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短編集(ちょい重めの文学作品)

妻の処女を守るため、俺は世界をやり直す。

 三次会終わり、路地裏でゲロを吐く30歳の窶れたサラリーマン。

 その40歳後半にも見える老け顔と、負のオーラを纏った背中が俺のものだなんて、いい歳して泣きたくもなる。


「うむ……まあ、主でいいかの」


 ボヤけた視界に、小さなシルエットが浮かぶ。

 その可愛らしい声の主は、こんな路地裏には似つかわしくない銀髪の少女だった。


「わらわは神じゃ! 喜べ! 主の願いを叶えてやろう!」


 何の冗談だろうか、その少女は自慢げに胸を張る。


「お嬢ちゃん。お母さんとお父さんとはぐれたのかな?あまりこんな場所に一人でいちゃ危ないよ」


 俺は大人なので笑顔であしらう。

 こんなところを見られたら、通報されて人生バットエンドだ。


「ちょ! 嘘だと思ってるじゃろ! 失礼な! わらわを無視すると後悔するぞ!」


 少女は少し苛立ったように膨れっ面になると、「まあ良い」とため息混じりに諦めた。


「……主には変えたい過去はないかの?」

「変えたい、過去?」

「あるじゃろ、その見るからに人生負け組の背中しとるんじゃから。やり直したい過去の一つや二つ」


 唐突にそんなことを聞いてくる。

 頭にいくつものシーンが浮かんでしまうのが恥ずかしい。

 その中で、一番変えたい過去。


「…………妻の処女が欲しい」


 多分、俺は酔っていた。

 子供に対してなんて事を言うのだろうか。


「うげ……流石のわらわも想定外すぎて引くぞ。なんじゃその欲望に満ちた願いは」


 当然、分かりやすく顔がひきつる。

 というか処女という言葉を知ってるのか。


「ごめん、馬鹿なこと言った……忘れてくれ」


 自分の女々しさに嫌気がさし、立ち去ろうとする。


「待て……いいじゃろ。主の願いを叶えてやろう!」

「……え?」

「1時間。主に過去の自分の行動を変えさせてやる。やり直させてやる」


 自称神様は、そんなことを口走り始めた。

 その目には曇りもなく、嘘をついているようには見えない。


「1時間経てば……どうなるんだ?」

「強制的にこの時間に戻される。過去の変化を反映した別の世界線にの」

「別の世界線?」

「主はバタフライ効果というのを知ってるかの?」

「過去を少し変えれば、今は大きく変わるってのか?」

「なんじゃ、知っとるのか。説明しがいがないの」


 少女はつまらなそうに言う。

 つまり、1時間でも今を変えられる可能性はあるということだ。


「主の願いは邪じゃが、その目には信念があると見た!」


 途端、麻酔を打たれたような強烈な眠気が襲った。

 少女の陰りのない笑顔が揺れる。世界が歪む。


「戻ってきた時、こんな路地裏にいないようにの」


 最後に神様が俺に微笑みかけてくれた。



 ―。

 ――。

 ――――。



「――おい! 何、ぼーっとしてんだ、お前」



「…………え?」



 気がついた時、俺は懐かしい顔と肩を並べていた。

 それにこの景色……嫌という程見慣れた、通学路だ。


「……なあ。これは夢だよな?」

「は? お前、放課後にもなって寝ぼけてんの?」


 ……夢じゃない。あの路地裏の出来事も、今も。

 本当に過去に戻ってきたのか?

 彼女に出会うずっと前の、高校生の俺に。


「……ごめん。学校に忘れ物した」

「っておい! 学校は反対だ……って、なんだあいつ?」


 俺は鞄をその悪友に押し付け、学校とはまるで正反対の方向へ走り出した。

 あの少女の言うことが本当なら、俺はあと58分程度しかこの記憶を保ってられない。


 バスでは遅い。この時間なら、彼女もすでに帰路に立っているはず。

 変えたい過去を変えることのできる時間に飛ばされたのなら、きっと1時間以内に朱莉(あかり)のハジメテは奪われる。


 阻止してやる! 絶対にそんな過去は変えてやる!


