ライク・バブルズ
いつか、どこかで紡いだ物語。
そのいち。
外は鬱陶しい雨だった。
六時間目の今、授業は政治・経済。もっとも眠い時間だ。
「――で、まだ君らが生まれるずっと前に、バブル経済と呼ばれた時期があって……」
バブル経済。バブル経済って、何だ。
わたしは絶えず襲ってくる睡魔に耐えながら、教科書を睨んだ。どこにもバブル経済の文字がない。
ページをぺらぺらめくって、ようやくその文字を見つけた。うつらうつらしている間にページが進んだらしい。
ばぶる、って何だっけ。そういえば考えたことがない。泡のことだろうか。石鹸とかビールとかの泡だろうか。それがどうして政経の授業と関係があるのだろう。重い頭を抱えながら考えてみるが、すぐにどうでもよくなって眠りそうになる。
「――しかしこのバブル経済の崩壊がもたらした被害というのは、かなり深刻だったわけで、かなりの失業者が出たり、あるいは会社が倒産したりして、かなりパニックなことに……」
社会科の男の先生って、なんでこういつも眠たい声でだるい話ばかりするのだろう。たしか中学生のときにも似たような先生がいた気がする――そんなとりとめもないことを考えながら、わたしは教科書を睨み付けた。
先生の説明はまどろっこしい。だから自分で教科書のバブル経済についての文章を読んでみるのだが、まだ眠いせいで視線は同じところを行ったり来たりしている。これではわかりっこない。
しばらくすると授業終了のチャイムが鳴って、教室が少し騒がしくなるのがわかった。
「あ、忘れないうちに言っとくけど、今日、政経の問題集回収しますからね。提出ですよ、出さなかったら成績にかなり響きますよ。後で委員長の人、みんなの分集めて私の机まで持ってきてくださいね、いいですかぁ」
そう言いながら、先生が教室をそそくさと出て行く。
教室が一段とにぎやかになった。
そして、すぐさま委員長の机に問題集が積まれていく。
わたしも惰性で積み上げた。
自分の席に戻って、特にやることもなくぼうっとしてみるが、何かを忘れているような気がする。
たしか、わりと大事なことだったような……。
「――はッ、そうだ!」
思い出してすぐさま、慌てて机の中を探る。
しばらくして、お目当てのものが出てきた。
先ほど提出したのとまったく同じ問題集だ。裏を見ると、自分のものではない名前が書いてある。
「これ、返すの忘れてた……」
眠気がすっかり吹き飛んだわたしは、途方に暮れた。
学校帰りにファミレスに寄った。
この辺りでは人気の店なのだが、今日はいつもより客が少ないような気がする。雨だからだろうか。しかしわたしにはそんなことを気にしている余裕はない。
いま、わたしの目の前には、やんわりと微笑みを浮かべた女の子が座っている。
見かけがかなり幼くてまるで小学生みたいに見えるのだが、一応わたしと同学年の友人だ。
「――で、結局約束した時間に返せなかったわけね」
「いやほんとごめん。忘れるつもりなんてなくて……」
彼女の追及に、わたしは両手を合わせて謝罪した。
「うん、許したげる」
そう言って彼女はにっこり笑った。
いや、笑っているように見えるだけで、目は笑っていない。
間違いなく怒っている。
ことの成り行きはこうだ。
定期テストが近いことから、政経の問題集が回収されることになり、それまで問題集をまったく進めていなかったわたしは、友人であるところの彼女に助けてもらうことにした。クラスは別だが、成績優秀な彼女はすでに問題集を完成させていて、あとは提出するのみだった。そこでわたしは「絶対に提出日までに返す」と約束した上で彼女から問題集を借り、そこに書かれた答案を自分の問題集に写すことにしたのだ。思いのほか範囲が広く慌てたが、睡眠時間を削ってぎりぎりまで粘り、ようやく完成させた。
しかし提出日である今日、わたしは彼女に問題集を返すことをうっかり忘れてしまったのだ。
問題集は政経の授業終了後すぐに回収されなければならない。提出に一時間でも遅れると減点の対象となる。ちなみにもし提出日を過ぎれば以後は受け取ってもらえず、成績に大きく響くことになる。
そして彼女の授業が終わったのは一時間目で、わたしの授業が終わったのは六時間目だった。
そんなわけで、彼女は五時間以上の提出遅れのために職員室行きという憂き目に遭ってしまったのだ。
「いいなぁ。アキちゃんは。ちゃんと提出日に完璧な状態で出せて。こっちは問題集が返ってこないまま、提出には遅れるし、先生にグチられるし、面目が下がるし、まるっきりいいことなしだよ」
彼女は片手で頬杖をつきながら、にこやかに言った。まだ強い責めの口調にはなっていないものの、それとは裏腹に彼女の口からは毒の入った言葉が次々と流れ出てくる。
