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おたまじゃくしの夢

作者: 梅本千叶文

小学生の頃人生で初めて書いた作品を発掘したので、加筆修正してみました。

 揺らめく空は、いつも頭上にあった。


 それを水面が描く模様だと解したのは、気まぐれに境界から顔を出した四月のことだった。


 世界は案外広くミドリ色。拓かれた視界に、これまで漂っていた空間の狭さを知る。この状況を、井の中の何と言ったか。


 ぴちゃり――波紋、その始まりに飛沫。


 飛び出して行ったのは、ああそうだ。蛙だ。


 不細工な手足、不細工な顔付き。愛し難い見た目に、愛し難い鳴声。くすんだミドリの生き物は、同じ色の背景と絶妙に馴染まない。


 しかし。そんな醜い侵入者を、世界は拒まない。果たして自分は何故進めないのか。歯痒い思いをしながら、恨めしそうに凸凹の背中を眺めた。


 のそりと歩き出した蛙が、不意に跳ねた。否、跳ね飛ばされた。その浮遊に意志はない。


 大蛇がいた。一体その巨躯をどこに潜めていたのか、全く意識の外から、枯草色の大綱が現れたのだ。


 次の瞬き。世界から蛙は消えていた。満足気に胴を膨らませた蛇だけが、ゆったりと茂みに潜っていく。


 命が終わる一連の、凄まじい刹那に立ち会った時。溢れた感情は、温い橙色。憧れと呼ぶ。


 蛇には、自分と同じように前後の脚がなかった。鈍臭い蛙を飲み込んだ胴太の姿は、正しく自分と瓜二つであった。


 いつかきっと。大蛇となり、あの美しい世界の守護者となるに違いない。場違いなミドリの闖入者を丸呑みし、骨まで溶かして浄化してやるのだ。


 視認不可能な渦巻き模様の黒い腹に誓う。口に含んだ藻は、奇しくも疎んだあのミドリ色だ。幸先が良い。



◇◇◇



 数日のうちに、夢の雲行きは怪しくなった。誇らしい長い尾の付け根から、醜悪な一対の脚が生え出てきたのだ。これは、輝かしい未来図、将来の手本たる大蛇が持ち合わせていないモノだ。


 同時に、憧憬を象徴する尾は、日に日に短く縮んでいった。一体、どこで間違えたのか。望まず与えられ奪われていく毎日に、恐怖を覚えた。


 渇き、渇き、渇く。口に含んだ藻は、もう一切を満たしてはくれない。肉だ。今必要なのは、肉だ。何故、気が付かなかったのだろう。汚らしい肉の味を知ることは、我が身を正しき姿へと変化させるのだ。穢れを取り込み、清らかな腸で祓う。あの日見た大蛇は、そうして世界の鎖となったのではないか。そうに決まっている。


 水底に、朽ちた魚があった。不思議だ。喰いたくてたまらない。これまで避けて泳いでいたそれは、今どうしようもなく求めているモノなのだ。


 この欲求は、正解へと至るべく思考した結果生じたのだろうか。もはや、どうでも良かった。


 貪る。一口喰むごとに、本能が肯定してくれる。これで良い。お前は正しい。もっと喰らえ。


 力が漲る。もっと効率良く食べる方法は無いか。肉の端を咥えて丸い頭を振り回すだけでは駄目だ。時間がかかる。そうだ。この前脚を使って押さえつけながら噛み千切るのはどうだろう。やってみよう。うん。速い、速い。これは素晴らしい気付きだ。もっと。


 ――"前脚"。確かな感覚がある。自在に動く水掻き付きの指は、きっと食事と遊泳に全く新しい可能性を与えてくれるだろう。だが、しかし。


 映さずとも分かる。今の自分は、紛うことなき蛙だ。色こそ泥のように黒いが、この四肢は、すぐにでも大地を掴み跳躍する機を待望している。


 呼吸が乱れる。ここにいたら終わってしまう。上へ、上へ。


 水面に飛び出す。その始まりに飛沫。真新しい肺に、空気が流れ込む。嗚呼、こうやって息をするのか。


 自分は罪を犯した。もっと早く役割を知るべきだったのだ。水中で守護者としての適性を測られ、いち早く気付いた者だけが蛇になれたのだろう。だとすれば。麗しき世界に踏み入るのは憚るべきか。


 否。この窮屈な池は、もう居場所ではない。呼吸はままならないし、どうしたって、新たに得た身体は陸へと上がるためにある。


 一歩踏み出す。もう一歩。焦がれた世界の足元は存外硬く、決して歓迎されているとは思えない。


 後ろ脚に力を溜める。今にして思えば、短い試験期間だった。ただ、それだけの間使わずにいた力だ。跳躍には充分過ぎる。嫌々自分を支える地面にこれ以上の迷惑をかけないよう、可能な限り空中で過ごすべきだと考えたのだ。


 跳ねる。直後、強烈な圧力が全身に加わった。輝いていた視界が暗転する。


 そうか。自分は今、あの日の蛙と同じように、守護者によって捕食されたのだ。絞られる肉体、泡立つ皮膚。終わりが近付く。


 ただ、これは先刻察知した無為な終わりとは異なる。心は、喜びに満ちていた。


 そうだ。取り込まれたのだ。これから我が身は溶けて大蛇の血肉となり、夢を叶えるのだ。


 こんな形の救済が用意されているとは、世界はやはりどうしようもなく美しいらしい。


 ――満足だ。



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