 俺は朱莉の自宅と学校とを繋ぐ道路を走り回る。


 すでにあと30分を切っている。

 それに休みなく走り続けて心臓が張り裂けるように痛い。


「……あ、あれは!」


 そんな時、俺は朱莉の制服を捉えた。

 正確には朱莉と同じ学校の女生徒だ。


「ね、ねえ! 君! 聞きたいことがあるんだけど!」

「……な、なんですか?」


 怪訝そうな眼差しを向けられ、心拍を落ち着かせる。

 印象が大切だ。疑われたら交番に案内されかねない。


「佐藤……千波(せんば)朱莉さんが何処にいるか分かるかな?」


 思わず結婚後の苗字を言ってしまいそうになる。


「知りません……そもそも誰なんですか?ケータイで直接聞けばいいじゃないですか」

「いやその……落し物、があってさ。本人に届けたいんだ」

「それなら私が渡しときます。知り合いなので」


 手を差し伸べると同時に、疑いの眼差しが更に強くなる。

 この子……しっかりしてるなぁ。

 何一つ間違ってないし、俺が不審者であることも確かだ。


 しかし、今は一分一秒を争う。

 実際、この世界に留まれるのはあと24分ほどしかない。


「ごめん……本当に不審者じゃないんだ。お願いします……朱莉の居場所を教えてください」


 打つ手なし。懇願することしかできない俺を見て、その生徒は疑いの眼差しをほんの少し緩めた。


「……さっき、商店街で最近できた彼氏とデートしてるのを見ました」

「ありがとう!」

「ちょ、ちょっと!!」


 俺は彼女にお礼を言ってまた走り出す。


 商店街ならここからそう遠くはない。

 さっき、というのがどの程度かは分からないが、デートしてるならそう遠くには行っていないはずだ。



 そして商店街に辿り着くと、人混みの中に、金髪の男と並んで歩く朱莉の姿が見えた。

 二人がソフトクリームを食べながら楽しそうに喋ってるのを見ると、胸がズキンと痛くなる。


 そこは、俺の居場所なんだ。誰にも渡さない。


 人混みを掻き分けながら、俺は商店街のど真ん中を突き進む。

 しかし、追跡虚しく、二人は姿はどこにも見当たらない。


「クソ! ……もう、残り15分しかないのに!」


 これじゃあ、ただ明日筋肉痛になる程度の変化しか訪れない。


 この商店街には、途中でいくつかの分岐路があり、もうどのルートを通って行ったのかなんて分からない。

 彼女の家はここから30分以上ある。

 ヤるなら彼氏の家か、近くのカラオケルームか、もしくは青……ダメだ。何も考えが纏まらない。


『ごめん。この道は通りたくない』

『どうして? この道が近道なんだよ?』

『だから嫌だって言ってるでしょ!』


 温厚な朱莉の怒号が商店街に響き渡った。

 あの日の記憶が蘇る。

 そうだ、俺は彼女の叫びに気づいてやれなかった。


「……分かったよ、朱莉」


 俺は一目散に細い脇道に入り、まっしぐらに突き進んだ。



~~~



 立ち入り禁止の廃工場。

 そこに、二人の男女が足を踏み入れた。


「ねえ……なんでこんな所に連れてきたの?」


 女が不安げに聞くと、男は「いーからいーから」とはぐらかす。


「ま、ここらでいっか」

「どういうこと?」

「なあ、朱莉。やっぱり俺、我慢できねぇよ」


 女は不思議そうに男の方を見ると、男は女の両肩をがっしりと掴んで迫った。


「ちょ、ちょっと待ってよ! こんなところで……なんて嫌だよ!」


