第一話『チェルムスフォード深夜妖殺』 2
「へえ……」
麻來鴉は冷静に見当をつける。召喚術。魔法陣なしで呼び出しているあたり、そう遠くない場所で待機させているモノだろう。化け物を使役する化け物というのは、探せばそれなりにいるものだ。
空間の揺らぎの中から、腕が生えて来た。それは次第に肩、足、頭と姿を現してくる。
異形の化け物ではなかった。それは人の形をしていた。どこにでもいそうな格好の者。一人はシャツに着古したチョッキ、もう一人は柔和な印象のワンピース。共通しているのは、二人の胸元で揺れる銀のロザリオ。見覚えがある。いや、彼らは――
「――ッ!?」
平衡感覚が消える。身の自由が奪われ、急転直下に天地が逆さまになった。
が、それも次の瞬間には元に戻っていた。視界は戻ったが、体は動かない。いつの間にか、麻來鴉は椅子に座っていた。胴や腕、両足は革のベルトで締め付けられ、固定されている。
「――天にまします我らの神よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になる如く、地にもなさせたまえ」
場所は今の今までいたフロアとは違う、見知らぬ部屋へと移っていた。暗い、地下室のような一室。
椅子に縛り付けられた麻來鴉の前で、男が主の祈りを唱えている。いや、部屋の隅で待機している女もだ。祈りを唱和する二人の声が、麻來鴉の脳髄に響き渡る。
エンフィールド夫妻だった。写真に写っていた二人のエクソシストが聖書を片手に縛られた麻來鴉と対峙している。その顔には黒い影が落ち、表情まで伺い知る事は出来ない。
「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦す如く、我らの罪をも許したまえ。我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」
「アーメン」
さながら悪魔祓いの序幕だった。祓いを行う者たちが主の祈りを唱和する事で信仰の力を空間に満たし、悪魔の力を制限するのだ。
悪魔祓いの担当はエンフィールド夫妻。そして祓われる悪魔は、麻來鴉である。
「一九九六年七月九日記録。この者は、少女の身でありながら悪魔を崇拝し、悪魔にその身を捧げ、宿らせた大罪人である。したがって私、スティーブン・エンフィールドと妻、リズ・エンフィールドが神の名のもとに悪魔祓いを執行する」
何か冷たいものが顔にかかった。同時に、皮膚が焼かれるような痛みが走る。
「ぐぅっ……」
聖水だ。闇の世界に属する者や、それに近しい者たちを焼く。呪われた怪物はもとより、魔女でさえも。
「無垢であろうと努め、真っ直ぐ見ようとせよ。平和な人には未来がある」
「背く者はことごとく滅ぼされ、主に逆らう者の未来は断たれる」
次々と聖書の一節を読み上げる二人の声が麻來鴉の拘束をさらに強めていくかのようだ。魔力が体内をうまく通わない。
――操られているか? すでに彼らは敵の手に落ちたのか? 悪魔に魂を売った者たちの言葉や聖水が、何故神の加護を得ているのか――
……彼らは、本物か?
「聖なる水の裁きを――」
ガラスの砕け散る音。一度、二度ではない。いくつも割られている。エンフィールド夫妻が床に叩き付けているのだ。聖水の入った小瓶を。
そして、部屋中がしんと静まり返った。スティーブンもリズも、夫妻は一言も発しない。
床に流れた聖水が、奇妙な軌跡を描いて麻來鴉の足元までやってくる。一本、二本。いやもっと、もっと。
「マジか」
思わず呟いた。どういう仕掛けか、砕け散ったガラス瓶から次々と水が湧いて出てくる。まるで魔法の泉だが、そのスピードが早すぎる。水の量は秒単位で増していき、気が付けば足首が水に浸かっている。じたばたと身を捩るが無駄だ。物理的に拘束されているうえに、魔術も夫妻が唱和する聖書の文言によって封じられている。
「ぐっ。はっ――」
水はすでに胸元にまでせり上がっていた。水がぐっしょりと染み込んだ衣服が重い。エンフィールド夫妻も同様のはずだが、聖書を読み上げる声は止まらない。
水が喉元までやってきた。
「がはっ――!」
麻來鴉の体は部屋中に満たされた聖水に呑まれた。
聖書を読み上げる夫妻の声が聞こえる。言葉は聖水を檻にし、重石にし、箱にする。麻來鴉の力が封じられていく。
――見ろ。水に浮いたぞ。この者は魔女だ。殺さなければならない!
