2話 はじまりとキャンパーさん
待ちに待った週末。
天気よし、体調よし。
背負っていた安物のバックパックを木の脇に下ろす。肩に残る荷物の重みの名残さえ、幸せに感じられる。
爽やかに吹く風。そよぐ木の葉の隙間から漏れる光。緑と土の匂い。
キャンプ最高。キャンプ最高だ。
僕にとってキャンプとはまさにパラダイス。
日常の慌ただしさから離れ、緩やかに自然の中で過ごす時間を、至高の贅沢と言わずに何と言う。
気の合う仲間とのキャンプも素晴らしいが、男一人で静かにソロキャンプ、やはりこれが一番僕の好みだ。
最近はアニメやらでの流行りもあって、男一人のキャンプは全く珍しいことではない。
……2020年頃にあたる、前世の僕の感覚ならば。
現在は、2040年。さっきから周りの女性たちの強烈な視線を感じる。
単純な好奇心なのか、性的なそれなのか、いずれにせよガン見されているのがはっきり分かる。
だってほら、ほぼ満員のキャンプ場に、見渡す限り女、女、女。
あ、向こうの家族連れに一人だけおじさんがいるわ。ちょっと安心するね。
僕も未だに慣れないこの感覚について説明するには、色々とこれまでの経緯についてお話せざるをえない。
周囲からこちらに向けられている視線。その主である女性たちは、僕の姿に興味津々みたいだが、僕と同じ「正常」な感覚の方には、男のソロキャンプ中のケツなんて全くもって魅力がないだろうから、まずはその間、僕に起きたこれまでの、あべこべなあれこれについて話していきたいと思う。
◇◇◇◇◇
おかしな生活の始まりは病院のベッドの上だった。
目が覚めるとあれだ、知らない天井というやつだ。
昨日の夜もいつも通り、くたくたになるまで働き、バツイチ独り身の寂しいワンルームのアパートで、適当な安酒を飲んでいた。明日の会社のことを考えると何もかも億劫で、つまみも用意せず酒だけを煽っていた。
いや違ったか。
出席日数がまずいことになっていると、久しぶりに高校に呼び出された帰り道だったはずだ。
母を1年ほど前に亡くした僕は、妹のたっての希望で、二人きりでの生活を続けていたが、やはり子供だけでの生活にはいろいろと無理が出て、学校を休みがちになってしまっていた。
これからのことを考えると何もかも億劫で、通学路を外れ、ぶらぶらと歩きまわっているところだった。
ん? 僕は何を言っているんだろう。まだ酒が残っているのだろうか。
高校の出席日数って、高校もなにも僕は、20年くらい前に大学まで出ているじゃないか。
妹ってなんだ? 僕には兄はいたけれど。
母もまだ存命だったし。
……いや、一年前に無くなった母は、大手食品メーカーの管理職だった。照れくさくてあまり言葉にはしなかったけれど、凛々しく出社する母は僕の憧れだったのだ。
……違う管理職は僕だ。明日の仕事が億劫だ。
……なんだこれ。
ヤバいお薬に手を出した記憶だけは無いけれど、他の記憶?がめちゃくちゃだ。
そもそもここはどこだ。病院のようだが、なぜ病院に?
僕は仕事のストレスで頭がおかしくなってしまったのか。
違う、仕事って何だ。高校からの帰りに、駅前の通りを歩いていた記憶がある。僕は事故にでもあったのか。
違う、家で酒を飲んでいたんだ。事故ということはないだろう。とりあえず会社に電話しないと。
違う、事故だとしたら今はいつなんだ。妹はどうしている?
違う、無断欠勤はまずい。朝一の取引先との打ち合わせには僕がいなければ。
違う。違う、違う、違う。
と、最初は慌てたけれど、駆けつけたナースさんが現れたころには、不思議なもので、大体の記憶の整理がついていた。
今は担当と思われる女医さんに、あれこれ質問を受けているところだ。
「名前は早島亮一です。高校二年です」
バツイチ独身男だったのは、どうも前世の記憶?か何かです。いや、仕事に行かなくていいってのはとりあえず助かります。
「今は2040年2月だと記憶しています。確か2月10日だったかと…。」
おっさんの記憶的には2021年です。
あれ? これが前世の記憶だとすると、僕は酒を飲んでるところで死んじゃったのか?
