10話 酔っぱらい長女とキャンパーさん
バイトがある日は一緒に下校できないので、葵がいつも残念がる。
心苦しいが、雫の誕生日が来月に近づいているので、今日はせっせと働いていた。
プレゼントは自分がもらってうれしいものを、とよく聞くから、キャンプにも使えるブーツなんてどうだろうか。
ぼんやりゆるゆると働いているだけだが、お客さんに笑顔を振り撒いてさえいれば、店長さんを怒らせることはない。
今日はレジ周りの清掃作業中、ポイントカードの入ったおしゃれな籠を床にぶちまけるという失態をさらしたが、店長さんは、あらあらうふふ、という程度の扱いだ。
そして帰り際には、売れ残りのパンを袋に詰めてくれ、それが明日の僕たちの朝ごはんになる、というのが最近のパターンである。
あまりバイトを増やしすぎると、貴重な青春時代の時間が失われてしまうから、週に二回くらい、短い時間しか働いていないけれど、男子高校生が働くパン屋さん、という噂程度があれば、多少は売上も変わるだろう、とのことで、店長さんもあまり無理は言ってこない。
辞めずに働いてもらうのがまず一番。バイトも正社員もそこの概念は同じだろう。
しかし責任の少ない仕事とは、実にのびのびとできて楽しいものだ。
忙しくない時間帯には、パン作りの基本を見て学びながら、なんとかキャンプでもこれを再現できないかと考えている。
ゆるい勤労の喜びも束の間、バイト終わりにロッカーで着替えていると、マナーモードにしていた携帯がバックの中で震えた。
電話の主は遥のようだ。電話をしてくるのはわりと珍しい。
『あ、亮一くん、バイト終わったかな? 疲れてるところ急にごめんねえ』
『今終わったとこでした。どうしました?』
電話越しの遥の携帯からは、なんだか騒がしい感じの周囲の雰囲気が伝わってくる。
『亮一くん、お願い。ボクを助けてほしいんだ。お詫びになんでもするから、駅前まで迎えにきて。本当にお願い』
『なんでも!? ……すぐ行きます。万事繰り下げて今すぐに』
事情はさておき、なんでもするといったな。あの遥が、なんでもしてくれると。
聞くと、遥は駅前の居酒屋のトイレから電話をしてきているらしい。飲み会から逃げだす口実に、僕に迎えに来て欲しいんだとか。
なんでまたそこまでして……。
とはいえ、あの遥が、なんでもだぞなんでも。
駅前までは歩いて15分程度か。いや、歩きではない。走るのだ、メロス。
怪我はしない程度の小走りで、指定された店まで急ぐ。しかし実はこの体、非常に体力がない。
もともと運動不足気味だったところに、事故での入院が重なり、貧弱としかいいようがない体になってしまっている。
そろそろ筋トレくらい始めるべきだろうか。
駅前の栄えたエリアに入ったころには、体力の限界が来ており、諦めて僕は歩きだした。
もう日もすっかり落ちてしまっている。むしろ最初から歩いていたほうが早かったような気すらしてしまう。
そもそも場所はだいたいわかっても、居酒屋なんて最後は看板を頼りに探すしかない。
キョロキョロしていると、道端の喫煙所で煙草を吹かしている女性と目が合った。
「お、高校生の男の子がこんなとこで夜まで遊んで、不良だねえ。私とも遊んでいかな「結構です。失礼」
ナンパ野郎は冷たくあしらうに限る。
自分がナンパされるというのも不思議な感覚だ。
せっかくこんな都合のいい時代なのだから、ちょっとした火遊び、というのもやぶさかではないのだが、遥たちのような美少女に囲まれた生活を送っていると、そこらの女性には全く食指が動かない。
遥から指定された店は、ビルの二階にあった。
よくある大きなチェーン店で、キョロキョロ探さなくとも、上を見て歩いていればでかでかと看板が目にはいっていたようだ。
学校帰りからのバイト、そこからこの居酒屋なので、制服姿のままだから、おそらく結構目立ってしまうが、それが逆にちょっとワクワクする。
店のドアを開けると、出てきた店員さんが僕の制服姿を見て、明らかにぎょっとした表情をしていた。
でも大丈夫。ここに来る途中に言い訳は考えてきた。
「こんな格好ですいません。妻を迎えにきたんです。すぐ帰りますので、少しだけ通して頂けますか?」
爽やかな笑顔を浮かべて言うと、店員さんはどうぞどうぞと言いながら店の中まで案内してくれた。
男子高校生。制服。早婚で年上の妻がいることを匂わす発言。
こんなもの、この時代の女性なら誰だって、その嫁の顔を見たくなるに決まっている。
