8話 悪役令嬢らしくお茶会開いて悪だくみしてたら重大事実発覚してメンタルが死ぬ
悪徳公爵ことブルゴーニュ公爵家で第一子として生を受けたフランは、幼い頃から正義とは何かを問われ続けた。
五歳くらいでは勧善懲悪の演劇を多く見て、正義の素晴らしさを知った。悪をやっつけるその格好良さ、誰からも好かれる優越感。これになろう。正義の味方になりたい、というようなことを父に言ったら、『そうかい』と頭を撫でてもらったことを覚えている。
十歳の誕生日、いつも演劇に連れて行ってくれる父が「今日の劇はいつもとは少し違っているよ」と言った。何が違うのだろうとワクワクした。だが、やはり最後には正義が勝つのだという安心感を持っていた。きっとそれだけは変わらないに違いないと、信じ切っていた。
信仰は、打ち砕かれた。正義は踏みにじられ、悪は醜く下品に笑い、フランは劇の終わりに顔を真っ青にして声もなく涙を流していた。
その劇の帰り、父はこう語った。
『正義は素晴らしいものだ。正義が悪を排除するのは健全な世界の証拠だ。その、正義が常に勝つという幻想を、まずはフランに抱いてほしかった。しかしそれも昨日までだ。十歳になった君には、現実を見せる。そして、現実へと立ち向かう術を教える』
父はそれ以来、フランを劇に連れて行かなくなった。代わりに、世の中の様々な物事を教えるようになった。
『フラン。悪になりなさい。正義を胸に秘め、自らの正義を常に疑いながら、正義のある世界を保つために、悪になりなさい』
そう言われて、フランはどうすれば良いのかと問うた。父はにっこりと笑って、尋常ならざる技術をフランに叩き込んだ。
父曰く、それは呪術であると。
と言っても、呪いで他人を殺す、というような魔女じみたものではない。神の奇跡を人がなぞらえるのが魔法、精霊という強大な力の塊と契約を結んで力を行使するのが精霊術だとするなら――呪術とは、人の幻想を人が再現するだけの、とてもささやかなものだと。
「どこがささやかよ」
いつも花園のサロンを開催する館のもっとも高い場所にあるベランダから、フランは学園内に構築された街並みを眺めながら、そしてその壁向こうの魔境めいた森を想いながら呟く。
父の話に則って言うなら、この街、いや学園そのものが呪術の賜物である。呪術とは、為政者による発言の術。言霊に端を発し、人々に自らの幻想を共有させ、伝播させることで力を持った世界を構築する技術だ。
必要なものは、胆力、自信、演技力、話術、論理能力、演説法。要するに、詐欺師の才能だ。人を騙すなんて悪いことだと父に言ったら、『だから私は悪なんだよ、フラン』と告げられた。その言葉を、今でも忘れることが出来ないでいる。
フランが教わったのは、その中でも女性が社交界で強い発言力を得るためのもの。名付けて『花園の呪術』だ。女性だけの花園の主になるために、どんな人物をどのように扱えばいいか、という指針だという。
「事実を曲解して頭の中で都合よく捻じ曲げてしまうお馬鹿さんを“お花畑”、その妄言をピーチクパーチク言いふらす口軽を“コマドリ”、そしてそれらを適切に配置するために動いてくれる働き者を“ミツバチ”とは、よく言ったものよね」
「お嬢様」
呼ばれて、振り向く。メイドのレイが、「お客様がおいでです。庭園へどうぞ」と淡々と言うのを、「ええ、いつもありがとう」と一声かけて通り過ぎる。
今日呼んだのは、いつも重用しているミツバチが一人に、下級クラスにつながりを持ったコマドリの三人だ。コマドリはおしゃべりなだけあって、人一倍情報に敏い。あとはミツバチが一人いれば情報の整理も捗るだろう。
庭園につくと、見慣れた上級クラスの令嬢が一人、先んじて紅茶に口をつけていた。彼女はフランを見ると「フランソワーズ様……!」と表情を華やがせる。それに、フランは少しからかうように言った。
「一昨日ぶりね、『ビンタの令嬢』?」
「も、もう! フランソワーズ様までそんな呼び方をして!」
「ふふ、だっておかしかったんですもの。ロレッタ、面白い子だったわね」
「あれを面白いと思えるなんて……。フランソワーズ様、流石ですわ」
何やら感心された目で見られているが、もちろん真っ赤な嘘だ。ロレッタ・フロストバードに関して面白いことなんてひとっつもない。彼女をアルフィーの傍から排除するための情報収集、および計画のために今日のお茶会が開かれるくらいなのだ。
