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第一話 ビュザンティオン市街地、トゥグヮン街区の旅宿にて

ーー皇統元紀四二九年 五月二日 ダキア王国・ネセバル市近郊ーー




 二頭の馬の蹄が、街道の土を蹴立てる。


 愛馬に乗って、暖かいキンメリア海からの風を浴びながら走る。広大な内海の空に浮かぶ雲の合間から、太陽はいつの間にか高く昇っていた。多少も長旅の疲れを覚えながらも感じる、心地よい春の気配。この旅の目的地、オステン帝国首都ビュザンティオン市には、今日のうちに到着するだろう。


 ちらと、並んで走る彼女に目を遣った。彼女とは、幼い頃からの付き合いだった。同い年の従姉妹にして、恋人同士。短い栗色の髪をなびかせていた彼女は、僕の視線に気付いたのか、こちらを見返してきた。目が合ってどぎまぎした僕は、思わず顔を反らしてしまう。笑いながら何か言っているようだったけれど、よく聞こえない。


 しばらくすると、彼女の馬が道の脇に外れて停まった。僕も合わせて道を外れる。


「ヨアン、お昼にしよう!」


 見れば、太陽は空の高みに昇っていて、僕たちをじりじりと照りつけていた。


 空腹は意識するともう止まらなかった。僕は笑って言った。


「そうだね」




 日持ちのするチーズの塊を薄く切り落として、黒パンの切れ目に沢山挟む。その上から缶詰の魚を押し込んで、そのまま喰らう。


 手間をかけられない道中の昼食には十分だ。昨日の夜買ったパンは、あっという間に二人の腹の中に収まってしまっていた。


 幌馬車が一台、ガラガラと音を立てて北へ向かっていった。隣に座る彼女が、おもむろに口を開いた。


「……今だから言うんだけどさ。昔、ヨアンのことが嫌いになったことがあって」


「え」


「あ、いや、青年儀よりも前の話ね。十四くらいの時。少しずつヨアンが私から離れていって、私を置いて大人になっていくような気がした。劣等感って言えばいいのかな、それで私は背伸びして、大人であろうとしてた。自分の中では、ヨアンと張り合ってたんだよね」


「そんな風に見えなかった」


「うん。自分が勝手に対抗して、嫌ってるのが分かったら、それこそ幼稚に見られると思ったから」


「じゃあ、なんで好きになってくれたの?」


「嫉妬に気付いたから。……嫌いになったのに、ずっと近くに居たかった。いつだったか分からないけど、ヨアンを疎む気持ちより、他の人のところに行かないでほしいって気持ちが強くなってたことを自覚したんだ。自分だけの傍にいてほしいって」


 それからメイは、はにかんで続けた。


「そこからは大混乱でさ。ヨアンのことが嫌いなのか好きなのか、判らなくなった。でも、ふとした時に腑に落ちたんだ。ヨアンのことが『好き』なんだって。そしたらもう抑えられなかった。これ、アラルサライで気付いたんだよ」


 それは一年前、キズィリケント市まで旅した時のことだ。アラルサライ市はキズィリケンㇳ市に着く前日に泊まった都市まちで、僕はそのキズィリケント市の告白されたのだった。


「今も、僕のこと嫌い?」


「いいや。あれから、全部好きになった。大人びてるところも、本当は子供っぽいところも。ロマンチストで、情熱家で、理想家で、―――」


 耳まで、一気に紅く熱くなっていくのが分かった。思わずメイの口を塞いだ。好きな人に自分の好きなところを列挙される、なんて身が持つものではない。




 恥ずかしそうにぎゅっと目をつむる彼女の、私の口を塞ぐ手をそっと外して、その身体を引き寄せる。驚くように見開かれた両の碧眼に心奪われて、私はささやいた。


「私は、君の目を好きになったんだよ。蒼い炎を閉じ込めた氷みたいな目を」


 その存在が、その温もりが、あまりにも愛おしくて、身体が熱に染まっていく。胸がぴりぴりと震える。


「僕、泣いていい?」


 ヨアンが、本当に泣きそうな目で私の両目を見通してくる。口づけしそうになる衝動を抑えて、代わりにからかった。


「魚と乾酪チーズの匂い」


「ひどっ! ……もう出発しよう!」


 そう言って、焦ったように荷物をまとめる彼女が急ぐのが、時間を気にしてのことではない、と分かるのが嬉しかった。




>>




 僕たちがビュザンティオンの市街地に入ったのは、陽が落ちる間際だった。見慣れた黒煉瓦ではなく、南地中海の白磁と青銅の町並みが、燃えるような陽光を照り返していた。美しい石畳の大通りの紅い空に、遠く尖塔ミナレットの黒い影が映える。聖堂での礼拝からの帰りの人でごった返す中、異国の都市にして懐かしい雰囲気の小路にたどり着いた。