若干薄暗い店内だが、真ん中あたりの広い席に、明らかに大学生の集団と思われる集まりが見える。
はい見つけた。座っていてもやはり他の女性より若干背が高いのがわかる。
「急にすいません、おじゃまします。川口遥を迎えに来ました」
集団のテーブルに堂々と近づき、手前の方に座っていた女の子たちに伝えると、きゃあきゃあ騒ぎだして収集がつかなくなった。
真ん中の方では遥が、料理や酒が乱雑に並んだテーブルに突っ伏している。
あー、潰されたか。もういいや、面倒だ。
周りの遥の友人たちに期待するのはやめ、小上がりになっている席の、女性たちが座っている合間を縫い、無言のまま遥にずんずん近づいていった。
「遥、迎えに来たよ。ごめん、もう少し早く来れたら良かったなあ」
さりげなく敬語は使わずに、突っ伏した遥の顔を両手で持ち上げ、僕と無理やり目を合わせてやる。
お酒くさいが、とろんとした目、だらしない感じになった口元が異様にエロい。
「んあー、りょういちきゅん、たらいまー! せいふくかあいーねー!」
だめだこりゃ。
「すいません皆さん。こいつ連れて帰らせて下さい」
顔をあげて周りに言うと、遥の横に座っていた女の子が、すごい表情でこちらを睨んでいるのに気づいた。
ははあ、こいつが犯人か。
そいつの座る位置の遥への異常な密着ぶり、そして手が遥のケツあたりに伸びているのを見て、僕はもう、プッツンした。
財布からなけなしの一万円札を取り出し、机に軽く音がするくらい叩きつける。
今日のバイト代が大きくマイナスになるが、気にしてはいられない。
「これ、遥の分です。……ていうかあんた、見てたわけじゃないけどさ、汚ねえやり方で僕の嫁に触らないで頂けますかね」
正しくは、未来の嫁、候補、だが。
腕を肩にかけ、遥の分の鞄も逆の手に持ち、無理やりふにゃふにゃになった遥を立たせる。
横の席の女は軽く殺意を感じる目線でこちらを見てきたが、周りの席の女の子たちは、またきゃあきゃあと歓声を上げてくれていた。
遥を助けにきた制服姿の王子様。いいでしょう
いいでしょう?
正直、酔った遥の体は相当に重い。かっこつけた手前、僕の非力っぷりが周りにバレるのは避けたかったが、なんとか遥はずりずりと足を動かしてくれた。
周りの子たちも協力的に道を開けてくれたので、脱出成功である。
一部始終を野次馬根性で見ていた店員さんが遥の靴を出してくれた。いや、正確には遥のものかどうか自信はないが、まあ、入ればオーケーだ。
「すいません、お騒がせしました」
店員さんと、遥の友人たちにそう告げて店を出る。背中に黄色い歓声を感じた。
店は二階だが、エレベーターがあってよかった。これで階段だったら間違いなくこけて大怪我している。
なんとかかんとかタクシーを捕まえ、もうぐにゃぐにゃになってしまった遥を押し込む。
財布の中身がかなり不安だが、まあ、なんとか足りる……はず。
最悪は遥の財布を勝手に漁るとしよう。
運転手さんに家の近くの住所を告げ、タクシーを走らせてもらう。
遥は僕の体にしだれかかったまま、小さくすぴすぴと寝音をたてていた。
制服姿の男子高校生が、酔いつぶれた年上の女性を連れてタクシーに乗る。
運転手さんには僕らの姿がどう映っているのだろうか……。
タクシーの中から一応、雫たちに連絡を入れておく。
『ごめん、少し帰りが遅くなってます。遥姉さんと一緒にいるから、心配ご無用です。』
本当は助けに来て欲しいくらいだが、遥にも長女の名誉があるだろうから、そこのところには触れないでおく。
泥酔した姿は写真に納めてやったが、雫たちには送らないでおいてやろう。
しかし、遥の隣にいた女の子には、思い返せば悪いことをしてしまった。
あれは間違いなく百合っ子だ。百合というより、ガチのガチっ子だろう。
百合に挟まる男は死すべし……と思ってたのにな。
遥はときどき、じゅるっ、っとヨダレを啜る音を立てている。ていうかヨダレで口元が少し汚れている。
制服のそででぐいぐい拭いてやると、むぐむぐ言ったあと、また寝息を立てだした。
普段は僕に見せない、だらしない顔。たまにはこういうのも、まあ、悪くない。
たぶん遥の横にいた女の子からすれば、今日は大チャンスだと思ったのだろう。
遥というかわいい子羊、いや大羊の横の席をゲットし、あわよくば、あわよくば、と願って限界まで酒を飲ませたわけだ。