「高校に呼び出されて、その帰りに駅前をうろついていたのは、途中まで覚えています。……ねえ先生、妹はどうしていますか? 連絡をとらせて下さい」
まあ、おっさん時代の僕が死んでいたとしても、それはそれでいいだろう。悲しむ家族もいなかったんだしな……。
結果的に女医さんはこちらの質問には答えることなく、一旦離れる、と言って病室を出ていった。
17歳の僕は、カチンときて声を荒げそうになったが、おっさん時代の記憶が冷静にそれを押し留めた。
悪い癖で、病室を出る女医さんのケツはガン見した。
携帯があれば、一年前から唯一の家族になってしまった妹に連絡が取れるのだが、どうも近くには見当たらない。
一応、なんとなく状況はつかめてきたが、自分の体を見ると明らかに若々しいから、17歳のピチピチ男子高生、早島亮一の体であることは間違い無いだろう。
ケガはこれといって無い。体はなんだかすごくだるいけど。
しかしどうも記憶や思考の方は、おっさん時代の影響の方が大きい気がする。
だってナースさんやら女医さんやら、エロく見えてるしね。
この時代の男子高生の感覚なら、担当の医者が女性なんて、不安でしょうがないって感じのはずだろう。
細かい状態がわかったのは、しばらくして病室に、妹の早島雫が駆け込んできたところからだ。
病院から連絡をとってくれたのだろう。助かる。
「お兄ちゃん! 良かった、もう起きなかったら私どうしようって……。もう、私にはお兄ちゃんしかいないんだから! 独りにしないでよう、お兄ちゃん……」
……かわいい。
なんだろうこの感覚。見慣れているはずの妹の黒髪、大きな瞳が、なんだか妙に僕の男心に刺さる。
普段なら透き通る鈴の音のようだった雫の声には、明らかに涙が混じっていた。
密かに僕が気にいっていた柔らかい黒髪も、慌てて駆けつけてくれたのか、少し乱れてしまっている。
「雫、心配かけてごめん。どうも大きなケガは無いみたいなんだ。大丈夫だよ。来てくれて、ありがとう。……それで、そもそも僕はなんで病院に?」
雫はベッドの横から僕の体を痛いくらい抱きしめて、ゆっくり、答えた。
「お兄ちゃんは、駅前を歩いていたところで、急に倒れたらしいの。それで救急車に運ばれて、ここに」
なんだそれ怖いな。何かの病気か。
というか、明らかにさっきからおかしい、この前世? と思われるおっさんの記憶が原因としか思えないが。
「お兄ちゃんはずっと二週間も、眠ったままだった。お医者さんも、検査しても何もわからない、ずっと目覚めない可能性もあるって、嫌なこと言ってきたし……」
二週間!? うわ、それで雫はどうやって暮らしていたんだ?
というか僕の学校、明らかに出席日数が足りないぞこれでは。
いや、そんなことはいい。まず今、僕が言うべきことは何だ。優先すべきことは何だ。
母が亡くなったころの、雫の痛々しい表情が頭をよぎる。
もう雫には、不安な思いをさせてはいけない。
僕は両手を、努めて優しく、僕の腹に顔を埋めた妹の黒髪に沿わせた。雫の肩がぴくりと揺れた。ゆっくり、ゆっくりと撫でる。今、大切なものは、これだ。
「雫。寂しい思いをさせてごめん。これからは絶対に独りにはしない。もう大丈夫だからな。かわいい妹をこんなふうに泣かせるのは、今日が最後だよ。」
ゆっくり、ゆっくり雫の頭を撫でて、ゆっくり、ゆっくりと確かめるように息をする。
慌てているときこそ冷静に。おっさんの僕の記憶が、今の僕を支えてくれる。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
雫の声も、僕を抱きしめる腕も、ずっと震えている。
今は雫を、妹のことだけを考えなければ。
少し落ち着きを取り戻した雫は、それから少しずつ、今の状況を説明してくれた。何度か泣きながら。
今は親交のあった親戚の家に居候させてもらっていること。雫は急遽その家の近くの高校に転校できたこと。
僕が目を覚まさない中で、どれだけ不安で、寂しかったか。
とはいえまあ、雫がなんとか暮らせているならば、一番の問題はここからだ。
しばらくして雫は、ようやく笑顔を浮かべて、でも僕を抱きしめた腕は離さすにこう言った。
「ま、お兄ちゃん男なんだから、これからも女の私が、頼られる側なんだからね。……ていうかごめんね、正直お金はお兄ちゃんに任せっきりだったから不安でさ、個室とか、男のお医者さんとか選べなくて……お兄ちゃん、絶対先生とか看護婦さんに、いやらしい目で見られてたと思う」
あーもう、これがこの先のお話には大事なことなんだけど、もう今は考えたくない。
おっさんの体に何の魅力がある。違う。今の僕は。
今の僕は、男女あべこべ世界の高校生なんだよなあ! 中身はおっさん多めですけども!
そんなこんなで、この僕のお話は、病室のベッドから一歩も出ないところからスタートする。
体はピチピチ男子高生、心は大半おっさんの僕が、たくさんの女の子にいやらしい目で見られつつ、唯一の趣味にして生き甲斐である、この時代の男にしては珍しい趣味のキャンプを、そうキャンプを、ただ全力で楽しむ。
そんなあべこべな時代でのお話だ。