第六話『夢の国のストレイキャット』 8
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怪我の痛みは身体に残っている。普段なら魔力を巡らせてたちどころに治癒できるが、依然として魔力は戻っていない。麻來鴉は、立ちはだかった一つ目の怪物と対峙しつつ、緩やかに格闘の構えを取った。大鴉の槍は、怪物の後方にあり、すぐには手を出せない。そして、怪物の後ろには、コンスタンス・クレイヴンが控えている。
夢の中。まったく厄介だ。魔力を感じられない以上、ルーン魔術は使えず、得物である槍も手元から離れた。
「どうするの、鴉の魔女さん? 武器を失くしてもはや手詰まり?」
いつの間に用意したのか、コンスタンス・クレイヴンはビーチパラソルの下で椅子に腰かけ、ファストフードの店で買えるようなLサイズの容器からストローで飲み物を飲んでいた。
「あんた、何でそんなにくつろいでんの?」
思わず、呆れた声がでた。
「疲れちゃったの。殴り合いなんて野蛮な事をやったから」
コニーがそう言った直後、ブゥンと、鈍い羽音がして、二つの影が叢から飛び出した。
コニーが座る椅子の傍に、二匹の蠅型の使い魔――フライ・クライが着地する。二匹の脚に挟んで運ばれてきたのは大鴉の槍だ。使い魔たちが飛び立ち、コンスタンス・クレイヴンは槍を地面から掴み取ると、しげしげとそれを見つめた。
「っ、あんた――」
ゴリラのような体格の一つ目の怪物が、すかさずいきり立つ麻來鴉を牽制する。ハッピー・イエティ、とかいったか。こいつもコニーの使い魔だ。夢の中で、魔力もなしに素手で倒し切るのは難しいだろう。
「……変な槍」
穂先から柄の端へ。槍を眺めながら、コンスタンス・クレイヴンが言った。
「この重み……。何でこんな感触がするの? 夢の中なのに――」
ぐらり、と。
一瞬地面が揺れ、景色が露骨に傾いだ。
「ぐっ――!?」
火花のように、頭の中に痛みが走る。魔力が通うのにも似た感覚だが、もっと無理矢理通されたかのようだ。
――これこそは。
「……魔術の粋」
言葉が勝手に口を突いて出る。いや、これは呪文。こんな呪文はしかし、知らない。言わされている。
――脳――
いくつもの光を通わせ、煌めきを放つ水晶の脳。
「救済の……極致」
光の中を漂う無数の蝶。いや、これは幻覚。夢の中でさえ、麻來鴉を惑わす、ただの幻覚――!
「……っ」
ぼた、ぼた、と。
右の掌を、赤い血が滑り、草原へと滴り落ちる。
右手、親指の付け根のあたりに、咄嗟に麻來鴉は歯を立てていた。夢の中とはいえ、痛みは現実と同じように感じる。おそらくは、現実の肉体も、これと同じ怪我をしているだろう。夢の中で襲い来る幻。何度も何度もやってきて、次第に精神そのものを呑み込んでしまう。
「はあ、はあ……」
奇妙な事に、コニーの顔面にも、汗が流れていた。
消耗している。夢の中の事ではない。おそらくは、現実にいるコンスタンス・クレイヴンの身体が、消耗している。という事は、おそらくは今の幻、コニーの意思によるものではない。もっと大きな力。この夢の魔術全体を支えるもの。
――脳――
「あなたは――」
額の汗を拭い、血の気が失せた顔で睨むように、コニーは麻來鴉を見た。
「どうやら夢の世界にとって異物のようね。《水晶脳髄》があなたを取り込もうとした。私の魔術をぶち壊しにされる――」
よろり、と。