……正直、自分で思い返してこれが正義なのか? という疑問がないでもない。
「でも、だからこそよ」
「? どうかされました?」
「いいえ、三人が来るのを少し待ちましょうか」
「ええ!」
自分への疑念があるのなら、フランは自分勝手な独善になることはない。この疑いを自分に向けたまま、自分の正義と照らし合わせた上で、問題を解決するのがフランの考える王道である。
――少なくとも、恋敵をみすみす見逃して想い人を奪われるなど、フランの思い描く正義ではないのだから。
それから少しすると、コマドリの下級貴族の令嬢三人が現れた。彼女たちをサロンに招くのは初めてで、その所為か全員緊張の面持ちで強張った口調の挨拶をする。
「まぁまぁ、あまり緊張なさらないで。今日は楽しいお茶会ですもの。ね?」
にっこりと笑いかけると、それぞれが頷いて覚束ない所作で着席した。ビンタの令嬢が目配せしてきたので、フランは小さく首を振る。マナーがなっていない、と叱りつけて萎縮させるのは、今回は無しだ。
最初は他愛のない話を。下級貴族クラス、というものは今フランたちが通う高等部にしかないもので、そこから「学園での生活には慣れた?」などと軽く尋ねると、始めは少々気遅れ気味でも、少しすれば面白いようにべらべらと話し始める。
これが、コマドリの資質、というものだ。ビンタの令嬢は今回、無闇に話に混ざることはなく、フランの相槌に相槌を合わせながら、テーブルの下に隠した紙にグリード商会から取り寄せた鉛筆、と呼ばれるペンでメモを取っている。
彼女は自発的によく働いてくれる、フラン重用のミツバチの一人だった。下級貴族クラスにはまだミツバチが一人もいないから、いずれ増やしていかなければ、と考えつつ、フランは机を軽く指で叩いて、彼女に合図を送る。
――ここから、メインの情報の切り込む、と。
「そういえば、あなた達、ロレッタ・コールドマンって子、知ってるかしら」
尋ねると、三人全員がびくりと肩を跳ねさせた。その反応を見るだけで、フランとロレッタの確執が下級クラス全体に知れ渡っているのが分かる。
「え、えとえと、その、ですね。か、彼女がどうか、されましたか……?」
びくびくとした様子で尋ねてくるので、フランは努めて朗らかに笑いかけながら、「ふふふ、どうしたのみんな。あら、もしかしてワタクシと彼女の話、知っていたのかしら」と悪戯っぽく肩をゆすって見せる。
「あ……えと、もしかしてその、コールドマンさんとフランソワーズ様の間に、“色々あった”というのは、私たちの勘違いだったり……」
フランの所作に、三人が少しだけ表情を緩ませる。そう、リラックス。リラックスだ。コマドリは何も考えずに囀ればいい。その情報を集めてどう利用するのかを考えるのはフランやミツバチの仕事で、決断を下すのはフランただ一人で良いのだから。
「その色々について、知りたい?」
ここだけの話よ、と付け加えれば、知りたがりの喋りたがりなコマドリには耐えられない。全員が全員激しく首を縦に振るのを見て、「なら、先にコールドマンさんについて、教えてもらえるかしら」と話の続きを催促する。
「そ、そうですね……。私たちも決して親しいとは言えないので、詳しいことは分からないんですが……」
「それでも構わないわ。あなたたちの見たままを教えてほしいの」
三人はつばを飲み込む。それからおずおずと手を上げるのは、これまでの雑談でロレッタと同じ教室に配属されたコマドリだ。
彼女は思い出すように視線をグルンと回しながら、そっとロレッタについて語り出す。
「その、私からみたコールドマンさんは……とても気高く、理知的な人でした」
嘘だぁ。
「そうなのかしら?」
「はい! その、私なんかに比べてもあまりに美しい人だって言うのもあるんですけど! ……それ以上に、強い意志を持っている人だなって」
「分かります! 私のクラスでもうるさい男子が居て、その男子がロレッタさんをお茶に誘ったときのハキハキとした断りっぷりに、私、痺れちゃったんです! 何ていうんでしょうか……強い女性だなっていうか、そこに憧れちゃうっていうか!」