そしてあわよくば自分の家に連れ帰り、さらにあわよくば、ちょちょっと。
考えていると、またムカムカしてきた。
自分は葵たちともイチャイチャと毎日過ごしているくせに、遥がほかの相手と何かあると思うと、まあ許してはおけない。
この時代のわがままな男たちの常識からすれば、まあおかしな考えというほどでもないのだけれど。
我ながら心の狭いやつ。
まして、百合っ子を応援すらできないどころか、とんだおじゃま虫になっているな。
百合の神様、どうかお許し下さい。僕は思ったより、遥に惚れてしまっているみたいです。
「んん……あれ、りょういちくん? あれ、ここどこ?」
まだ表情はゆるゆるだが、どうやら遥も少し意識を取り戻したようだ。
自販機で買っておいた、ペットボトルの水のキャップを開けてやり、渡してみる。
「おはよう、遥姉さん。お約束通り助けにきたけど、ちょっと遅かったみたいだね」
遥はきっと、横にいた子からのアプローチに身の危険を感じ、プライドを捨てて僕に助けを求めたのだろう。
まったく、僕はまだ高校生だというのに、あまり期待されても困ってしまう。
遥はやはりだらしなく口元から水をこぼしながら、うへへ、と柔らかく笑っている。
「あー、なんか、いいゆめみてたあ。りょういちくんが、わたしのことはるかって、よびすてにしてくれてさあ」
なんだこいつ、かわいいな。
「運転手さん、その先の公園の前で降ります」
遥の口元をまた制服でふきふきしつつ、運転手に告げた。
財布の中をほぼ空っぽにしてタクシーを降りる。
家まではあと、歩いて2分くらいだが、家には向かわずに、遥に肩を貸したまま、公園の中に向かった。
なんとなく、まだ、今のダメダメな遥を、自分だけで見ていたかったから。
ベンチに遥を下ろし、改めてまた水を渡してやる。
夜遅い住宅街の公園は、小さな明かりがいくつかあるだけで、僕たち以外には誰もいない。
学校の帰りによく葵がふざけて乗っているブランコが、春の風に少しだけ揺れている。
キャンプ場の夜とはまた少し違う雰囲気だが、これはこれで、いいものだな。
無言で横に座っていると、遥が僕のそでを引っ張ってきた。
「ねえ、やっぱりおこってる?……ごめんね?」
少し酔いが覚めてきたのか、まともなことを言い出したが、表情はまだふにゃふにゃのままだ。
「怒ってませんよ。……僕を頼ってくれて、まあ、嬉しくないってことはなかったです」
「うへへ、ごめんねえ。でも、なんか、すごくうれしかったんだあ。すぐくるっていってくれて」
なんだもう、かわいいなあ。かわいいなあ。
「あと、ゆめのなかで、りょういちくんがぼくのことおよめさんにしてくれたんだあ。うへへ、かってにごめんねえ」
かわいい。かわいい。
僕が嫁だなんだと騒いでいたから、それがうっすら記憶に残ってくれているんだろう。
あーもう、なんだこいつ。かわいいな。
僕は立ち上がって、薄暗い公園で背伸びをする。
支えを失った遥は、ベンチでぐにゃぐにゃと横になった。
「ねえ遥姉さん。電話で、迎えにきてくれたらなんでもするって言ってましたよね?」
僕が振り返って言うと、遥はベンチに横になったまま、ふにゃりと笑った。
「うーん? うへへ、そうだっけえ」
柔らかい表情。お酒で少し赤くなった顔。
ああもうダメだ。辛抱たまらん。
「わかんないなら、これもまだ夢なんですよ。だから、ほら、ちょっと目を閉じてみて下さい」
もう、自分でもよくわからないことを言いながら、横になったままの遥の目を、指で無理やり閉じさせた。
「へ? え? あれ? あれれ!?」
遥は自分の唇に手を当てたまま、急に酔いが覚めたように、体を起こして立ち上がった。
そしてふにゃふにゃと、またベンチに崩れ落ちる。
「ねえ遥姉さん。僕と結婚しませんか? ……これは夢なんで、また、いつか夢からさめてから」
酔っぱらいにこの世界でのファーストキスを捧げた僕は、このあまりにもかわいらしい酔っぱらいに、この人生での初めてのプロポーズをした。
そしてこれは夢オチということにして、またいつか、二回目のプロポーズも捧げるつもりだ。
……ところで今回、ほぼキャンプの話をしていない。いちゃラブとキャンプは、全く別腹である。
僕は毎回キャンプの話をしていないと禁断症状が出てしまうので、ここで強引にキャンプ雑学を一つ。
カップルでキャンプをすると、衛生面の価値観とかで軽くケンカしがちなので注意。
そして、ファーストキスは、酒の味。
……以上。