 ほんのり頬を赤らめて、しかし、女は男の理解のできない行動に恐怖心を抱き、困惑した。

 そして同時に徐々に募っていた不安を爆発させる。


「それに何なのよ、急にこんなとこらに連れてきて! 意味がわからないよ!?」

「……チッ。ウルッせぇんだよ、クソ女が。せっかく俺様が優しくしてやってんのに、あんま図に乗んなよ」


 男は不機嫌そうに舌打ちし、女の首を掴んだ。


「まあいいや。お前ら、もう出てきていいぞ!」


 その合図に、八方から計8人の男が姿を見せた。

 中には撮影器具のようなものを持つ者もいる。

 そこで初めて、女は騙されていたことに気づいた。


「本当は隠し撮りでも良かったんだけどな。お前はもういいや」


 優しかったはずの彼氏が豹変――いや、こんなクズ男に騙されていたことに女は情けなくて涙を流した。

 思えば、忠告してくれる友達はいたのだ。

 しかし、噂で彼氏を否定されればされるほど、女の中には『信じたい』という思いが溢れていった。


「撮影の準備できてるか?」

「もちろん出来てるぜ、顔もばっちり映ってるから、今回もどうせネットに上げるって脅せば黙ってるよ」

「せ、先輩! 俺にも貸してくれるんですよね!」

「そう盛るなよ童貞。まずは俺が味見してからに決まってんだろ」


 これは友達を信じなかった天誅だと、女は抵抗を諦め目を瞑る。

 そもそも、男8人に対して反抗できるわけもない。



『その汚い手を離せ!!』



 暗い未来を変えるため、その青年は雄叫びを上げた。



~~~



 俺は妻と――朱莉と出会うまで、性行為は愚か、女子と手を繋いだことすら記憶になかった。

 そして結局、結婚した今でも童貞は継続してしまっている。


 俺はある夜、酔った勢いで朱莉に迫り――拒まれた。


 俺はそれに多少なりとショックは受けたが、酒の勢いで迫った自分を恥ずかしく思っていた。


 その数日後、彼女の友人である「里美」と名乗る女性から、朱莉が初めて付き合った男性に乱暴されたことを聞いた。


 そしてそれが彼女のハジメテでもあり、完全に男性に対して心を閉ざすようになった。


 俺はそんな話を聞いたことはなかったし、相談されたこともなかった。

 そしてそんなことも知らず、彼女に迫って勝手に傷ついた俺が情けなくて情けなくて、酒に溺れようになった。


 もし過去を変えられるなら。

 もし彼女との出会いをやり直せたら。

 俺は朱莉を救いたい。


「その汚い手を離せ!!」


 いや、救う。何があったとしても。


「あァ? 誰だテメェ。朱莉のダチか?」


 朱莉が俺を見て目を丸くする。

 可愛いなぁ……この子の未来のお嫁さんなんだぜって自慢したい。


「ハハハハ! マジかよ! 知り合いでもないのに助けに来たのか? ヒーロー様の登場じゃねぇか!」


 ケタケタと男は腹を抱えて笑う。そして一通り笑い終わると、


「死ねよ。お前みたいな偽善者が一番嫌いなんだ」


 と、憎悪にも似た視線を送る。

 そして周りの男たちも同調するように、関節を鳴らし、俺に近づいてきた。


「……さ、さっき警察に通報した! さっさと逃げた方が賢明じゃないか?」

「カカッ。馬鹿か。ここは圏外なんだよ」


 嘲笑が巻き起こる。

 そうだ。警察に通報する時間などなかった。

 つまり俺がやらなきゃいけないんだ。

 もう制限時間は10分を切っている。

 ここにいる奴ら全員ぶっ潰して彼女を救ってハッピーエンドだ!