わたしは「はい、申し訳ないです」となるべく彼女の気に障らないように敬語で謝り続けた。彼女は極めて柔和な態度を崩さなかったが、その口調は少しずつ責めの色が濃くなっていく。
ちなみに、アキ、というのが一応わたしの名前だ。いつからか彼女はわたしのことをそう呼んでいる。最初のうちは苗字で呼ばれていたのだが、何がきっかけで呼び方が変わったのかははっきり覚えていない。
「だいたい、人の答えなんて写すもんじゃないよ。抜き打ちとかあったときのために普段こつこつやっとくでしょ、ふつう。それを何よ、めんどくさいからって今までほったらかしにして、ピンチになって人に借りて、しかもよりによって返すの忘れるなんてぇ。これじゃ貸し損じゃない」
彼女はそれを最後に、とうとうテーブルに突っ伏した。
そして力ない声で続けた。
「こっちはアキちゃんを信用して貸してあげたのになぁ。ぜんぜん返してくれないんだもん」
「……でもさ、それならわたしのクラスにまで取りに来てくれても良かったのに。返すの忘れといて言うことじゃないけどさ」
わたしはつい口を滑らせて、反論してしまった。
かちん、と来たのか彼女はテーブルから顔を上げ、わたしを睨みつけた。まるで拗ねた子供みたいな顔をしている。それがまた彼女の見かけと釣り合うものだから、何となくこっけいだ。
「こっちが気ぃ弱いの、知ってるでしょ? 別のクラスの教室にずかずか入っていってさ、ねぇ問題集返して、なんて言えると思う? 恥ずかしすぎるよ、そんなの。ほんとにもう……」
「おっしゃるとおりです、はい」
「わかってんなら言わないで」
そう言って、彼女はまた笑顔に戻った。
しかしやはり目は笑っていない。
それどころか、どう落とし前つけてくれるんだこの●●●●、とでも言いたそうな目をしている。
彼女はかなりの内弁慶だ。親しくない人にはとことん人見知りするわりに、仲間内ではとことん毒舌になる。もっとも、毒舌になるのは怒った場合の話なのだが、今回わたしは彼女をかなり怒らせてしまったことになるのだろう。毒舌を通り越して笑顔にまでなっていた。そのうち呪いの言葉が出てきそうだ。
彼女はとうとうへそを曲げてしまった。
いや、最初から曲がっていたのかもしれないが、とにかくこうなった以上、何とかして機嫌を直してもらうほかないだろう。
わたしはまるで小さい子を相手にするような口調で――実際彼女は小柄なのだが――提案した。
「で、そのお詫びといっては何ですが、今日はワタクシめがアナタ様におごらせていただこうかと。あの、何でもいいので――」
「何でもいいの?」
ずい、と顔を近づけてきた。
ついさっきまでとは打って変わって、目が怖いくらいにきらきら輝いている。
「じゃあぁねぇ、これ、これまずおごってもらおうかな」
そう言って彼女はメニューを取り出し、吟味すると、何かを指差した。
「えっと――ケーキセットですね。紅茶が付くの? 六百円……お安い御用で」
「いっつも五百円出すのも渋るケチンボのくせに」
ここで初めて彼女の目が笑った。
もしかしたら許してもらえるかも。
洋菓子好きである彼女は、すぐに機嫌が良くなった――ように見えるけれど実際はどうなのだろう。
その後、ケーキと紅茶をあっという間に平らげた彼女は「もうひとついいかな?」と意味ありげな笑顔で迫ってきた。
どうやら贖罪にはまだ足りないらしい。
わたしは「これが最後でいいよね? 金欠になっちゃうよ」と釘を刺してしぶしぶ了承した。
「それじゃ、あとはねぇ……これ」
「え、どれ?」
わたしは彼女が指差したものに目を向けた。
季節限定、店長オススメとかメニューに書かれていて「前からちょっと気になってたんだよねぇ」と彼女が照れくさそうに言った。
わたしは彼女の指差したものをしげしげと見つめながら、その名前を読んだ。
『バブルサワーアイススーパーレモンソーダ』
すごい名前だ。
かなり長ったらしい。
というかこれ注文する人いるんだろうか。
サンプル写真を見ると、何かビールっぽい黄色の飲み物の上に丸いアイスが乗っかってる。
これもしかしてウケ狙いの商品だろうか、とか何とか考えている間に、彼女は店員を呼んでちゃっかり例のものを注文している。
値段を見てみた。
七百円。
うわ、高い。先ほどのケーキセットと合わせたら千三百円だ。千三百円もあったら、同じ値段で安い単行本が三冊買える。コンビニの菓子パンなら十個くらい買えそうだ。文房具もそこそこのものが買える。
そういう彼女に言わせればいかにも「ケチンボ」な思考をめぐらせ、しかしわたしは途中でやめた。
何でもおごると言ってしまったのだ。今更あれこれ考えても仕方のないことだ。
