9話 ヘタレ悪役令嬢、隣国の皇太子に接近する(できない)
ブリタニア王国をフロストバード領でのみ隣接する大湖峡の先の大国、アレクサンドル大帝国は、侵略、併合、統治によってこの数百年の間に領地を人間界の六割にまで拡大した、近現代の覇権国家である。
その歴史の中には勇者、英雄が何人もいて、今の皇帝も『殴龍帝』などと呼ばれているほどだ。由来は数十年前に起こった神魔大戦と呼ばれる魔王軍との戦いにおいて、首魁に近いドラゴン『災厄の龍ジルニトラ』を殴り飛ばしたことから。頭おかしい。
そんな化け物だらけの国風は今も変わっておらず、様々な才能を有した若き英雄たちが所狭しとばかり蠢いている中、最も目立つ者が居る。
名を、ハルトヴィン・ディエゴ・アレクサンドル。アレクサンドル大帝国皇帝、ディエゴ・ロペス・アレクサンドルの末子にして、何故か十人近い兄弟たちを無視して次期皇帝――皇太子に任命された傑物である。
初めは嘲笑と憐憫でもって、この事実は全世界で受け止められた。何故なら、アレクサンドル大帝国は極めてシビアな実力主義の国。実力の伴わない皇太子など、兄弟たちの指示で暗殺されておしまいと考えられためだ。
だが、そうはならなかった。
ハルトヴィンは、三度の暗殺者襲撃より生還し、その主犯にあたる兄弟たちをすべて突き止めた上で告発、国外へ追放した。
一度目は偶然だと認識されたこの逆襲も、二度続けば奇跡、三度目には運命であると認められた。付けられたあだ名は、『運命の寵児』。今人間界で英雄の資質アリとされる人間の中で、最も若い人物である。
「イヤーーーーーーーーーァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアア!」
フランは叫んだ。
「起きたくない! 学校行きたくない! 無理限界! 英雄の相手とかワタクシのキャパ超えてる! むりむりむりむりぃぃぃいいいい…………!」
メイドのレイが起床時間だと知らせる声を遮って、限界を訴えた。
ベッドにこもる。
絶対にお布団から出ない。
ロレッタの件だけでもメンタルヤバかったのに、こんないかにもヤバそうな相手と会いたくない。
「……どうしましょう。フランお嬢様がイヤイヤ期に入ってしまわれました」
レイは溜息を吐いて、ぼそっと言う。
「いつまでも精神的に追いやられると感情的になる悪癖は治りませんね。こうなると下手に刺激すると悪化しますし……」
レイの言葉に、フランはお布団をかぶる手を固くする。もう絶対に出ない。一生このままでいてやるのだ。一生厳しい社交界に足を運ばず、布団の中でぬくぬくしているのだ。
「こんな姿をアルフィー殿下が見たら、何と仰るでしょうね」
ギクリ、として、フランは布団から顔を出した。それから、そのことを持ち出すなんて卑怯だ、という意思を込めて睨みつける。
「……!」
「分かりました、分かりましたからそんなふくれっ面で見ないでください。気の抜いたときは本当に可愛い人ですね、お嬢様は」
布団の下からほほをぷくっと膨らませて精いっぱい無言の抗議を行うフランに、レイはかがんで目線を合わせてきた。
「じゃあ、どうするのですか。アルフィー殿下はロレッタ・フロストバードにあげるのですか」
「……もう手は打ってあるもん。取られないもん」
「あの規格外のご令嬢が、お友達作戦なんかで陥落するとお思いですか。もし本当にアルフィー殿下を狙っているのなら、全員バッサリと切り捨てた上で平然としているでしょうね」
「そしたら、ワタクシじゃなくてもミツバチの誰かが断罪して追い出すもの……」
「それが本当にできるなら、フラン様は何も心配することなどないのでは?」
「うぅぅうううううう……!」
ベッドの中でじたばたし、レイの視線に抵抗を続ける。だが、じっと見つめてくるその曇りなき眼に、フランは耐えきれない。
だから、フランは絞り出すようにレイに命じる。
「……後日アルフィーがワタクシの部屋に来るよう手配して」
「畏まりました」
「あと、アルフィーが来たら数時間の暇を取らせるわ。歓楽区域にでも出て好きにしてて」
「お嬢様の仰せのままに」
息を吐く。布団を引きはがし、絨毯に足をつける。それから大きく深呼吸をした。
「……ロレッタ・フロストバードに対する切り札を手に入れるために、帝国の若き皇太子を相手取らないといけないなんてね……――レイ、まずは魔法特進クラスへの手引きが必要よ。用意できる?」
「お嬢様関連で懇意にさせていただいている先生に、いくらかツテがあります。そちらから潜り込むことが可能かと」
「分かったわ、用件はそうね。ブルゴーニュ公爵より魔法特進クラスへの視察とでも伝えておいて。本人には、いつも通りお茶会のお誘いとして手紙を渡せばいいわ」