「兄ちゃんよぉ。今、しっぽ巻いて逃げるってなら逃がしてやるぜ」

「……逃げない。絶対に」

「そりゃ残念だ」


 俺なんかとは違い恵まれた体育会系のガタイ。

 対面すると勝ち目のないことくらい分かる。

 こんな連中を一人で……いや、やってやる。


「うおぉぉぉぉぉおお!!」


 一丁前に雄叫びを上げ、拳を振りかざして殴りかかる。

 そいつは微動だにせず俺の拳を軽く受け止めると、嘲けるように薄く笑んで俺の顔面を殴った。


 軽い身体はいとも容易く飛ばされる。

 痛い痛い痛い!

 生まれて初めて殴られた。こんなに痛いのか。


「お前、喧嘩慣れしてねぇだろ。見りゃ分かんだよ」

「…………ッ」

「気に食わねぇな。その目」


 顔面を殴られ、怯えることなく睨みつける。

 その目が気に食わないと、そいつは蹴りを入れる。


 俺はカエルのように地に平れ伏し、そしてリンチにあった。

 反撃どころか蹲ることしかできず、何度も蹴られ、踏まれ、胸ぐらを掴んで起こされては殴られた。


「も、もうやめたげてよ! 本当に死んじゃうって!」


 朱莉がそんな状況を見兼ねて声を上げる。

 優しいな。見ず知らずの俺に慈悲をかけるなんて。


「どうだ? 女に心配されるってのはよぉ」


 髪を引っ張られ目線の高さまで持ち上げられる。

 そいつの歪んだ顔に唾を吐きかけると、男の顔はさらに歪む。


「随分と舐めたマネしてくれるじゃねぇか。あァ!?」

「――カハッ」


 鳩尾に蹴りを入れられ血反吐を吐く。

 掠れたロボットのような呼吸音しか出ない。

 ヤバい……これは、本当に死ぬ。


「……絶対に……許さ、ない」


 最早起き上がる力すらなかった。

 最後に顔面に拳が入ると、俺は事切れたように地面に突っ伏した。


「んで? こいつどうするよ?」

「癪だが、他のやつにサツを呼びにいかせた可能性もあっからな。場所変えるぞ、車出せ」

「ちょ……離してよ!」


 朦朧とする意識の中、彼女が連れ去られていくのを視界に捉える。

 彼女の声がする。必死に抗おうとする朱莉の声が。


「いいじゃねぇか。一回使ったら捨ててやっからよォ」


 使う。捨てる。と、鳴り止まぬ暴言。

 物のように女を扱うクズが。

 本当にお前のようなゴミ屑には反吐が出る。


「嫌だ! 離して! 誰か! 誰か助けて!」

「黙れクソ女! 俺が女に手ェ上げられねェとでも思うのか?」


 金髪男は朱莉の腕をがっしりと掴んだまま、拳を振り上げる。

 その瞬間、俺とそいつとの間には誰もいなかった。

 俺にはもう興味もないのだろう。

 誰も無関係の俺が立ち上がるだなんて思っていない。


 ――だから、立ち上がれ。惚れた女のために。


 多分、俺に残された時間はあと1分もない。

 だから、今やらないと。死ぬまで後悔することになる。

 せめて一瞬、朱莉が逃げる瞬間を作るんだ。


「……うおぉぉぉぉお!!!」


 一気に立ち上がり、そいつに向かって走り出す。

 拳を握りしめ。拳に怒りを乗せ。拳を振りかざした。


 あと1メートル。金髪男は向かってくる俺に気づいて目をギョッとひん剥き――ニヤッと不気味に微笑んだ。

 朱莉が何か、俺を見て慌てた様子で何かを伝えようとしている。


「……え?」


 次の瞬間、後頭部に衝撃が走り、視界が揺らだ。

 そして全身から力が抜け落ち、膝かは崩れ落ちる。


 殴られたのか?