「それにそれに! 授業中でもものすごい頭がいいんですよ! 数学の授業で誰も分からなかった問題を、三通りの方法で解いて見せたりするんです! それがもう格好良くて!」
「でも誰もお友達がいないんです。多分、必要としていないんでしょうね……それがまた美しいというか、ちょっとだけ寂しいというか。お近づきになりたい……」
矢継ぎ早にコマドリより語られるロレッタ・フロストバードの話に、フランとビンタの令嬢は顔を見合わせて戸惑いを共有する。
フランは思った。名前を間違えたかしら、と。
正直、フランの頭によぎるロレッタ像は、昨日のアルフィーに獣じみた威嚇をしていた知性のかけらも見られない女である。あれだけの美貌を真正面からかなぐり捨てたアホの子。それがフランにとってのロレッタ・フロストバードだ。
その後もピーチクパーチク喋くり倒すコマドリ達に、少なくともクラスに友達が一人もいないのは確からしいと、フランは推測する。孤高という認識はコマドリ三人で共有済みであり、かつ妙な幻想も砕かれていないためだ。
貴族は基本的に、ハイエルフの血をどこかで入れているため、大抵は美人だ。その中でも際立った美人であるロレッタは、それだけ美貌という魔法でもって彩られていると考えていい。
そこに、剣技やマナーを身に着けるだけの能力があれば、なるほど幻想は作られる。だが大抵の場合はここまでで、親しく付き合えば人格の不完全さより全て砕けるのだが――ロレッタには、その相手が居ない。
要するに、ロレッタの弱みとなる情報を握っている人間は存在しない、ということだ。アルフィーなら少しは知っているかもしれないが、こういった策謀に巻き込みたいとは思わない。
「それで」
コマドリの一人が、顔色を窺うように尋ねてくる。
「フランソワーズ様がコールドマンさんを気にするのは、その……」
「……そうね」
フランは少し考える。ロレッタは思いのほか、下級クラスではひそかな人気者であるらしい。となるとこき下ろすのはいい選択とは言えないし、そもそも彼女に実害の及ぶような事態はフロストバード辺境伯を刺激する可能性がある。
まずは、彼女の情報を得るための下準備をするのがいいだろう。なら、ここで渡す情報は、事実以上に控えめにすべきか、と当たりをつけて、フランは口を開く。
「確かに、コールドマンさんとワタクシの間にいくらか話し合いの場が設けられたのは事実よ」
「――ッ! と、ということは……!」
「ああ、勘違いをさせるようなことを言ってしまったかしら。一応前もって言っておくけれど、あなた達が想像するような派手なものではなかったわ」
コマドリ達は、互いに目配せあって少し肩透かしを食らったように「そう……なんですか?」と聞き返してくる。フランは深く頷いて「詳しく説明するわね」と語り掛ける。
「元々はコールドマンさんと、ワタクシの婚約者であるアルフィー殿下が不用意に近しくなってしまった、という噂が大元にあったのよ。ここまでは耳聡いあなた達なら知っているわね?」
コマドリ達は頷く。フランはそれを確認し続ける。
「実際それは正しかったのだけれど、ここからが面白いところで、コールドマンさんにそのことを聞いたら彼女なんて言ったと思う?」
「何て、言ったんですか?」
「アルフィー殿下を女の子だと思って、友達として接していたって」
「「「えぇ―――っ!」」」
コマドリ達は大声で驚きの声を上げた。うるさい、と感じつつも、フランは我慢で笑顔を保つ。
「そ、それ本当なんですか?」
そんなの奴の真っ赤な嘘に決まってるでしょうが。
「本当よ。確かにアルフィー殿下が愛らしいお顔をしているのは周知のことと思うけれど、ワタクシもそれを聞いてびっくりしてしまったの」
「な、なるほど……」
コマドリ達はにやにやしながら互いに目配せしあう。ビンタの令嬢が目線を送ってきたので、フランは小さく頷いてコマドリ達に念押しした。
「それで詳細に話を聞いたら、彼女友達が居ないって嘆いていたのよ。っていうのは、男ばかりに声を掛けられて、女の子の友達が全然できないって」
「え、それって……」
「ええ。それを聞いてね、ワタクシぜひともあなたたちに伝えたいなって思ったの。コールドマンさんがあれだけ美しくて、気高い人だって言うのは知っていたから、きっとそれが邪魔をしてしまっているのねって」