「畏まりました」
「あとは……ここ数日間まともに授業出てないし、その辺りもいくらか手を回さないと。やることが多すぎて嫌になるわ」
「心中をお察しします」
いつものように、丁寧に腰を折るレイ。フランはその姿に表情を綻ばせて、ねぎらいの言葉をかける。
「レイもありがとうね。こういうとき、あなたがつついてくれなかったらと思うとぞっとするわ」
「とんでもございません。主人の支えになることもまた、私の仕事でございます」
では、朝食を用意しますのでお待ちください。そう告げて、メイドのレイは寝室を出て言った。フランはまたベッドに寝ころび、天井を見つめる。気持ちとしては、まだ見ぬ皇太子を睨みつけるつもりで。
「ロレッタ・フロストバードの弱みを握って切り札とする。そのついでに亡命先にここを選んだ理由も聞き出しつつ、問題を起こさないよう釘を刺す……ね。これだけで言うととても簡単」
だが、経験上そうはならないと知っている。かつて同学年に数人いた、妙な生徒たち。彼ら彼女らにはとても苦労させられたが、今はアレクサンドル大帝国の首都にある学校で特待生を務めているらしい。詰まる話、奴らもまた傑物だったのだ。
「天才と変人は紙一重。頑張るわよ、フランソワーズ」
自分に激励を送る。そこで美味しそうな匂いがして、上体を起こすとレイが朝食を持ってきた。まずは、腹ごしらえと行こう。小食ながら、フランはそのように意気込んだ。
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ハルトヴィン・ディエゴ・アレクサンドルは自他ともに認める凡人だ。
生まれは下町のあばら家で、優しい母と純朴な幼馴染たちと共に育った。たまに現れる父が、異様に背が高く体格がいいのだけちょっと自慢だったが、その父とも特に変わったことはなく、特筆する点こそないが仲のいい家族だったという風に思っていた。
その父が大帝国皇帝だと判明し、『ハルトヴィン。余は、お前を皇太子に任命しようと思う』とバカげたことを言ってから、何もかもが狂った。
七歳の頃に皇太子に任命されてから、見たこともないおっさん達やお姉さま方(全員ハルトの腹違いの兄弟とのこと)が差し向けた暗殺者から命からがら逃げ惑う日々だったと思う。初めて殺されかけてから八年、ハルトはずっと限界だったが、ついに限界を突破した。
「クソ親父へ、俺は逃げます。凡人に過度な期待はしないでください」
書置きだけ残して、暗殺者騒ぎで謎に築き上げた人脈をフル稼働して、ハルトは国外逃亡した。だが、適当に他国に逃げるだけでは、天下の帝国近衛兵によって捕縛されてしまう事だろう。だからハルトは、あらかじめ手を打った。
まず行ったのは影武者の用意だ。ハルトは貴族とは思い難いくらい月並みな容姿なので、ここは困らなかった。そしてそれぞれをムーンゲイズ法国、ジパング諸島、オーレリア共和国へと派遣し、ハルトはもっとも侵入の難しいブリタニア王国へと向かった。
侵入経路は、世界最北端。帝国の脅威・序列二位に名を刻む『凍える霊鳥』フロストバード領だ。何度も帝国兵が惨敗している、怖ろしき永久凍土。だからこそここを越えねば自由は手に入らない、と覚悟を決めて挑んだ。
結論から言うと、何度凍え死にそうになったか分からない。
身バレしないように、と選んだぼろ馬車が永久凍土の寒さに耐えられる設計でなかったのが一つ。街道でも容赦なく襲い掛かってくる魔物の群れの襲撃が十を超えて繰り返されたのが一つ。馬車が破壊され吹雪の中一人で雪に埋まり掛けた街道をひた走ったのが一つ。
覚悟を決めた過去の自分を、その最中で何度恨んだか分からない。かじかんでろくに動かなくなった足を必死に動かしながら、“宝物庫”に隠す様々なアーティファクトに頼ってなお、気が遠くなっていったのだけを覚えている。
だが、ハルトは死ななかった。たまたま狩猟に出ていたらしい兄妹に拾われたらしく、目を覚ますと山小屋で暖炉の火を前に横たわっていたからだ。
「おい大丈夫か。お前、こんなうっすい装備で冬のフロストバード領超えようなんて勇気あるなぁ」
からからと笑った兄と、温かいスープを差し出してくれた妹。二人がどちらもあまりに美しい容姿をしていたことに気付いて、自然に貴族だと気づいた。そして、ハルトにとって貴族とは、何かしらの形で災難を呼び込む存在だ。
暗殺者騒ぎで助けを求めた貴族たちは、快く手を貸してくれた後にそれよりよほど大きな難事を要求した。助けに応じてくれた点ではとてもありがたいのは頭でわかっているが、その難事でも死ぬような思いを繰り返したため苦手意識がこびりついていたのだ。