力の入っていない身体で、コンスタンス・クレイヴンは立ち上がった。大鴉の槍は、彼女の手には合わないようで、穂先を土に刺し込み、杖のようにしている。
「水晶脳髄……?」
先ほどの幻覚の中に現れた、煌めく脳。もしや、あれが。
「知る必要はない。あなたの心の核を奪い、私はこのインターバルを終える。ハッピー・イエティ!」
一つ目の巨人が、主の言葉に反応して跳んだ。
剛腕が、麻來鴉の衣服を掠めた。一瞬、後方に避けるのが遅ければ、致命的な一撃になっただろう。
「がァっ!」
ハッピー・イエティが、吼える。飛び掛かり、拳を振るってくる。典型的なパワー型の使い魔。
麻來鴉は軽やかに使い魔の拳を躱す。動き回りながらも、コンスタンス・クレイヴンの姿を視界から逃さないように。使い魔は所詮使い魔。向こうの魔力が尽きない限り、容易に出現し続ける。
「ふっ!」
一瞬の隙を突き、ハッピー・イエティの顎を蹴り上げ、そのまま使い魔の頭上を飛び越える。狙うはコンスタンス・クレイヴン。今もパラソルの下で椅子に座り込み、荒い息をついている。麻來鴉の槍に半分身体を預けながら。
「槍返せ!」
跳躍のために踏み込もうとしたその瞬間、靴底に違和感を覚えた。
――地震。再びの夢の揺らぎ。
「くそっ、何で!?」
取り乱した様子で、コンスタンス・クレイヴンが吐き捨てる。
その隙を逃す麻來鴉ではない。揺らぐ地面を的確に蹴り、一気にコニーとの距離を詰める。大鴉の槍を掴んだ瞬間、槍に麻來鴉の意思が伝わる。
「縮め!」
三十センチ大の大きさに縮んだ大鴉の槍の穂先が、コンスタンス・クレイヴンの喉元に押し当てられた。
「意外にあっけない終わりだったね。動かないで。このまま、あんたの喉を掻っ捌くから」
「……っ」
コンスタンス・クレイヴンが苦々しげに顔を歪める。至近距離。彼女にはひと撫でで勝負を決められる〝心核奪取〟がある。だが、この槍はそれよりも速い。
「こんなはずじゃ……。インターバルがこんなに重いわけがないのに……」
「術を長時間展開した代償ね。水晶脳髄……だっけ? 補助用のアーティファクトか何かだろうけど、どうやらあんたの身体のほうが術に耐え切れなかったみたいね」
槍の穂先を、コニーの白いその喉に押し付けたまま、麻來鴉は言った。
いくらコニーが才気に溢れた魔術師であっても、町全体を包み込むような魔術を使い続ければ、肉体への負荷は著しいものになる。コニー自身は、それを夢の中から吸い上げる人々のエネルギーで相殺できると思っていたようだが、現実には肉体がついていかなかった。それを証明するかのように、ハッピー・イエティが煙を噴き上げながら、どろどろと溶けるように消えていく。
このまま、夢の中でコニーにとどめを刺す。
痛みはある。だが一瞬だ。夢の中とはいえ、殺人行為に躊躇いがないわけではない。さらに言えば、この世界での強烈な死の経験が、現実のコニーにどんな影響を及ぼすか。いや。今、コニーの術の犠牲になっている人々がいる。ならば、する事はひとつだけだ。
「いやだ。いやだ。いやだ。こんなところで――」
怯えるコニーの言葉を聞かないように、麻來鴉は心を無にする。引く。槍を。一瞬。その喉に。
「いやだ。いやだ。いやだ――」
まるでコニーの感情が流れ込んでくるかのように感じるのは、ここが夢の世界だからか。夢は霊感を研ぎ澄ます。他者の強烈な感情を垣間見るのは、現実世界で霊視をする感覚に似ている。槍を、引く。下方へ。コニーの首を斬る――
いやだ。いやだ。いやだ。こんな決着は。こんなところで負けるのは!
