連作という名の晴天
僕らの遠征は、幕を閉じる。
楽しい時間だとはいうものの、真に楽しめたのは、彼女だけだろう。
肩の荷が下りた僕らにとっては、休息の日々が始まる。
……筈だった
汝の敵は、何時だって自分自身だ。
苦行は自身が決める事であり、善行も又しかるべきである。
集団の意思も、尊重も。個人的な善悪の前では意味を成さない。
__故に。
我曰く、惰眠を貪るとは人の尊厳を損なう事ではない。
失われた睡眠時間に、僕はそう理由を付ける。
……等と。
最終原稿という苦行を終わらせたのちに、僕は吐くのである。
瞼を開けて最初に思ったのは、痺れた腕の感覚だった。
何これ。マジで動かねーわ。死んだ、お疲れ様です等という言葉が浮かんで、確かに痺れた腕が眠気以上に鬱陶しく感じる。
自分の腕が壊死するのだけはごめんだと、僕は腕を伸ばし血流を染み渡らせる。
生き返る両腕。確かに滞る循環機構。
そんな程度で眠気眼が取れる事はなかったが、自室のカーテンを開ければいつもの街並みが広がっている。寸前の記憶のように夜景ではなく、其処には日中の日常が続いていた。
海猫の声も、潮風も無い見慣れた光景。
__どうやら作業中に、所謂寝落ちをしたようだ。
完成した原稿はどうにか友人が確認したようで、スマホを確認すると苛立ちの文章と共に労いの一言が添えられていた。僕は如何やら火薬庫に火を付け足りなかったようなので、余計な一文を添えてから今の時間を確認する。
スマホを確認すると、どうやらかなりの時間ねていたようだ。
「___12時」
窓の外。
空の色は真っ青とした快晴であった。
そんな言葉は死んだので、言い換えれば晴天だろうか?雲一つない空に、夏の暑さを印象付ける蝉の声が甚だ鬱陶しい。精密機械が置かれている僕の部屋にはエアコンが設置しているため、夏の暑さを体験している訳ではないが、それでも外の気温は明らかだろう。
全身の凝りが酷く、これ以上の活動は限界だと察した僕は、我が愛しのベットに潜る事を決意した。我ながら五時間も自宅の椅子で爆睡できたことに敬意を表したいが、もう一度それをやる勇気は無いし、せっかくの休みに身体を休めぬ義理も無い。
こういった時に招集が掛からない文科系部活動のありがたみを口にしつつ、僕は腕を広げて潜り込む決意に満ちる訳だ。
聞き覚えのある音が鳴る。
それは僕のスマホから鳴り、何時までも取る様子の無いご主人に苛立つように曲を流し続ける。両手を広げたままの体制で固まった僕の心情は最悪だった。何より、頭は今でもクリアではない。
「どうも、無視を決めてやると思っていた井辻君です。どうしたの?仕事は終わったけど」
意気揚々と僕は声を出した訳だけど、電話越しの友人は何時もより数段やる気と音量を落として答える。電話越しから察するに、あの後に眠れなかったようだ。
それがどんな理由であれ、彼の寝不足は僕のせいである事に変わりはない。編集者と指導者の立場にある彼の重荷に、僕は尊敬の念を抱くばかりだ。
「どうも、これからお前を殴る森だ。ちなみに、今日の仕事は終わっていないと言ったはずだが、おまえ寝落ちしたな? 今日、演劇部で打ち合わせがある。お前もこい」
演劇部の副部長である森君は、演劇部部長の補佐と共に今回の劇に対しては指導補佐的な立場をとっている。それは彼の手腕と合理的な視点に基づいた計画性が評価され、今のような立場であるからだ。
部長である二学年の長は、どちらかと言えば演劇部の裏方としての能力を秘めており、カリスマ性はあるが表舞台に立つ人間ではない。演じる事ではなく、道具屋として小道具を作成し、部員たちのサポートに回るのを得意としている。