 それと同時に麻酔に打たれたような眠気が襲った。

 つい1時間前に味わったあの感覚だ。


 しくじった……時間切れ…………だ。



『私……最低だ。彼を……好きなのに。怖かったの……震えたの。妻として彼を愛してるのに……迫られて嬉しかったのに……あの男どもの顔が浮かんで怖くなったの。――こんな穢れた身体じゃ、彼に抱いてもらえない』



 朱莉の声がする。女子高生ではなく俺の妻である彼女の声だ。

 俺が迫って拒まれた夜。俺は彼女に謝ろうと部屋に行ったのだ。

 そして、里美という女性に電話している内容を聞いた。


 ……おいクズ共。お前らは知らないんだろうな。

 朱莉がどれだけ苦しんでいたのかなんて。

 朱莉のことなんて、数年もすれば『そんな女もいたな』くらいにしか覚えてないんだろうな。


 けどな。朱莉はお前らのことを忘れるなんてできなかったんだ。

 夢に出てきて乱暴してくるんだってよ。


 心の傷は一生癒えない……俺にも、癒せない。


 男性恐怖症で、俺に迫られて怖かったはずだ。

 それなのに……朱莉は何も悪くないのに、自分が悪いと自分自身を責めていたんだ。

 自分を穢れた身体だなんて思ってたんだ。


 誰にも相談できず、誰にも知られたくなくて。

 何年も――何度も何度も、一人で泣いてたんだ。



 ――朱莉を泣かせるやつは、この世から消えてしまえばいい。



「歯ァ食いしばれ……ゴミ屑」


 身体が崩れ落ちる寸前、俺は大きく一歩を踏み出して身体を支えた。

 握りしめた拳は、まだ解かれてはいない。それを再び振りかざす。


「……お前、なんで頭割られて立ってられるんだよ」


 お前には分からないだろうな。

 いや、誰にも分からない。この気持ちだけは。

 俺を突き動かすのは、怒りをも超越した『愛』だ。


「人の苦しみが分からないなら、怪我して学べ」


 雄叫びと共に俺の拳は顔面にめり込み、その惰性に身を任せるようにして地面に倒れた。

 初めて人を殴ったが、気分が晴れるようなものでもない。


「……逃、げろ」


 俺は最後の力を振り絞り、彼女を見上げて声をかける。

 しかし、朱莉はその場から動こうとしない。

 お願いだから……逃げてくれ。


「くそが……この俺様を殴りやがって……」


 ダメだ。もう意識が保てない。

 これは時間切れか、脳震盪か。もう分からない。

 ただ、彼女を守れなかったのだと理解した。



『何をしている!』



 廃工場に知らない青年の声が響き渡る。

 

「ゲッ……マジでサツ呼んでやがった」


 暴漢共が一斉に逃げ惑った。

 警察? 俺は知らないぞ。呼んでいない。


「朱莉!」

「さ……里美。なんでここに」

「この人が朱莉を探してたから、気になって付けたの。そしたら朱莉が襲われてて、私……怖くてすぐ警察に助けを求めに」


 どうやら、さっき朱莉の目撃情報を教えてくれた女の子のようだ。

 にしても……里美、か。ずっと、朱莉の親友でいてくれてたんだ。


「ごめんなさい。私、あの先輩のよくない噂聞いてたのに。もっとちゃんと止めとけば良かった」

「ううん。私こそ、忠告無視してごめんね。親友を疑うなんてどうかしてた」


 二人は手を取り合って涙ぐんだ。

 どうやら、望み通りのハッピーエンドのようだ。


「ねえ、君たち。怪我はない」

「ありがとうございます。私たちはいいので、そこの人を助けてください。見ず知らずの私を救ってくれたんです!」


 見ず知らず……か。君にとってはそうだけど、僕にとって君は命をかけて守りたい大切な人なんだよ。


「ねえ! 君、大丈夫!? すぐに救急車を呼ぶからもう少しの辛抱だ!」


 ……ヤバい、本気でもうダメかもしれない。


 あとは、任せたぞ。若き頃の俺よ。必ず、朱莉と一緒になる幸せな未来へ突き進んでくれ。


「はい、急いでください! 少年が一人、意識不明の重体です。恐らく鉄パイプで頭を殴られて――」



 ―。

 ――。

 ――――。



 目が覚めたとき、俺は知らない天井を見上げていた。


 あの少女が言うには、ここはすでに過去の改変で変動した世界線。

 となると、俺は現在30歳。

 路地裏でゲロを吐いてないようなので、世界線の変動は少なからず行われているということだ。


 ここは俺の家ではないし、彼女の家でもない。

 ハッ! まさかは夢の一戸建てか?