――〝動け〟!――
「っ!?」
パン! という弾けた音と。
麻來鴉がよく知った魔術が、すぐそばで炸裂した。
槍は空を切っていた。すぐそばにいたはずのコンスタンス・クレイヴンの身体は、麻來鴉から数メートルは離れた位置にあり、地面には、彼女の足をそのまま猛スピードで移動させたかのように、二本の線が残っている。麻來鴉は、確かに見た。コニーの胸元で、群青色の魔力によって描かれた〝騎乗〟のルーンが、静かに掻き消えていくのを。放心状態の彼女の肩の辺りから、やはり群青色の翅を持った一匹の蝶が、ひらひらとどこかへ飛んでいくのを。
「今の……」
間違いない。ルーン魔術だ。だが、何故? コンスタンス・クレイヴンがルーン魔術を習得していた、などという情報はない。夢の中でも、現実世界でも、彼女はルーン魔術を使ってはいない。
麻來鴉は瞬時にあらゆる可能性を検討する。ルーン魔術は刻印の魔術。コニーがルーンを刻んだ何らかの物品を持っていた可能性はある。だが、ここは夢の中だし、ベッドで眠ったままだという彼女の状況を考えるなら、現実でルーンが都合よく発動したというのは考えづらい。
では、奪われたか。確かに、麻來鴉は夢の中に入ってから魔術を使用できない状況にある。コニー自身も知らぬうちに、魔術能力を奪取していたのか。いや、中途半端だ。魔術が奪えるのなら、彼女の言う心の核とやらも奪えて然るべきだろう。
答えは、もっと単純なはずだ。
「……まさか、模倣した?」
麻來鴉がその思考を口にした瞬間、コンスタンス・クレイヴンの身体から、群青色の暗い光が迸った。
ただ、群青色なだけではない。
冷たく光る青い魔力の中に、墨やインクの染みのような、抽象的な真っ黒な模様が、絶えず形を変えながら蠢いている。
「模様持ちの魔力……!」
レアケースの続出だ。ファリーザの二色の魔力もそうそう見るものではないが、魔力の中に模様を含む者も希少だ。何故気付かなかったのだろう。魔術師ならば、魔術を行使する際は、必ずその者の魔力が身体に表出する。だというのに、コンスタンス・クレイヴンは、これまでその魔力を見せていなかった。せいぜい、カフェで見せた地図の上で、群青色の光が灯った程度である。
つまりは、彼女の能力は、まだその全容を現していなかったのではあるまいか。
「……ふ、ふふふ、ははは」
驚いた顔をしていたコンスタンス・クレイヴンは、不意に、弾かれたように笑い出した。
「私、わかっちゃったかも。自分に何ができるのか」
群青色に両目を輝かせ、黒い模様の蠢く魔力を迸らせながら、コニーは言った。
「夢の中なら、私は何でもできるんだ。望めば、どんな魔術でも使えるんだ」
闇に近い群青色の魔力が、二つの人型に形を変える。ずんぐりとした体型の二人。帽子を被った双子の男。マザー・グースのひとつ。鏡の国の住人。
「〝鏡に映って生まれる双子〟」
これまでの戦いからは、想像できないほどのプレッシャーを、麻來鴉は感じ取っていた。
おそらくは模倣の魔術。コニーは、現実世界でのファリーザと麻來鴉の戦いで、騎乗のルーンが発動する様を見ていたのだろう。
だが、問題はそこではない。模倣の魔術は、コニーがこれまでの修練で編み出したものでは、おそらくない。
(創ったんだ。この土壇場で――)
二度の夢の揺らぎ。あれがもし、水晶脳髄によるコニーの脳への調節だとしたら。死の衝撃と敗北が迫るあの瞬間に、コニーが窮地を脱するべく、新たな魔術を生み出したとしたら。
覚醒したのだ。夢の中の魔女が。今、麻來鴉の目の前で。
「言ったでしょ。私とあなたは同じ才能。……いえ、違うか。私のほうがもっと上ね!」
コニーの掌で、群青色の魔力が蝶の形を取り、それはすぐさま一枚のカードへと形を変える。
「っ!」
「〝アポピス〟!」
パン! と。
コンスタンス・クレイヴンが手を叩いた。
群青色のカードが、すかさず大蛇へと姿を変える。ファリーザの聖刻文字魔術。文字通り、ヒエログリフが意味するものの力を使う魔術だ。ファリーザのアポピスは無数の黒いコブラを生み出したが、コニーが模倣したものは大蛇だ。どうやら、完全に術をコピーできるわけでもないらしい。アナコンダに似た大蛇は巨体を素早くくねらせ、その顎で麻來鴉を捉えるべく急接近する。
「びっくりはしたけど――」
大蛇が開けた口を狙い、麻來鴉は冷静に槍を放つ。思った通り、脆い。まるで風船が破裂するかのように、槍に貫かれた群青色の大蛇が弾け飛んだ。このまま、跳ぶ。一気に距離を――
「っ!?」
放出された魔力の後押し故か。急加速したのであろうコニーが、すでに目の前に迫っていた。
「――コピーできるのは」
群青色の暗い輝きを放つ、麻來鴉のそれによくに似た槍が、コンスタンス・クレイヴンの手に握られている。
「魔術だけじゃない!」
群青色の槍がすでにこちらを向いている。躱しようがない!
「くっ!」
避けようがない。麻來鴉の大鴉の槍と、コニーの群青色の槍が、同時にお互いの胸元を貫く。
「がっ――」
生身に刃が入り込んだ痛みとともに、夢の世界が真っ黒な闇に包まれた。