だから、お友達になってあげて、とフランがにっこり微笑むと、コマドリ達は嬉しげに返事をした。
――様を見なさい、ロレッタ・フロストバード。お前が初めから切り捨てていた余計な女友達を送り付けて、今まで以上にアルフィーに近づきにくくしてやったわ。とフランは心の中で高笑いだ。
その成果に満足したフランは、今日はこんなものかしら、とばかり紅茶に口をつける。そこでコマドリの一人が、「あ、そういえば話は変わってしまうのですが、一つお尋ねしたいことが」と質問を投げかけてくる。
「ええ、どうかしたかしら?」
「あの、実は最近気になっているのですが、『ナサニエル・フロスト』っていう生徒を知っていますか?」
「……いいえ、知らないわ」
ビンタの令嬢にも目線を送るが、彼女も知らないようで首を振り振り。するとコマドリの一人は「そうですか……」と釈然としない様子で目を伏せる。
しかし、妙に気になる話ではある。今まで話題に挙がっていたロレッタ・フロストバード。その姓と一部重なるところのある、『ナサニエル・フロスト』という名。フロスト、と一致点を脳内で復唱し、眉根を寄せてしまう。
「その名が、どうかしたのかしら?」
率直に尋ねると、「実はですね」と話題提起したコマドリが、水を得た魚のように、あるいは群れを前にした小鳥のように囀り始める。
「最近、その名前の人物を探している、という人が居るそうなんです。魔法特進クラスの人らしいんですけど……」
「魔法特進クラスの人間が、その『ナサニエル・フロスト』という人物を探している、ね」
ふむ、と頷いて見せると、他のコマドリが「その話知ってます!」と食らいついてくる。
「ハルト・アレクトロって人ですよね! 確か、伯爵家の次男とかいう」
「私も知ってます! 何でもいつも探しているとかいう話で、結構噂として回ってくるんです」
うんうん、と頷きあう三人に、フランとビンタ嬢は目配せをしあう。上級貴族クラスの方には、そういった話は回ってきていない。となると、その情報に格差に何かしらの事情があるとみるのが情報戦の基本だ。
「その話は、どうやって聞いたのかしら?」
「友達からです。情報の出どころとしては、下級クラスでその人に言われて『ナサニエル・フロスト』という女の子を探している、って女子が居るらしくて」
「その子の名前は分かるかしら」
コマドリ達は顔を合わせて、全員が首を振る。フランは「そう、なら仕方ないわね」と紅茶を一啜り。
図らずして有益な情報が手に入ったかもしれない、とフランは少しほくそ笑むような気持で、コマドリ達に微笑みかけた。
「面白い話だったわ、頭の隅に置いておくわね」
「はっ、はい! ありがとうございます!」
コマドリは嬉しげに返事をするそれに負けじと、他のコマドリ達も下級クラスについての耳より情報を話し出す。彼女たちも良いコマドリに育ちそうだ、とフランは微笑と共に相槌を打った。
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お茶会を終えていくらかビンタ嬢と意見を交換した後、フランは執務室の椅子から沈みゆく夕日を眺めていた。
ロレッタ・フロストバードに関しては、次の一手で解決するだろう。それは、女の勘に基づく推論だ。こういうのは外れた試しがないフランとしては、やっと一息つけるというもの。
その上でコマドリを未来の友人としてけしかけた以上、表立って反感を買うこともない。“友達”というものは、身動きのとりにくくなる命綱のようなものだ。いざという時には頼れるが、時として邪魔にも感じることがある。
「具体的には、コマドリから遊びのお誘いを受けたせいで、アルフィーに近寄りにくくなる、とかね」
人付き合いは、武器にもなれば制約にもなる。ロレッタはアルフィーこそ諦めざるを得なくなるものの、これからは充実した学園生活を送ることになるだろう。それを確認すれば、今回の件は一件落着だ。
「まったく、人付き合いというものは厄介なものね」
ロレッタをからかうように、同時に自嘲するように口元に笑みを浮かべる。フランがこうやって立ち回れるのは、ひとえに父の教育の賜物だ。全く頭が上がらない。
そんなことを考えていると、不意にコテージに降り立つ影が見えた。フランは何者か理解して扉を開けると、彼はいつもの口上を述べる。