 この世界線では、収入の安定した職につけてるとか。


 しかしおかしいな。

 あの少女が言うには、世界線の変動後、この世界線での記憶が刻まれるはずなんだが。


「……どこなんだ、ここ」


 窓の外の景色には見覚えがない。

 青空しか見えない。5階くらいか。マンション住まい?


 それにさっきからピッ……ピッ……という電子音が聞こえる。

 アラームにしては随分と心もとない。


 バサッ。


 そんな何かが落ちる鈍い音がした。

 その方向を向くと、母さんが驚いた様子で立っていた。

 手で口を覆い、涙ぐんでいる。


「……母さん?」

真斗(まさと)……良かった。目覚めて、くれたぁ……」


 母さんは俺を強く抱きしめてきた。

 30にもなってこれは恥ずかしい。

 それに母さんとは2年近くあっていなかったので新鮮だ。


 それより、目覚めてくれた?


 その時、俺は嫌な予感がして辺りを注意深く見渡した。

 俺の簡易な服、繋がれた管、電子音、知らない天井。

 そして……筋肉のないヨボヨボな腕。


「なあ、母さん……今、俺、何歳だ?」


 恐る恐る訊くと、母さんは俺から離れ、決まりが悪そうに目を伏せた。そして、


「落ち着いて聞いてね。あなたは今、32歳なの。あなたは15年も眠っていたのよ」

「………………は?」


 それを聞いて困惑した。意味が分かるまで数秒かかった。

 そして息遣いが荒くなる。

 俺は、あの廃工場から今までずっと眠っていたのだ。


 そりゃ、記憶がないわけだ。

 俺は何もしなかった。できなかったのだ。

 朱莉と結婚するどころか、友達にすらなっていない。


「はぁはぁ……あぁ」

「真斗? 落ち着いて、大丈夫よ」


「あぁぁぁぁぁぁああ!!??」


 俺は発狂した。これこそ悪夢だと信じたい。


 全部なかったことになったのだ。

 彼女と一緒に暮らせる人生を、俺は自ら手放してしまった。



~~~



 その後、医師が鎮静剤を打つまで俺は暴れていたらしい。

 目が覚めた時、俺はやっと冷静になり、現実と向き合えた。


 母さんに謝り、これまで俺を待ち続けてくれたことを泣いて感謝した。


 次の日には、クラスメイトの奴らが見舞いに来てくれた。

 俺は同窓会で見たのであまり驚かなかったが、皆、いい大人になって社会に羽ばたいていた。


 それより、ほとんど話したことの無い女子まで見舞いに来てくれのが意外だった。

 

 俺はどうやら、英雄として語り継がれているらしい。

 見ず知らずの他校の女子のためを、命を危険に晒してまで救った男として、この街じゃ知らないものはいないらしい。


 少し誇らしくなって、自信が湧いてきた。


 そして1週間もすると、リハビリが始まり、食事も普通に摂れるようになった。

 車椅子で病院内を自由に動き回れるようになった。


 まだ立つのは難しいが、1ヶ月もすれば普通に生活できるようになるとお医者さんが言っていた。



 ――第二の人生を送ろう。そう決意した。



 その矢先だった。

 俺が屋上で子供たちが元気に遊び回るのを眺めていると、背後から聞きなれた声が聞こえた。


「――元気そうですね。佐藤真斗……さん?」


 その声を聞いて、一瞬で脳が理解した。

 彼女だ。朱莉だ。

 俺は興奮のあまり勢いよく振り返ると、そこに待っていたのは絶望だった。


 まるで見間違えるほどの容姿だった。

 明るい茶髪に、流行に敏感な服装、声のトーンは僅かであるが高く明るくなっている。

 この世界線の彼女は、とても明るい表情で美しかった。


 いや、こっちが本来の朱莉なのだろう。

 あの暴漢共と俺のせいで歪んでいただけで。