音響との兼ね合い。道具類の制作。演劇部員との調整。
全て部長一人に任せる事無く、出来る範囲をカバーし、目標に向かう。
それは膨大な仕事であり、尊敬の念が途切れる事は無いだろう。
「僕の方はいいよ。行ったら迷惑になるだろう?」
彼らに、セリフを提供するのが僕の仕事だ。
彼らに、題材を提供するのが僕の仕事だ。
必要以上に関わる事無く、その作品はあくまで演劇部と共同で作られた作品でなければならない。
「お前が行かなきゃ話にならん。これはお前の作品だろ」
「君達の作品だよ。ってか、__嫌だ。僕は眠いんだ」
僕個人の作品ではなく、”晴天”としての、新しい作品としてこの作品はある。
晴天はその性質上、一部の人間しか知らない。
歴代の文芸部部長達、それと一部の教職員。その名が何故隠密でなくてはならないのかは分からないが、僕は一つだけを知っている。
名前は凶器になり得る。
名前が人を殺すことがある。
隠された作品に、意味はある。
そして何より、これは僕ではなく”晴天”の作品だ。
「__お前に付き合った俺は一睡もできていないんだがな?エナドリ寄越せ」
カフェインに溺れて溺死する気かと僕は冗談を溢す。
すると、限界ぎりぎりの様で多少怒りを籠った声を出された。
__冗談で茶化せる精神状態で無いようだ。
「すいませんでした。二本でどうでしょうか?」
「全く。__何故、結末を変えた」
彼の愚痴は、今回の事態の話だ。
僕は、期限通りに提出したのだが、今回の遠征の後内容を変えた。正確には結末を少しばかり弄っただけなのだが、今回それに伴い四艇を狂わせる事となり今に至る。幸い敏腕編集者がどうにかきぢつまでに間に合わせる予定を組み、こうしてぐっすりと机に臥している時間を取れた。
「__そのほうが、いいと思ったからだよ」
僕は他人に迷惑をかけたことを深々と反省し、心の底から言葉を吐く。
この物語は、この言葉で締べきだと思った。
ただ、それだけだ。
「クオリティーを意識するのはいいが、事情をわきまえろ。お前は何時だってそうだ」
「その為に優秀な編集者がいるからね」
「誰の事か知らんな」
「僕もだ。知らない人だね、彼の事は」
冗談を言いながら、僕は机から腰を上げた。
背伸びだけではどうにも足りない。こんな所にいれるかと、ベットの上に腰を落ち着ける。電話の主は片手間に作業をしているようで、パソコンを弄るような音が聞こえる。
「まぁ、そんな事はどうでもいい。今日の五時だ。夏休みの関係上、一時間しか出来ないが。軽いミーティングと今後の調整を済ませる。お前、仕事仲間の顔も知らないだろ?」
「二年の連中と、三年のボケなすは知っているよ」
道化の如くわざとらしく答えると、彼はため息をついてこう答える。
「それ以外の一年の話だ。三年はもう居ない」
「君は、僕が人見知りである事を知るべきだね」
「ヒキニートは、お外で天日干しをしないとカビ塗れになるからな。……五時だ、遅れるなよ?」
「寝坊したら許してくれよ?」
「その時は、お前を東京湾に沈めてやる」
今の治では、確実にやりそうだ。
何時もの迷惑に対しての謝罪と、今後の彼の健康状態に配慮を含め。僕は簡素に謝って締めた。
「_悪いね、迷惑をかけた」
「今更だな。迷惑をかけるのもお前の仕事らしい。__程々にしてくれると、ありがたいのだがな」
”お前の作品を楽しみにしている人間が、おまえの文句を言えるかよ”
その言葉に応える事無く、僕は電話を終える。
「さて、どうしようか」
相変わらず日差しは続く。
連日の猛暑に、飽き飽きとしているのは僕だけではないだろう。
__何かをする訳も無く、何もする気は起きず。
僕はただ、惰眠へと戻るのであった。