それから五分も経たないうちに、店員が例のものを運んできて「バブルサワーアイススーパーレモンソーダでございます」と噛みそうなくらい早口で言いながらテーブルに置いた。
レモンソーダ、と言うのだが、何だか泡がすごいせいでビールみたいに見える。
しかも思ったより大きい。
そして彼女はおいしそうにアイスの部分を食べ始めた。
「おいしいでしょうか」
「……ほしい?」
悪戯っぽい笑顔で聞いてくる。
気に入ったらしい。お楽しみは邪魔しないほうがいいだろう。
「いえ、結構です。存分にお楽しみくださいませ」
「そう? じゃ、容赦なく」
遠慮なく、という言葉を使わないところが何だか怖い。
とりあえず、わたしは彼女がバブルサワー何とかをぱくぱく口にするのをただ見ていることしかできなかった。口の中がよだれで溢れそうになるが、じっと堪えるしかない。
「あー、何か冷えるね。ちょっとトイレ行ってくる」
しばらくすると、彼女はそう言って席を立った。
そして足早にトイレに向かった。
彼女がいない間、わたしはしばらくじぃっと食べかけのバブルサワー何とかを見つめる。
あの泡って、味があるのだろうか。
サワーっていうくらいだからさわやかな味がするのだろうか。
それともやはり語義どおり酸味があるのだろうか。というかおいしいのか。
何故か妙に泡が気になった。政経の授業でバブル経済という言葉が出てきたからだろうか。ちょっとあの泡だけ味見してみたい気分だ。
わたしは周りを見渡した。
いない。
彼女はまだトイレから戻っていない。
どうしようか。食べるべきか、食べないべきか――少し迷ったが、しかしこういう機会はそうそうない。今のうちだ、とわたしはストローに泡を引っ掛け、口に運ぼうとした。
「なぁにやってんのかなぁ?」
そんな声が聞こえ、ぎょっとして後ろを向いた。
何と彼女が仁王立ちしていた。
しかもにっこり笑っている。
いつの間にいたんだ。さっきまでいなかったのに。
「え、いやー、あの……毒見でもどうかなぁ、なんて……」
こちらも引きつった笑顔で答える。
やばい。
せっかく彼女の機嫌を直したのに、また損ねかねない。
今度こそ呪われるだろうか。
しかし意外にも彼女はくすっと笑って、自分の席に戻った。
「いいよ、許したげる。まだ口に入れたわけじゃないし」
口に入れていたら許してもらえなかったのか。それはまずかった。
何はともあれ今後とも彼女とは末永く仲良くしておきたいのだ。何というか、その……今回は失敗したが、問題集写しのようなときのためにも。
「ストロー、返してね」
彼女はわたしの手からストローをやさしく引き抜くと、泡を引っ掛けた先端をそのまま口に運んだ。
わたしはずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「その泡、どんな味がする?」
「泡の味がする」
何とも素っ気ない返事だ。
わたしはもう一度質問を重ねることにした。
「泡の味って? ビールみたいな?」
「……とっても壊れやすい味がするよ」
彼女は意味ありげにはにかんで、そう答えた。
どうやら教えてくれる気はないらしい。
わたしは諦めて突っ伏し、ため息を吐いた。
「でもこれ、炭酸キツいね。アイスは甘すぎるし。バランス悪いよ」
頭上をバブルサワー何とかの辛口な感想が通り過ぎていく。
……あれ、さっきまでおいしそうに喜んで食べてなかったっけ。
ああそうか、もしかしたらわたしにこっそり手を付けさせるための芝居だったのか。だとしたらわたしはあっさり彼女の思惑通りに行動してしまったわけだ。
そんなとりとめのないことを考えながら、のそのそと顔を上げると、彼女によって半分ほど平らげられたバブルサワー何とかが目に入った。
「こーいうのってさ、小さい泡ほどつぶれにくいんだよねぇ」
そう言って、彼女はストローで泡をつついていた。
……今度、こっそり同じものを注文しようとわたしは思った。
しかし、わたしの金欠財布から千三百円というお金が泡のように消えてしまったのを見て、どうしようかまた迷うこととなった――。
仲直りできてよかったね。
アキちゃんは興味のないことは一切やらない子。
もしかしたらお小遣いの少ない文学少女でもあるのかも。いや、漫画少女かな?
ブッ〇オフがパワースポットに違いない。
自称進学校はバイト禁止で、宿題も山ほど出たりするからアキちゃんみたいな子は大変だよね。
新しい物語のために、過去の小説を晒していこうのコーナー第一弾。
たしか、テーマは「泡」だったはず。
10年くらい前の作品だと思うけれど、今読み返すと恥ずかし恥ずかし。
当時は「バブみ」なんて言葉がまだなかったけれど、今ならそれと掛け合わせるかもしれない。
「バブる」……カオスなお話になりそうな予感。