 そして――朱莉は赤ん坊を抱いていた。


「その子は?」

「娘です。まだ生後4ヶ月くらいの」

「……そっか」


 力のない返答をする。

 朱莉はその赤ん坊を愛おしそうに撫でた。

 その目は、明らかに母親のものだ。


 ……良かった。涙が流れなくて。


「意識が戻ったと聞きまして。改めてお礼を言いたくて来ました」

「お礼なんて別にいいよ」

「いえ、そんなわけにはいきません。あなたは私の人生を救っていただいた恩人ですので」


 曇りのない眼差しで彼女は言った。


「人生って、大袈裟だよ」

「いえ。きっとあの時助けて頂けなかったら、今の私はないと思います。男性に不信感を抱いて、死ぬまで心の傷を抱えていたかもしれません」


 確かに、本当なら君は俺と結婚してた。

 本当に死ぬまで心の傷を抱えてたかもしれない。


「赤ん坊、抱いてみますか?」

「どうして?」

「いえ、あまりにも愛らしそうに見ていらしたので。赤ん坊、好きなのかと」

「いや、遠慮しとくよ。気持ち良さそうに寝てるのに、俺なんかに抱かれたら起きちゃいそうだから」

「……そうですか」


 それにそんなことをすれば、未練が湧いてきてしまう。

 もしかしたら、その赤ん坊を憎んでしまうかもしれない。


「15年間気になってたこと聞いてもいいですか?――あの日、あなたが私を探していたことを後から里美に聞きました。どうして、私が襲われるって分かったんですか?」


 そうと聞かれることは予想していたが、どうにもそれに対する正しい返答が思いつかない。

 ストーカーとして気味悪がられることを甘んじて受け入れるか、いっその事、全部吐露してしまうのもいいかもしれない。


 君は俺の妻となるはずだった女性なんだと。


「信じて貰えないかもしれないけどさ…………聞いたんだ。千波朱莉という少女を襲う計画だって。本当に……それだけ」

「……そうですか」


 後ろめたくて視線を逸らすと、彼女はそれ以上は聞いてこなかった。


「そんな、見ず知らずの私を助けるために、こんな……。本当に、ありがとうございます! あなたは、私の恩人です」


 朱莉は赤ん坊を抱いたまま深くお辞儀する。


 やめてくれ。

 俺は本当に、そんなヒーローみたいな立派なやつじゃないんだ。

 君が幸せなのに、俺は過去を変えたことを心のどこかで後悔している。


 お辞儀で起きたのか、赤ん坊が泣き出す。


「す、すいません」

「いいよ、赤ん坊は泣くのが仕事だし。それに……もう検査があるから」

「では、私もそろそろ失礼します」


 朱莉は会釈して、俺に踵を返した。


「最後にいいかな。朱……千波さん……って、もう千波でもないか」

「いいですよ、千波で。それで何ですか?」


「…………今、幸せですか?」


 そんな宗教勧誘のようなことを聞く。

 彼女はその質問に戸惑ったが、俺の真剣な眼差しに気づくと、恥ずかしそうに屈託もなく微笑んだ。


 この質問だけは、しておかないといけない。

 俺の未練を断ち切るために。


「はい! とても!」


 後腐れもなく、彼女はそう言った。

 その笑顔は、紛れもなく俺がずっと求めていたものだ。


「それでは、失礼します」


 それから言葉を交わすことはなく、朱莉は扉の前で会釈して去っていった。


 偉いぞ、俺。最後まで泣かなかった。


 クソ、クソ……本当は俺が朱莉の隣にいたかったよ。

 でも、朱莉の笑顔を見て気づいてしまったんだ。


 朱莉は、俺といない方が幸せになれる――と。


 あんな表情、見たことがなかった。

 あんな幸せそうな笑顔に、させてあげられなかった。



『うむ。まさかこんなことになっとるとはの』



 風が吹き、可愛らしい声が届いてきた。