 国際的な交易都市ビュザンティオン市には、オステン帝国の中核をなすイスラーム・テュクトゥルの住民だけでなく、貿易を行う世界各所の人々が拠点を構え、一定数の外系人が居住している。西はエンクラント系、イェンツェ系、ヴェネツィア系、東はアラブ系、イラン系、ジャーヴァカ系、大華系と色とりどりで、キビジュ系の商業拠点が集うここトゥグヮン街区もその一つだ。


 陽はすっかり沈み、ケフィア市の町狭間にどことなく似通った小路を、橙色のガス灯が照らしている。旅宿サライというキビジュ文字を探し出して、その戸を叩いた。


 木製の扉が開くと、中からぱっと光が漏れた。キビジュの商人らしく藍の帽子を被り、耳に石英のイヤリングをした壮年が口を開く。


「君たちも泊まりかな?」


「はい」


「一泊一部屋、四〇〇キュミスだ。それとも、クルシュで払うか?」


「クルシュで」


「三四〇〇クルシュだ。脇に馬屋がある。自由に使っていい」


 奥から、どっと笑い声が聞こえた。


「今日は偶然、客が多くてね。飲むかい? 飲めるだろ、青年」


「ええ」


「ノーヴォ・サライへようこそ、ポードロジュの青年」


「氏族紋帯が分かるのですか」


「長くやってるとね」




 飲酒を禁じるイスラーム圏の都市で、酒が飲める場所はそう多くない。そのほとんどは外系人街区に集中していて、酒好きなキビジュ商人が飲もうとすると、トゥグヮン街区に足を運ぶことになる。だからこの小路には酒屋が立ち並び、一つの店に狭ぜまと人々が集う。


 僕が飲みたそうにしていることを見て取ったのか、荷物を置いた部屋で階下を気にしていると、


「行こう、せっかくだし」


「いいの?」


「いいよ。私もちょっと飲みたいから」




 他氏族には冷たいキビジュの人も、この街では「仲間同士」らしく、大声で歓談しながら種々の酒を楽しんでいた。口馴染みのあるクリム麦酒の杯を取ろうとすると、そんなの帰ればいくらでも飲めるからと、ヴェネツィアからの輸入品らしい葡萄酒の杯を押し付けられた。


 やがて誰かが歌い始めると、いつの間にか順番が決められていて、団体らしいカザノ氏族の出身者による氏族歌の大斉唱の後で、僕たちはケク兄さんに教わった歌を歌った。




 愉快な一夜だと雰囲気に興じていたが、メイには飲ませるべきではなかったのではと煩悶する羽目になった。


 氏族のうちでは珍しく酒に弱い下戸だと分かっていながら、旅の疲れからか普段では考えられないような杯数をメイは乾かした。いつもはメイに合わせて少ししか飲まない僕が、このときばかりはと多め―――キビジュ商人に言う「いたって標準的な」量―――を飲んだのも悪かったかも知れない。


 気づけば、ヨアンがどうのこうのと素面では言わないような昔のことを、大声で喚き散らしていた。


 その時そんなことを思っていたのかと考えるどころではなく、周囲の暖かい目に見守られながら二階の部屋へ引き上げざるを得なかった。フラフラで姿勢を保つこともままならないメイの身体を両手で抱え、二人分の体重が一挙にかかって軋む階段を昇った。


「よあ……ふぇ、にあろ…………」


 恋人が完全に警戒を解いて顔を真っ赤にしている様子は刺激的に過ぎ、こんな顔するんだとか、他の人に見せたくなかったなとか考えながら、彼女を寝床テセクに横にした。そうして、暗闇で一人、悶々としながら眠りに就いたのだった。

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