知らない男の胴間声が聞こえた。どこかの広場の景色が見えた――笑っている。男。女。魔女と認められた少女を見て笑いをひた隠しにしている男女が見える。ジョン。メアリー……。それにもう一人。
――古い時代。古い記憶――閃きは稲妻の速度で、麻來鴉の体内に魔力を通わせた。
「好き勝手やってくれたじゃない」
水の中で、しかし一言一句はっきりと麻來鴉は言った。
いや、もはや水の中ではない。この水も、二人のエクソシストも、体を縛る拘束具ですら本物ではない。
「ネタは割れたわ。化け物のくせに悪魔祓いなんて、出来もしない事やってんじゃねえってのよ!」
両目がターコイズブルーに爛々と輝く。放出した魔力が幻の拘束具を吹き飛ばし、水に満たされた部屋の幻影を消し飛ばす。
麻來鴉は、再び店内に戻っていた。当然の事ながら、衣服はおろか髪の毛一本濡れていない。
目の前には、ジョンが額から血を流してうずくまっている。
「……大したもんじゃないか。オレの幻術を破るなんてな」
ジョンの足元に何本もの煙草が落ちている。規則に沿って並べてあったようだが、今は乱れていた。煙草の魔法陣。恐らくそれがジョンの術の触媒なのだろう。
そして崩れた魔法陣の中心と思しき場所には、二つの頭蓋骨が並べられていた。
「捕まえた相手を過去の幻の中に封じ込める。それがあんたの術ってわけね。獲物の頭を欲しがるのは、過去のバリエーションを増やすため。獲物の脳から記憶を抜き出すため」
二つの頭蓋骨には、同じ位置に同じ大きさの穴が開けられていた。
「二人を食ったのね」
「当たり前だろ。化け物の腹の中に飛び込んで来たんだから」
口元に流れた血を舐めとりながら、ジョンがせせら笑う。真っ赤な血は、だんだんとどす黒く染まりつつあった。
「弱っちいエクソシストどもだった。メアリーごときに二人揃ってやられやがった。脳味噌の中はガキの事だらけだったしな。全く人間って奴は」
「さぞ味わった事でしょうね。彼らの記憶を」
麻來鴉は静かに言った。さながら氷柱が落ちて砕けた深雪の夜のように。
「おや? 怒っているのかい、魔女のお嬢さん?」
にやにやと笑うジョンが、くしゃくしゃのソフトケースから煙草を一本取り出して口に銜える。
「別に。退魔屋が死ぬのはどうしようもないわ。この業界では、死は常について回るものだから」
麻來鴉の言葉に、ジョンは喜色を浮かべながら、銀色のジッポで煙草に火を着ける。
「二人の魂は今もここにある?」
「さあ、どうかな。頭はオレ、体はメアリーが食う。魂はマシューの物だ。おっさんが食いそびれてなければ、まだ残っているだろ」
「ならあんたと遊ぶのもおしまいにしないとね。子どもを待たせているのだから」
ジョンの端正な顔が、不快な感情に醜く歪んだ。
「やってみろ。オレの幻術を破ったからっていい気になるなよ。お前は今も、オレ達の腹の中にいる事に変わりはないんだぜ?」
帽子の下に隠れた麻來鴉の口元が、にっと笑う。
青く光る魔力が、全身から迸った。両眼は宝石のように美しい。
「それではその腹、破ろうか」
「何ぃ?」
ジョンの問いに、麻來鴉はただ右手を掲げる。指先から迸る魔力が空間にルーンを描き出す。
「〝落ちろ〟」
パチン、と魔女は指を鳴らす。
ゴロゴロと、雷のひしめき合う音が聞こえる。
「……何だって――」
ジョンが怪訝な顔を浮かべたその瞬間。
遠く離れた雷雲の中から放たれた一本の槍が、呪いに
覆われた店の屋根を突き破り、雷光のスピードでジョンの体を貫いた。