 さっきまで後ろには誰もいなかったはずだ。


「ああ、別に振り向かんでいいぞ」


 その諭され、俺は振り向きかけた首を元に戻す。

 あの子だ。路地裏で話しかけてきた、自称神様。


「わらわとしても予想外じゃ。今まで何度か過去改変を見てきたが、ここまで大きな変化が起こったのは初めてじゃからの、主を探すのに手間取った」

「俺を、探す?」

「路地裏から消えた時は上手くいったのじゃろうと思ったが、2年探しても見つからず、ここに辿り着くのに苦労したぞ」


 わざわざ探してくれるとは、中々いいやつだ。


 音沙汰がないとかいうレベルじゃない。

 10年もすれば、俺の話をしてる奴もいないからな。


「わらわとしても不本意なんじゃ。寧ろ状況が悪化しとる。なんなら、もう一度過去に飛ばし――」

「やめてください」


 囁かれかけた甘い言葉を振り払う。


「お願いです。何も言わないでください。俺は今、現実に満足しています。でも……あなたに手を差し伸べられれば、俺は多分、その手を取ってしまう」


 そんなクズ野郎にはなりたくない。

 朱莉は幸せになった。ならそれでいいじゃないか。


「俺は、幸せです」


 そう言わなくてはならない。

 未練も後悔も嫉妬も、抱いてはいけない感情なんだ。


「……そうかの。主がそれでいいなら、わらわも何も言うまい」


 神様は気持を汲んでそう言ってくれた。

 俺は振り返ろうともせず、車椅子を動かし始める。


「これは、わらわのお節介じゃ。聞き流してくれても構わん。――あの娘を襲った男とその一味は、あの後、警察に捕まって少年院に入った。そして2年前、主犯の男は不倫が原因で刃傷沙汰になって死んだ」


 それを聞いて、特になんの感情も湧かなかった。

 当然の報いだとは思ったが、それで喜ぶほど落ちぶれてもいなかった。


「それと主が働いていた会社じゃが、5年前に倒産しておる。最低でも3年。主がいないときより早くに倒産したのじゃ。誇ってよいぞ。主がそれほどまでに影響力をもってたということじゃ」


 今回の世界線変動前と後では、俺がいないというだけの違いしかない。

 逆に言えば、もし世界が変わったのなら、それは俺が影響を与えたということになるのだ。


 誇っていい。その言葉に、俺はとても救われた。


 今になって、涙が溢れてきた。

 朱莉と過した日々が、走馬灯のように駆け巡った。

 もう二度と見ることはないであろう、彼女の笑顔だ。


「死ぬほど君を愛してました。――さよなら」


 それ以降、神様の声が聞こえてくることは無かった。

 桜の花びらが、ビル風に煽られ舞い上がり、不自然に俺に舞い散る。


 まるで誰かが紙吹雪を散らして、門出を祝ってくれているようだった。



 ――その数年後、俺は有名私立に合格し、新たな恋を見つけることになるが、それはまた別の話だ。




最初は、『処女厨の夫が過去に行って妻の処女喪失を阻止しようとする話』だと思わせたくてこのタイトルにしました。

まあ、それで気色悪がられて読んでもらえないと本末転倒なので、私としても中々の賭けでした……。


なので、最後まで読んで頂き本当にありがとうございます!



追記


お気づきの方もいらっしゃるも思いますが、この結末は『僕だけがいない街』のオマージュです。パクリと思っていただいても結構です。

結末を考えていた時、この終わり方が一番美しいと思いました。


正直、こんなに伸びると思ってなかったし、結末を褒めてくださる人もいらしたので言い出しづらくなりました。


不快な思いをさせてしまってすいません。


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