案の定、ハルトが九死に一生を得た安堵感で「本当に助かったよ。この恩は忘れない。何か困りごとがあれば手伝うぜ」なんていつものように口を滑らせ、「おっ、じゃあ一つ」なんて兄の方がにっこり笑ったのを見て、あ、いつもの流れだ、などと観念した。
「ラン兄様。この寒さに慣れてない人に、まさか氷狼狩りの手伝いなんてさせませんよね?」
だから、妹が兄を強く制止したのを見て、息を詰まらせてしまった。
「えーっ、何だよ。そのくらい良いじゃねぇか。本人がこう言ってるんだぜ?」
「いや良くないですよ。普通にこの人にとっても負担でしょうし、何よりイケメンと共に窮地を掻い潜ってフラグが立つなんて、私、嫌ですよ」
「いけめ……ふらぐ……? 言ってることはよく分からんが……ま、無理に勧めるほどじゃねぇか。どうせおとり役が欲しかっただけだしな」
兄の方の言い草にハルトは身を固くし、妹の方に「助かった、いつもこうやって口を滑らせるんだ」と頭を下げる。すると、妹がにっこりと笑った。
「いいえ、いいんですよ。あなたは私たちが狩りを終えたら、そのまま辺境伯騎士団の方に連れて行こうと思います。そこでは移動商がそれなりに頻繁ですので、うまく乗り継いでいってくださいね」
その微笑みは、修羅場続きでキレイどころのお嬢様など見飽きたハルトですら、しばらく見惚れるくらい美しかった。思わず、雪の精霊が女性の形をしているのならこんな姿なのだろうか、と思わせられるほど。照れてしまって俯くと、その妹は優しげに笑った。
その後「お前童貞臭い奴には優しいよな」「親近感湧いちゃって。童貞だって一時の夢を見たいじゃないですか」と会話しながら小屋を出ていく兄妹に、こっそり「童貞ちゃうわ」と聞こえないよう反論した、というのが思い出深いフロストバード領の記憶だ。
その後は名前も聞きそびれた妹の方の案内通りに手はずを整えると、すんなりと永久凍土を脱出することが出来た。ハルトは、この人生でこんなに上手くいった事があったか、と惚けながら一足早く闇深き森の中にあるブリタニア王立学園に赴き、その寮で春を待った。
そして春、女の子に絡んでいる貴族のバカ息子に苦言を呈した拍子にかつての少女と再会したのだから、『運命なんてくそくらえ』を標榜するハルトとて、運命めいた何かを感じるのは無理からぬ話だろう。
トラブル嫌いの癖に、自分しか介入できないようなトラブルばかりが頻発する系皇太子のハルトは、この時ばかりは珍しく、「ま、命を救われたんだしな」とその行動を後悔しなかった。
――だが、ハルトが本当に感動したのはここからだ。
「要りません」
再会した少女は、助けに入ったハルトに対しきっぱりとそう言った。キョトンとして見つめていると、彼女は貴族のバカ息子にバッサリ拒否を示し、トラブルの火種を文字通り凍らせて立ち去った。
ハルトにとって、自分が関わってトラブルに発展しなかった出来事、というのは、それこそ人生で初めてだった。七歳までの皇太子任命以前でも何かしらの騒動にひーひー言っていたような天性の悪運男が、生まれて初めて、穏便な事の解決を体験したのだ。
故に、ハルトは無事名前を聞き出すことに成功し、さらには自分が入学する予定の魔法特進クラスにいる、という話を聞いて、ひそかに舞い上がった。彼女と共にいれば、もうトラブルに巻き込まない平穏な人生が歩める! そんな予感にワクワクした。だから――
「ハルト・アレクトロ様ですね。こちらブルゴーニュ公爵が娘、フランソワーズ・アストヒク・ブルゴーニュより、お茶会の招待状でございます。用件は『ナサニエル・フロスト』についてお話ししたい、とのこと。ぜひお越しください」
入学後一か月、一向に会える気配のない彼女の名前を口にして、何やらヤバそうな奴がメイド越しに話をしよう、などと伝えてくるのを聞いて、かなり好感度下がった。
所詮あいつもトラブルの種だったか、と。
「いやです」
そんでもって率直に断った。
「……!? え、いえ、その、招待状ですので、お受け取り下さい」
「いやです。お断りします」
ぺこりと会釈して、ハルトはスタスタと次の授業に向かった。こういうのは少しでも希望を持たせるような態度をしてはならないことを、ハルトは知っている。その為取りつく島もないような拒絶の姿勢を示し、メイドに振り返ることもなく、ハルトは歩き去った。
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その放課後。
「え!? 招待状を受け取りすらしなかったの!? 何で!?」
余りの拒否りっぷりにちょっと傷ついたらしいメイドのレイを、フランは慰めなければならなかった。