「ひゃっほぅ! 託され降り立ち即配達! 伝書鳩郵便局のシニアポストマン、バルディッド・ロマンだ! お嬢! 御父上と学園長からお返事の手紙だぜ!」
「あら、早いのねありがとう。……ずいぶん多いわね」
「御父上からの手紙はだいぶ量があるから気をつけな! 学園長からは一通だけだ!」
「ハイハイどうも」
受け取って執務机にばらまく。まず父からの大量の書類を開けると、本名隠しの上で学園に入学する伝統を持った家名一覧、それらの家それぞれの細かい資料や、フランの本棚に入っている歴史書名、またそれぞれの家の現在の家系図などが入っていた。
「流石お父様ね、これだけの資料をたった二日でかき集めて送ってくるなんて、他の人では出来ないわ」
名簿を探せば、すぐにフロストバード家の名が見つかった。なので他の家の資料はあらかじめ除けておき、フロストバード辺境伯家についての資料を流し見し始める。
「『ブリタニア王国の冷たき氷壁についての勃興及び戦術記』は読んだわ。家族構成は家長が一人、妻が二人、どちらも今領地に居ないのね。それで子供が四人……」
末子にロレッタの名が連なっているのを確認する。それから一人一人見ていくと、フランはお目当ての名前を見つけて「やっぱりね」と呟いた。
次男、ナサニエル・フロストバード。凍える霊鳥より瞳を祝福されており、視界に入れた対象を凍り付かせることが出来る。またエルフの血が強く出たため、森の賢者へと出向しそこで研究の日々を送っている……。
「偽名、ってロレッタ・フロストバードは言っていたわね。確かにこの名前なら、女性と勘違いしても不思議ではない」
にしたって、ブリタニア王立学園に居ないにしろ、兄の名前とは随分お粗末な偽名があったものだ。となると、何か不都合な出来ことをしでかしたときに、とっさにロレッタはこの名前を使ったのだろう。そして、愚直にその名を探している人物がいる。
「つまり、ハルト・アレクトロという人物はロレッタ・フロストバードの弱みを握っている」
切り札になるかもしれないわね、とフランはニヤリと悪い笑み。女の勘がこれだ、と告げてくる。これこそがロレッタを封じるための最後の一手となるだろう、と。
「あとは、そのアレクトロが誰かを探るだけ、ではあるのだけれど……アレクトロ伯爵家、ねぇ。そんな家あったかしら」
そこからが問題である。フランも未知の部分の多い、魔法特進クラス。名前が分かっていても、どう呼び出したものかが他のクラスに比べ難しい。
「というか、ツテがないのよね」
魔法特進クラスは、その名を冠するだけあって通常の貴族クラスとはカリキュラムが多く異なっているという。つまり、様々な点で隔絶されているという事だ。例えば上級貴族クラスでは多く行われる治世教育も、下級クラスでは控えめ、特進クラスでは存在しないとか。
「どうしたものかしらね」
言いながら、父からもらった資料を整えて机にしまう。それからついでのように学園長の手紙を開けて、フランは凍り付いた。
そこに書いてあったのは、簡単な謝罪。それから「断れないお方からの~」に始まる言い訳と、申し訳程度に綴られた“二人の”名前だ。
片方は、偽名がロレッタ・コールドマン、本名をロレッタ・フロストバードであると。これはいい。無論のこと、知っている。
だが――もう片方は、想定外もいいところだ。
「……嘘、でしょ……?」
確かに、父からアレクサンドル大帝国より不審な入学生が居るという報告は受けていた。しかし、こんなことがあるのか、とフランの手が激しく震えだす。
そこに記されていた名前は、偽名がハルト・アレクトロ。そして本名が――ハルトヴィン・ディエゴ・“アレクサンドル”。
アレクサンドルを姓に持つのは、この世でたった一系のみ。アレクサンドル大帝国の皇帝を始めとした、覇権国家の主に連なる血統だけだ。そして、ハルトヴィンという名を持つ彼は、その中でも最も曰く付きの人物だった。
「あ、ああああ、あの、あのあのあの、『運命の、寵児』、が、暗殺騒ぎに飽き飽きして、ブリタニアに、亡命って、わけ……? ふ、ふふ、あはは」
ぶるぶる震えながら、フランは地面にへたり込んだ。胃がキリキリと痛み出す。「たすけてアルフィ~……」と弱弱しくフランは鳴いた。正直もう色々限界だった。