ご飯が進む美味さだ。
直生がご飯をかきこんでいると、桜城が口を開いた。
「それで、直生くんはどの教科に興味があるんだ?」
ご飯を吹き出しそうになった。
どうやらこの人たち、直生が教授業についてそれぞれ聞いてまわったことを情報として共有しているらしい。何それ恥ずかしい。
「そ、それは……」
どう答えようか迷っていると美澄さんが助け舟を出してくれた。
「それを聞くのは野暮でしょ」
「僕たち4人の中から1人を選べって言っているようなものだ。聞きたくない」
「お前は何目線なんだよ」
草壁の戯言に夏吉はいつものようにツッコむ。
「というか、」
美澄はお椀に入った白菜ではなく、直生を見つめた。
「そもそも直生くんの夢って何かな?将来何を学びたいとかある?」
「え……あ……」
その質問も困る。困るけれど、ひとつだけ頭に浮かんでいるものがある。でもそれを言おうかどうかも迷うのだ。
4人の視線が直生に集まる。
どうしよう。どうしよう。でも……
今日はみんな俺の質問に答えてくれて、自分の好きなものを話してくれた。俺も……話したっていいんじゃないか……?
「あ、あの……」
「うん」
「……母は俺に教師になってほしいってずっと言ってたんですけど、俺は……パティシエに、なりたくて……」
ようやく他人に見せた石ころのようなそれを直生はすごく恥ずかしく思った。宝石をずっと磨き続けているような人たちに言うことではない。
「あ、はは。なんか夢見すぎですよね」
自分の持っている石ころが何だか惨めに思えて直生は下を向いた。
パティシエになりたいなんて夢……現実的じゃない。4人の顔を見れない。お椀の中に入っているしらたきを見つめることしかできない。
「パティシエ……」
桜城がポツリと呟いた。
「良いな。すごく良い」
真摯な声だった。バカにするようなそれでは全くない。次に聞こえてきた声は美澄のものだった。
「うん、良いね。というか、それってこの先直生くんの作ったお菓子を食べられるってこと?」
「しかも、プロになる前の試作品を食べられるってことだ。お得じゃないか」
「お前らはもっと遠慮をしろ。……でも、良いと思うぞ。合ってるんじゃねぇか?黙々と何かやんの好きだろ?」
草壁も夏吉もそう言ってくれた。直生は嬉しかった。頑張れと言われるより数倍嬉しかった。
そうか、この人たちは……
好きを叶えた人たちだから……すんなり肯定できるんだな……
直生はそう思ったけれど、それでも顔は上げられなかった。俯いたまま、しらたきを口に入れた。
そんなことがあった翌日も、直生はいつものように学校へ行った。そして、おおよその人が思う綺麗な形に収まった――言い方を変えれば退屈な――学校生活を過ごし、帰路についた。今日は金曜日。心は軽やかだったが、5日分の疲れが溜まった体は重たかった。
「ただいまです……」
そう言って玄関先で靴を脱ぐ。今すぐにでもリュックを下ろしたい。そんな気持ちでリビングに入ると、キッチンから何か異音がした。ガチャガチャと金属と金属がぶつかる音。桜城がいつも使っているジューサーの音ではない。
直生はリュックを下ろして、キッチンを覗く。桜城が立っていた。
「直生くん、おかえり」
「ただいまです……。えっとこれは……」
直生はキッチンにズラッと並んだ代物を見て、困惑した。
ハンドミキサー、粉ふるい、ゴムベラ、アルミ製のバット……などなど。
この家に来てから今までお目にかかったことのない道具たちがズラリと並び、キッチンを占拠していた。
直生はハッとする。
「これ……全部お菓子作りに必要な道具じゃないですか!どうしたんですか……!?」
「買った」
「買った!?」
驚きのあまり開いた口が塞がらない。思わず信じられないものを見るような目で桜城を見てしまう。彼は少し眉を下げた。
「直生くんの作ったお菓子がどうしても食べたかったのだ」
「……っ」
桜城の瞳が直生を射抜く。あまりにも真っ直ぐであまりにも真摯な瞳。
この人はいつもそうだ。俺を引き取りに来たときもこんな目をしていた。あまりその目でこちらを見ないでほしい。俺には眩しすぎる。
「……作ってくれるだろうか?」
そして、俺に判断を委ねる。
ずるい人だ。それでいて、すごく……誠実な人。
直生は観念したように桜城から視線を外した。この期待に応えたい気持ちがじわじわと直生を侵食していく。顔だけじゃなく、首から耳にかけても熱が広がる。
「あ、あの……明日……クッキー、作ってみます」
明日は土曜日だ。全員休み。だからこんな日があってもいいだろう。
「……材料、一緒に買ってくれますか?」
「もちろん」
そう言って微笑んだ桜城は、やっぱり眩しかった。
オーブンから出したそれを見て、直生は顔を大きく顰めた。食欲をそそる香ばしい匂いがする予定だったそれは何とも焦げ臭くなっている。
「皆さん……すみません……」
直生は周りに立って見学していた大人たちに謝った。ションボリと肩を落とす直生を余所に、彼らは黒くひび割れたクッキーに手を伸ばし、パクパクと食べていく。
「いや、ほんと……無理しないでください。俺が全部食べるので……」
「失礼を承知で言うが……」
桜城は至極真面目な顔で直生に告げる。
「今日、直生くんが失敗してくれて良かった」
「え?」
「またリベンジしてほしい」
桜城の言葉に、あははと笑い美澄も直生の顔を覗き込む。
「そんで、また食べさせてよ」
「味見だけは得意だからな」
「お前は食いすぎだ」
他の3人よりも食べるスピードがはやい草壁に夏吉はツッコミを入れる。そう言う彼も草壁に負けないぐらいクッキーを食べてくれていた。
「僕たちは何だって食べる。だから、直生くん。次も楽しみにしているぞ。次はいつだ?来週だろうか?」
「気ぃはや」
4人はそれぞれ笑う。そんな彼らの様子を見て、直生は頬を掻いた。
調子狂うなぁ……ほんと……
でも嬉しいと思う自分がしっかりといることに、直生はなんだかくすぐったくなった。
第2話 おわり