「ば、馬鹿な……」
半分に裂けたジョンの体から、真っ黒な液体が流れ落ちる。まるでコールタールのような、腐臭を伴うおぞましい化け物の体液だ。
「ひとつ、嘘をついたわ」
かつかつと靴音を鳴らしながら、麻來鴉はジョンに近付くと、その体を貫く槍を引き抜いた。
「これがわたしの魔法の杖。本当は最後の最後まで使わないつもりだったけど、そういうわけにもいかなかったわね。そこだけは褒めてあげるよ、ジョン」
もはやジョンに答えるほどの余裕はない。すでに体は崩れ落ちる寸前だった。
「嫌だ……嫌だ……俺は、俺はまだ……」
末期の言葉は、もはや声になっていなかった。
「ああ、くそ。マシュー、何でオレがお前なんかより先に……」
ズブズブと音を立てて、半壊したジョンの死体はどす黒いコールタールになり、クラブの床へ吸収されていく。
「……さあ、いい加減出て来なさい。マシュー・ホプキンス」
ずるずると、何かを引き摺るような音が暗闇から聞こえて来る。
「マ……ジョ……タマシイ……」
ずるずると、厚手の布を引き摺るような音。子どもと見紛うような背丈の男。襤褸を身に纏い、フードを目深に被った、足元が見えているのかさえ怪しいよたよた歩きで、こちらへやって来る。
虚ろな瞳は、もはやどこを見ているのかさえわからず、皺だらけの顔は何年、いや何百年現世に留まっているのか伺い知れない。わかるのは、その声に醜悪な貪欲さが染み付いている事だけ。
「タマシイ……ワタシノ……タマシぃぃぃぃぃ」
ニタニタと皺だらけの顔が嗤う。
かつて多くの罪なき者を魔女と断じ、その命を奪った魔女狩り、マシュー・ホプキンス。その亡霊。
店の奥に潜んでいた主が、ようやく姿を現した。
「聞きたい事は一つだけよ。マシュー」
スマートフォンの画面を向け、麻來鴉は問う。
「二人はどこ?」
怪物となった男に、問いの意味が理解出来たのかどうか。呆けた表情で画面を一瞬見つめたマシューは、次の瞬間ケタケタと笑い声を上げた。
「ひっひっひひいひひひぃ」
襤褸の内側から細い腕が伸びる。
その手首に掛かっているのは、二つのロザリオ。
「食った食った食った食った」
どろりと、麻來鴉の背後でコールタールめいた闇が広がる。触れれば魂まで溶かされる闇。さながらマシューの胃液といったところか。尋常ならざる呪力の量。
だが彼女には満ち満ちた魔力と、槍がある。
「食う食う食う食う食う」
「それは無理よ、マシュー」
コールタールが襲い掛かるよりも早く、麻來鴉の槍が白い光となって手の中から放たれ――
「食――」
一瞬の稲光とともに、槍の穂先がマシューの頭部を蒸発させた。
頭部の無くなった怪物の死骸から、麻來鴉はロザリオを抜き取る。ほぼ同時に、仕事を果たして戻って来た愛用の槍を見もせずに掴む。
ロザリオを見つめながら、麻來鴉は言った。
「……行こうか」
槍で破った壁の穴から外に出ると、スマートフォンを持った少年が麻來鴉を待っていた。胸にロザリオ。両親とお揃いの物だ。
「お待たせ。少年」
そう言って、二つのロザリオを手渡す。おずおず伸ばされる幼い手に、しっかりと両親の遺品を握らせる。
風が吹いた。少年の姿はすでにそこになかった。怪物どもと戦ってクラブは、跡形もなく消えている。
残ったのは、チョコレートの箱だけだ。しゃがみ込み、麻來鴉はそれを拾う。
「もう一人で待つ事はないわ。これからは」
空はすでにほの明るい青色を見せ始めていた。夜明けだった。
『チェルムスフォード深夜妖殺』了




